私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記
第三部 吉州編 その一
次に移った都市は、吉州です。
ここは、巨大なパルプ工場があり中くらいの都市だった。日本人の居住者はパルプ工場せいか多かったようです。
父は、ここの銀行の支店長代理で赴任しました。そして此所の支店長は東大卒の朝鮮の方なので朝鮮人でも支店長になれるのだと日本人の子供としてはびっくり。
また、邑長(郡長だと思います)も朝鮮民族でした。なぜに覚えているかといいますと。護憲+の戦時中を語るにも書いていますが、出征兵士を送る時、神社に壮行会に集まった時に、「天皇陛下ばんざい」を「でんのうへいがぱんちゃい」と訛ったので、それを真似して一斉に「でんのうへいがぱんちゃい」と全生徒がやらかして、大爆笑。その為、学校へ戻ってから長い間、説教と講堂に正座させられたので、今もって忘れられない思い出として残っています。
ここでは私たち家族の住居は、日本民族と朝鮮民族が混在している場所で、朝鮮人の出産に産婆さんが間に合わず、近所の朝鮮の方が母に助けを求めてきて無事出産を終えてからは、我が家と、ご近所の朝鮮民族の家族の関係は、以前にまして、ものすごく良くなったと言うことは、民族間でも人間同士の付き合いをしていると、個人個人の間では何の垣根もないと言うことの証明だと思います。
母は、ここでキムチやカクテキの付け方を教わって、朝鮮民族と同じように大きな土瓶を土中に埋めてキムチを漬けていました。
キムチはヤンバンサラミ(お金持ち)ほど高級材料を使うのでおいしいキムチができるそうです。
転勤で次の都市の城津に行く時は、近所のオモニ(おばちゃん)は喜んで母のつけたキムチを分けていました。
ここで、見た光景の一つは、この(町内)の中で娘さんが売られていきました。冬休みの出来事です親子ともども泣いていましたが、やはり生活に困窮していたのでしょう。
連れていった女衒は日本人ではありません。朝鮮民族の男でした。
第三部 吉州編 その一
次に移った都市は、吉州です。
ここは、巨大なパルプ工場があり中くらいの都市だった。日本人の居住者はパルプ工場せいか多かったようです。
父は、ここの銀行の支店長代理で赴任しました。そして此所の支店長は東大卒の朝鮮の方なので朝鮮人でも支店長になれるのだと日本人の子供としてはびっくり。
また、邑長(郡長だと思います)も朝鮮民族でした。なぜに覚えているかといいますと。護憲+の戦時中を語るにも書いていますが、出征兵士を送る時、神社に壮行会に集まった時に、「天皇陛下ばんざい」を「でんのうへいがぱんちゃい」と訛ったので、それを真似して一斉に「でんのうへいがぱんちゃい」と全生徒がやらかして、大爆笑。その為、学校へ戻ってから長い間、説教と講堂に正座させられたので、今もって忘れられない思い出として残っています。
ここでは私たち家族の住居は、日本民族と朝鮮民族が混在している場所で、朝鮮人の出産に産婆さんが間に合わず、近所の朝鮮の方が母に助けを求めてきて無事出産を終えてからは、我が家と、ご近所の朝鮮民族の家族の関係は、以前にまして、ものすごく良くなったと言うことは、民族間でも人間同士の付き合いをしていると、個人個人の間では何の垣根もないと言うことの証明だと思います。
母は、ここでキムチやカクテキの付け方を教わって、朝鮮民族と同じように大きな土瓶を土中に埋めてキムチを漬けていました。
キムチはヤンバンサラミ(お金持ち)ほど高級材料を使うのでおいしいキムチができるそうです。
転勤で次の都市の城津に行く時は、近所のオモニ(おばちゃん)は喜んで母のつけたキムチを分けていました。
ここで、見た光景の一つは、この(町内)の中で娘さんが売られていきました。冬休みの出来事です親子ともども泣いていましたが、やはり生活に困窮していたのでしょう。
連れていった女衒は日本人ではありません。朝鮮民族の男でした。