私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記
第二部
先ず、私が生まれて、物心が付いてからの生きてきた38度線以北の日本海側の朝鮮の情況を思い出しながら書いてみることにします。
私は北朝鮮の元山(ウォンサン)に生まれて父の転勤で京城を含め5ケ所の北朝鮮の日本海側の都市で暮らした経験ばかりです。父も母も挑戦に渡ったのは少年期のようで、親に連れられ明治時代に元山に渡っているようです。明治の終から大正年代は暴動もあって怖かったと母からよく聞かかされました。
私は昭和の初期の生まれなので、物心付いてハッキリ記憶が残っているのは昭和一桁の後半の頃からで、官立京城師範学校に行くまでは、38度線以北しかしりません。
だから一番名古い記憶は元山(ウォンサン)です。ここでは朝鮮人の不穏分子と言われる朝鮮人(男性)が特高に捕まるのを一度見ました。其の時は逮捕された家族がものすごく抵抗して殴り倒されている光景を見ました。それ以外は泥棒など犯罪行為で警官に連れて行かれるのを見た以外は何の異常も感じたことはありません。
と云う事は、その時代は植民地政策も安定期に入っていたのでしょう。
しかし、元山の湾内(確か・えいこう湾)は準軍港で軍艦が出入りしていましたし、昭和10年代に海軍航空隊の飛行基地が出来ましたので治安は厳しかったと感じています。
まず、元山で体験したことを書いてみます。
戦時を語るにも書きましたが、この元山で銀行の朝鮮人の小使いさん(用務員)のたっての要請で二度、ねいやさん(女中)を雇っています。恐らく生活に困って口減らしの為でしょう。
しかし、この二人とも、半年ほどで親に泣きながら連れていかれました。
その当時は幼くて意味が分かりませんでしたが、師範学校に入学して元山時代の思い出話の中で母が二人とも売られて行ったのだと話してくれました。
それで、なぜ泣きながら無理に連れていかれた意味が分かったのです。
結局、我が家にきて身ぎれいに成ったので高く売れたのでしょう。
当時は、人種の差別なく貧困家庭や親の借金で郭に身を沈める話はよくある話で、私の身内にも親が博打好きで借金を抱え、年季奉公に出されたが、半年ほどで身請けされたとバカ親が喜んでいると、親族会議で話をしているのをききました。大邸宅でないので子供たちは一つの部屋にかたまっていましたが、年長の従兄弟が、知ったかぶりで説明をしている姿は今でも覚えています。
此の元山には郭は二か所あり、父が赴任した小都市でも必ず一つは郭は有りましたから、この世に男と女が居る限り、男女の問題は永遠の課題だと思います。
私は、腎盂炎で体が弱く、よく此の、ねいやさんと留守番をしました。其の時教えてもらったのは、
「イゴリチョゴリガッコリ、ニンチンメンコトウメンコ」
意味は分かりませんが、日本のセッセッセの様なものだと思います。
二度の身売り事件のあとは、母は二度と朝鮮人のねえいさんは雇わなかったようです。
「売られていくためにねえやを身ぎれいにしているのではない」
と母は怒っていました。
当時の人身売買について説明すると、
まず当時は、日本人でも遊郭に売られていく(厳密には年季奉公といわれ、人身売買とは違うようで、借金を返済すると親元に帰ることができるのだが、遊郭の主人が手練手管を持ってなかなか借金が返せない様にしているのだと聞き及んでいます)事が法的に認められていた時代だったと言うことです。
身請けとは、旦那さん(お金持ち)が遊女の借金を全額払い、引き取って行く。ということは、お妾さんに成ると言うことなのでしょう。現代人には説明しにくい話ですみません。
注・元山くらいの都市になりますと、開発地区は日本人で日本人と朝鮮民族の居住区間は別れていたようです。
