ヒロコのブログ

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兄が来た

2015-08-31 09:18:19 | 日常の出来事
 昨日お昼前に兄が自転車で突然来たので吃驚した。電話しても留守電だし寝てるものとばかり思っていた。難聴で免許は更新できず、もっぱら自転車だ。
 よう解ったなと思ったが兄は播磨町の地図見て公園、薬局がありすぐわかったと言った。
自分で地図もて調べたんだ。

 義姉の初盆のお供えの返しを持って来たんだ。しばらくして話て帰ったが、無事帰ったかと姪に電話してもこれまた留守電だ。メッセ-ジを入れておいたら5時頃姪から無事に帰宅した旨電話があった。兄は食べないので要らないと言ったが、ふるさと会のメロンとコ-プの宅配のゴ-ルドキィウイを上げた。

 兄はうさぎちゃんより10歳上の90歳、義姉のお葬式の時より一段と老けていた。体は元気そうだったが。
暫く話して帰った。子供の頃うさぎちゃんのお守をしたことはなしてくれた。乳母車に乗せて引っ張ったこと等。これは母から聞いたのだが坂の上から乳母車放し、転がるのを見て遊んでいたそうだ。それがしたくて乳母車を引っ張っていたんだ。その際乳母車がひっくり返っていたら、今のうさぎちゃんはいなかっただろうね。

 ただ、兄は早くから耳が遠くなり補聴器付けている。補聴器も変えるごと高くなり今は片方で30万ほどするそうだ。今日は付けてくるのを忘れたので大きい声で言わなければ聞こえないといった。

 うさぎちゃんは最初の13万余りだが、変わるたび高くなるそうだ。
うさぎちゃんも気を付けて、出来るだけ現状維持でいきたい。

 脊柱管狭窄症も早くからなり、片足で運転していた。それでも義姉の買い物には乗せて行っていた。聞くと未だ痛いそうだ。痺れてないので自転車には乗れる。24ぐらいかな、電動自転車に乗っていた。
 義姉の入院中にこの自転車を買い国道を病院へ行っていた。事故が起きたら怖いなあ、、と思っていたがまあ無事だった。

 又兄は家にいると寝てばっかりなので、子供に火曜日と土曜日に土山へディサ-ビスに行かされている。10時から4時までだそうだ。体操は10種類する。器具を使うのが7種類、後は自分ですると言っていた。

 炊事ができないので朝昼兼用でパン、果物等そのまま食べられるもの。夕食はお弁当を取っているそうだ。土、日はお弁当が休みなので姪のうちに行くそうだ。屋敷内に姪がいるので安心だ。

 又兄は一人になったら淋しいとも言っていた。どこへ行くのも二人で行っていたんだから余計さびしんだろうね。

 帰りは来た道と反対の道帰ると言ったが、その道は車がよく通るので危ない。来た道帰りと言うとそうすると言って帰っていったがうさぎちゃんの思うように田んぼ道帰ったのやら、、
どの道帰っても帰れる。

 うさぎちゃんは夫が亡くなってかれこれ4年になるが、淋しいと思ったことはない。
いまだに涙が出たこともない。

 涙を流す暇もなくお葬式に続いていろいろの行事がある。とどこうりなく済ませるのに神経を使う。
亡夫の親戚が次々お詣りに来て下さる。その応対にも気を使う。
お寺さんにお詣りして貰うのが一番気楽だった。

 母の逝った時も、看取ったのに涙は出なかった。
母の初盆にお盆のご馳走をお膳いっぱいに並べ、「さあ、お母ちゃん一緒に食べようね」と言ったら初めて涙が出た。母は最期は食べられづに逝ったのでせめてもと思った心づくしだ。
うさぎちゃんは人と違いそんな感情がないのかな?と思ったりする。

 又兄は一人やったら力仕事もせんならんしたいへんやなといったが、亡夫は家の事は何一つしなかったので、今まで通りするので変わりない。亡夫のすることはお給料をみんな使うこと、うかうかすると家のまで持ちだすことぐらいだ。
 ちょいちょい友達を呼んで飲む。そして泊まっていく。朝食を済まして帰る。それから出勤だ。

 何時もどうしてあんな人に育ったのかと思うが、学生時代から授業料の2~3倍も貰って通学、亡夫いわく2年生までは真面目に通学した。3年生ごろから三宮で3本立ての映画を見て喫茶店で時間をつぶしたて遊んでいたそうだ。そもそも京都まで通学が無理だったんだ。姑が末っ子だったので下宿させず通学させていた。
 まあ、育ちもあるとしても本人の自覚だよね。

 今更、繰りごといっても仕方無い。うさぎちゃんは働くように出来ていたんだ。
母は働くとはどういうことか知らない家庭で育ったので、家事と子育てがせい一杯の人だッた。
若いころは人も雇えたが父が亡くなってからはそれもならず自分で出来るだけしていた。

 こんな母を見ていたので、うさぎちゃんは何でも自分でするようになったと思う。