07/08/20 ごまめのブログ 第二部
雪印・不二家・ミートホープ・今回の石屋製菓の白い恋人問題。私は氷山の一角の事件で、日本中を検証すればもっとゾロゾロと出てくると思っている。
なぜなら、巷には食べ物が溢れている。消費者に迷惑をかけるのは駄目ということかも分からないのと、儲けを追求するあまりに消費以上の製品を作る。浮気な消費者は好みがかわると違うものに飛びつく、売れない製品は余ってくるのは当たり前だ。
身内がコンビニをやっている。賞味期限切れの食品が毎日たくさん出て、ゴミ箱に捨てられている。
その中には、まだ食べられるものも沢山あるのだが、それを売るわけにはいかない。
私の年代の人間は、豚のえさにでもと思うが、良質の食肉にするには飼料も厳選しなければならない社会のようだ。
小売店では、賞味期限のシールを張り替えるくらいしか誤魔化しが利かない。
製造会社では冷凍庫の中でも期限切れは使えない社会構造に成っているのが現状なのだろう。
だから食品製造会社の経営は返品や廃棄物が多いと言うことは、倒産にもつながるので、賞味期限の過ぎたものでも使うことに成るのだろう。
先日、日本の食料自給率は40%を割ったという。まだ食べられるものでも破棄する社会,食に就いて国を挙げて真剣に考えるときがきていると思う。
ちなみに、私たち子供の頃の食生活を考えてみる。
私の家は、当時としては裕福な部類に入るのだろう。母が料理と和洋裁を娘さんたちに花嫁修業で教えていたので、当時としては珍しい、小売りを入れて冷やす冷蔵庫もあり銅で作ったオーブンが有ったが、食生活は贅沢ではなかった。
考えてみると、晩ご飯のお惣菜も一汁一菜が基準で、その量も多くはなかった。港から離れた都市では鮮魚などは手に入らないので、魚などは干物が多かったように思う。
だから子供の頃は、お造り(刺身)などは食べたことがない。現在は子供の身分で大トロが良いとか、このヒラメは美味しいとか言って食べているが、保存技術の発達と医学発達で子供たちにもお造りを食べさせているのだろう。
果物でも子供はリンゴぐらいしか口に入らなく、大きくなって、梨から桃へと段階が上がったようだ。
特に戦時中の弁当は、週に一日は学校の決まりで日の丸弁当の日(四角い弁当箱の真ん中に、梅干し一つ)があり、現在の塩鮭の三倍ほど辛い小さな切り身が一つあれば最上級のおかず。
戦争も佳境に入ると、麦ご飯から粟御飯、コウリャン(高粱イネ科の一年草)だんだんとお米が少なくなり、代用食の日もあった。
冬などは前の晩のおかずの残り物。夏は保存が利かないので朝炊きのご飯。
よく考えると、保存技術が発達して食生活が贅沢になったのは確実だ、それに伴い期限切れの食品廃棄物が増えたと思う。
もう、40年前の話だが、長女が三歳くらいの頃、近所のお婆さんの家で、おじや(ぞうすい)をご馳走になって帰ってきた。聞くと、ちょっと匂いのするご飯をよく水洗いして作った雑炊だったようだ。
私たちの年代の者は理解できるが、現代人ですと、損害賠償を訴える人間が居るだろう。
因に、この長女元気に育ち、3年前から家族でホノルルマラソンで走っている。
昔のように、食べ残しは腐るので、余分な食べ物を作らない生活をすれば、食べ物に関する考え方が変わってくるのかなと思いながら、昔の戦時中の食生活の一部を書いてみた。
雪印・不二家・ミートホープ・今回の石屋製菓の白い恋人問題。私は氷山の一角の事件で、日本中を検証すればもっとゾロゾロと出てくると思っている。
なぜなら、巷には食べ物が溢れている。消費者に迷惑をかけるのは駄目ということかも分からないのと、儲けを追求するあまりに消費以上の製品を作る。浮気な消費者は好みがかわると違うものに飛びつく、売れない製品は余ってくるのは当たり前だ。
身内がコンビニをやっている。賞味期限切れの食品が毎日たくさん出て、ゴミ箱に捨てられている。
その中には、まだ食べられるものも沢山あるのだが、それを売るわけにはいかない。
私の年代の人間は、豚のえさにでもと思うが、良質の食肉にするには飼料も厳選しなければならない社会のようだ。
小売店では、賞味期限のシールを張り替えるくらいしか誤魔化しが利かない。
製造会社では冷凍庫の中でも期限切れは使えない社会構造に成っているのが現状なのだろう。
だから食品製造会社の経営は返品や廃棄物が多いと言うことは、倒産にもつながるので、賞味期限の過ぎたものでも使うことに成るのだろう。
先日、日本の食料自給率は40%を割ったという。まだ食べられるものでも破棄する社会,食に就いて国を挙げて真剣に考えるときがきていると思う。
ちなみに、私たち子供の頃の食生活を考えてみる。
私の家は、当時としては裕福な部類に入るのだろう。母が料理と和洋裁を娘さんたちに花嫁修業で教えていたので、当時としては珍しい、小売りを入れて冷やす冷蔵庫もあり銅で作ったオーブンが有ったが、食生活は贅沢ではなかった。
考えてみると、晩ご飯のお惣菜も一汁一菜が基準で、その量も多くはなかった。港から離れた都市では鮮魚などは手に入らないので、魚などは干物が多かったように思う。
だから子供の頃は、お造り(刺身)などは食べたことがない。現在は子供の身分で大トロが良いとか、このヒラメは美味しいとか言って食べているが、保存技術の発達と医学発達で子供たちにもお造りを食べさせているのだろう。
果物でも子供はリンゴぐらいしか口に入らなく、大きくなって、梨から桃へと段階が上がったようだ。
特に戦時中の弁当は、週に一日は学校の決まりで日の丸弁当の日(四角い弁当箱の真ん中に、梅干し一つ)があり、現在の塩鮭の三倍ほど辛い小さな切り身が一つあれば最上級のおかず。
戦争も佳境に入ると、麦ご飯から粟御飯、コウリャン(高粱イネ科の一年草)だんだんとお米が少なくなり、代用食の日もあった。
冬などは前の晩のおかずの残り物。夏は保存が利かないので朝炊きのご飯。
よく考えると、保存技術が発達して食生活が贅沢になったのは確実だ、それに伴い期限切れの食品廃棄物が増えたと思う。
もう、40年前の話だが、長女が三歳くらいの頃、近所のお婆さんの家で、おじや(ぞうすい)をご馳走になって帰ってきた。聞くと、ちょっと匂いのするご飯をよく水洗いして作った雑炊だったようだ。
私たちの年代の者は理解できるが、現代人ですと、損害賠償を訴える人間が居るだろう。
因に、この長女元気に育ち、3年前から家族でホノルルマラソンで走っている。
昔のように、食べ残しは腐るので、余分な食べ物を作らない生活をすれば、食べ物に関する考え方が変わってくるのかなと思いながら、昔の戦時中の食生活の一部を書いてみた。