此の様な話を書くのは難しく。話が前後したり、誤字脱字はお許し下さい。
第二部
先ず、私が生まれて、物心が付いてからの生きてきた38度線以北の日本海側の朝鮮の情況を思い出しながら書いてみることにします。
私は北朝鮮の元山(ウォンサン)に生まれて父の転勤で京城を含め5ケ所の北朝鮮の日本海側の都市で暮らした経験ばかりです。父も母も挑戦に渡ったのは少年期のようで、親に連れられ明治時代に元山に渡っているようです。明治の終から大正年代は暴動もあって怖かったと母からよく聞かかされました。
私は昭和の初期の生まれなので、物心付いてハッキリ記憶が残っているのは昭和一桁の後半の頃からで、官立京城師範学校に行くまでは、38度線以北しかしりません。
だから一番名古い記憶は元山(ウォンサン)です。ここでは朝鮮人の不穏分子と言われる朝鮮人(男性)が特高に捕まるのを一度見ました。其の時は逮捕された家族がものすごく抵抗して殴り倒されている光景を見ました。それ以外は泥棒など犯罪行為で警官に連れて行かれるのを見た以外は何の異常も感じたことはありません。
と云う事は、その時代は植民地政策も安定期に入っていたのでしょう。
しかし、元山の湾内(確か・えいこう湾)は準軍港で軍艦が出入りしていましたし、昭和10年代に海軍航空隊の飛行基地が出来ましたので治安は厳しかったと感じています。
まず、元山で体験したことを書いてみます。
戦時を語るにも書きましたが、この元山で銀行の朝鮮人の小使いさん(用務員)のたっての要請で二度、ねいやさん(女中)を雇っています。恐らく生活に困って口減らしの為でしょう。
しかし、この二人とも、半年ほどで親に泣きながら連れていかれました。
その当時は幼くて意味が分かりませんでしたが、師範学校に入学して元山時代の思い出話の中で母が二人とも売られて行ったのだと話してくれました。
それで、なぜ泣きながら無理に連れていかれた意味が分かったのです。
結局、我が家にきて身ぎれいに成ったので高く売れたのでしょう。
当時は、人種の差別なく貧困家庭や親の借金で郭に身を沈める話はよくある話で、私の身内にも親が博打好きで借金を抱え、年季奉公に出されたが、半年ほどで身請けされたとバカ親が喜んでいると、親族会議で話をしているのをききました。大邸宅でないので子供たちは一つの部屋にかたまっていましたが、年長の従兄弟が、知ったかぶりで説明をしている姿は今でも覚えています。
此の元山には郭は二か所あり、父が赴任した小都市でも必ず一つは郭は有りましたから、この世に男と女が居る限り、男女の問題は永遠の課題だと思います。
私は、腎盂炎で体が弱く、よく此の、ねいやさんと留守番をしました。其の時教えてもらったのは、
「イゴリチョゴリガッコリ、ニンチンメンコトウメンコ」
意味は分かりませんが、日本のセッセッセの様なものだと思います。
二度の身売り事件のあとは、母は二度と朝鮮人のねえいさんは雇わなかったようです。
「売られていくためにねえやを身ぎれいにしているのではない」
と母は怒っていました。
当時の人身売買について説明すると、
まず当時は、日本人でも遊郭に売られていく(厳密には年季奉公といわれ、人身売買とは違うようで、借金を返済すると親元に帰ることができるのだが、遊郭の主人が手練手管を持ってなかなか借金が返せない様にしているのだと聞き及んでいます)事が法的に認められていた時代だったと言うことです。
身請けとは、旦那さん(お金持ち)が遊女の借金を全額払い、引き取って行く。ということは、お妾さんに成ると言うことなのでしょう。現代人には説明しにくい話ですみません。
注・元山くらいの都市になりますと、開発地区は日本人で日本人と朝鮮民族の居住区間は別れていたようです。
此の様な話を書くのは難しく。話が前後したり、誤字脱字はお許し下さい。