関東暮らし

関西人から見た関東暮らしの出来事を記す

谷中を歩いた

2015年07月26日 | 日記

〈旧因州池田屋敷表門黒門〉

5月30日(土)自治体問題研究所の総会(写真)に参加した。
上野公園にある東京文化会館が会場だったので、山手線の鶯谷で降りて、
歩いて会場までいったが、その途中に「日本レース鳩協会」があった。
土曜日だったので閉まっていた。


帰りは、東京芸大の横をとおり、上野桜木町、谷中霊園を抜けて日暮里駅までの散歩となった。
谷中霊園には、変わった墓石がたくさんあり、興味がわいた。

(谷中霊園)

(写真↓ 自治研総会)

ポツダム宣言について

2015年07月26日 | 日記
5月22日のメモ
5月20日の国会に日本共産党志位委員長との党首討論で、安倍首相は「ポツダム宣言をつまびらかに読んだことはない」と言い放った。

私たちは、税金を払っている。
それを武器の購入に使うことを拒否したい。
それだけでなく、戦争法が成立すれば、具体的に海外で人を殺す行為にまで加担することになる。
主権者として、一人ひとりが意思を持って、拒否を表明しなければならない。
しかも、その「加担」を強制するのが、ポツダム宣言さえ読まずに否定する安倍。
ポツダム宣言の背景には、第二次世界大戦での数千万人の犠牲者がいることを忘れてはならない。
・・・一国の首相が、それを「読んだことがない」とは、犠牲者への侮辱であり、日本人として恥辱に耐えない。

ポツダム宣言の一部(第6項)を引用しておく…
「日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。
従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである」

5月23日(土)から24日(日)にかけて西宮へ帰宅
(写真↓・いつも乗車する新幹線700系車両)


5月27日(水)朝から国会へ。10:30から消費税増税中止を求める院内集会。
昼には国会前集会で司会をすることになった

5月29日(金)午後は、農民運動全国連合会の学習会に参加

(写真↓ 道にせりだす樹木)

原発被曝の現場へ

2015年07月26日 | 日記

〈あの日から一本の電車も通らない常磐線:浪江町〉

5月18日(月)福島の被災地調査に参加してきた。
避難区域になっている浪江町に入り、
福島第一原発に5kmの地点まで行った。

南相馬市から国道6号線で南下したが、
原発に近いところでは、駐停車禁止、そして車の窓は締め切り、
スピードも必要以上に落としてはいけない、などの規制があるのだそうだ。
浪江町に入ると海沿いの地域は、5年目にもなるのに、
ようやくガレキ処理ができたころ、まだ解体もされない建物が多く残っていた。
 
 
 
その一つでもある請戸地区の請戸小学校の跡には、建物の中まで入ることができた。

〈請戸小学校跡〉

学校は、鉄筋コンクリート造りの堅牢なものだが、
三階まで津波をかぶり、その時のままのすがたで残されていた。
 

当時の生徒と先生たちはいち早く1キロ以上も先の高台(城跡)へ避難したので、
全員無事だったとのことだが、
講堂には準備が終わったばかりの卒業式の看板がそのまま吊るしてあり、
一方床は落ち込んで朽ち果てていた。

〈教室の黒板には、支援の人たちがメッセージを〉


〈時計台は、津波の到来時刻をさしたままだった〉

そんな事態になったのは、すべて原発事故・放射能汚染が原因ということが、
悲しく腹立たしい現実なのだ。
浪江町の市街地も商店街には人影はない。


町役場も日中のみ職員が出勤し仕事をしている。
町役場にしては堅牢壮大な建物だと感心したが、
かつての「原発マネー」のなせる技だったそうだ。
原発は、何を犠牲にして大手を振って進出したのか、
「安全神話」で事故を招き、何を犠牲にしたのかが、よくわかる光景だった。

肉眼で見えるギリギリの場所で車を降りて、第一原発を目視した。

〈中央の山の向こうに白い建物と塔が見える〉

〈写真↓ 福島市から浪江町へ向かう途中の飯館村も住民は避難:除染の残土が積み上げられている〉



〈写真↓ 南相馬市の小高町にある鈴木安蔵(「憲法草案要綱」を提案)の生家に立ち寄った〉
  


5月21日(木)国会前で、戦争法案反対を呼びかける集会に参加。
そこでのシュプレヒコールの一節に共感した
→「戦争下請け絶対反対!」