第6部 京城と総括編 その1
同窓会誌の中に、朝鮮の鉄道駅名の図形がありましたので、貼付けておきます。
その1北部編(咸鏡北道) (ここをクリック)
その2南部編(咸鏡南道) (ここをクリック)
師範学校の寮生活で体を悪くして下宿生活をすることになりました。
町の名前は長谷川町、母からの最後の手紙を持っているので其処の住所はそれに書いていますが、何故だかこの頃の記憶は忘れていません。
その場所は,朝鮮総督府前の大通りを南大門に向かってY字道路の分かれた突き当たり所に有りました、そして、そこは中華街になっていて、その真ん中に下宿はありました。
周りは中国人の中華料理屋が2~30軒ほどかたまっていて、今でいう横浜や神戸の中華街程では有りませんが、中国人租界の様な感じになっている場所で、食料事情が悪いときでも、裏に回れば結構何でもあったのが今でも不思議な感じがしております。
気を許せる様に成ると、マントウ(豚マン)も手に入り、お陰で此処に下宿してからは、お金さえあれば余り腹ぺこは経験していません。
ここの下宿は、京城帝大それに京城歯科医専と京城師範の生徒が20人程下宿していたと記憶しています。
少し当時の師範学校について説明をすると、京城師範は朝鮮では唯一官立でしたので、毎月官費は国家から支給されていました。
確か、当時の先生の初任給は60円ほどでしたからその70%ぐらいで、毎月の下宿代を支払ってもお釣りがくる金額40か45円程だと記憶しております。(現在の先生の初任給から計算してみて下さい)
ですから、官費が支給されると、下宿の二回から中華屋のおっさんに声をかけ、二階の窓からマントウや餃子を手渡してもらったものでした。
あの物資の少ない時に、彼等は民族間の裏で何かがあったのだと思います。
いま思い出すと、昭和19年の冬休み前に一人の中華屋のオーナーの中国人が、憲兵に殴られ連れていかれました。聞くともうこの戦争は終わると言っていたのが官憲の耳に入って連れていかれたらしいのです。
恵山鎮編に書いた、父に朝鮮人の行員の一人が、「日本は長くは持たない」と言いっていた事を合せて考えると、この時、昭和19年後半頃から朝鮮の地下組織動きが活発に成って来たのだと思います。
同窓会誌の中に、朝鮮の鉄道駅名の図形がありましたので、貼付けておきます。
その1北部編(咸鏡北道) (ここをクリック)
その2南部編(咸鏡南道) (ここをクリック)
師範学校の寮生活で体を悪くして下宿生活をすることになりました。
町の名前は長谷川町、母からの最後の手紙を持っているので其処の住所はそれに書いていますが、何故だかこの頃の記憶は忘れていません。
その場所は,朝鮮総督府前の大通りを南大門に向かってY字道路の分かれた突き当たり所に有りました、そして、そこは中華街になっていて、その真ん中に下宿はありました。
周りは中国人の中華料理屋が2~30軒ほどかたまっていて、今でいう横浜や神戸の中華街程では有りませんが、中国人租界の様な感じになっている場所で、食料事情が悪いときでも、裏に回れば結構何でもあったのが今でも不思議な感じがしております。
気を許せる様に成ると、マントウ(豚マン)も手に入り、お陰で此処に下宿してからは、お金さえあれば余り腹ぺこは経験していません。
ここの下宿は、京城帝大それに京城歯科医専と京城師範の生徒が20人程下宿していたと記憶しています。
少し当時の師範学校について説明をすると、京城師範は朝鮮では唯一官立でしたので、毎月官費は国家から支給されていました。
確か、当時の先生の初任給は60円ほどでしたからその70%ぐらいで、毎月の下宿代を支払ってもお釣りがくる金額40か45円程だと記憶しております。(現在の先生の初任給から計算してみて下さい)
ですから、官費が支給されると、下宿の二回から中華屋のおっさんに声をかけ、二階の窓からマントウや餃子を手渡してもらったものでした。
あの物資の少ない時に、彼等は民族間の裏で何かがあったのだと思います。
いま思い出すと、昭和19年の冬休み前に一人の中華屋のオーナーの中国人が、憲兵に殴られ連れていかれました。聞くともうこの戦争は終わると言っていたのが官憲の耳に入って連れていかれたらしいのです。
恵山鎮編に書いた、父に朝鮮人の行員の一人が、「日本は長くは持たない」と言いっていた事を合せて考えると、この時、昭和19年後半頃から朝鮮の地下組織動きが活発に成って来たのだと思います。