一般に追われる立場というものは弱いものである。旧弊を打破して浮かび上がって来る新興勢力には何よりも勢いというものがある。先日女流囲碁の公開タイトル戦を見ていたら、解説の小林覚九段が『武宮vsチョ・フニョン』の国際棋戦に触れて、局後の感想で武宮九段が「仮令負けてもここはこう打ちたい」と言った言葉に韓国棋界のトップクラスの打ち手であるチョ九段は「負けたら何にもならないだろう??」とその言葉の真意を測りかねたという逸話を紹介していた。これは日本では広く通用している一種の「美学」であって、石の姿形を「命」として重んじるプロ棋士たちが頻繁に口にする言葉である。「負けても勝ってもここはこの一手。死んでもそんな手は打てない」などと言うわけだが、そんなものは得手勝手な思い込み、硬直した独善的美意識に過ぎないかも知れない。考えるまでもなく囲碁であれ将棋であれ勝敗を争い雌雄を決するゲームである以上負けてはなんにもならない。「結果を出す」のがプロというものの宿命だ。「負けたら駄目だろう?!」とチョ九段が理解不能だったのも頷けるところである。プロである以上勝負に拘って当然だが、日本では将棋界でも「将棋に勝って勝負に負けた」などという言葉があるように途中図までの内容の充実度を殊の外重視する傾向がある。他方以前紹介したように「何で勝っても勝ちは勝ち」と時の木村名人に対して嘯いた棋士の逸話もあるくらいで、やはり勝敗にはとことん拘ってもいるのである。プロなら「勝ってナンボ」である。しかし勝負ごとには勝者もあれば敗者もある。昔戦いに敗れた敗軍の将が「芸は俺の方が上だよな?」と酔って管を巻いたという話は有名である。負け惜しみである。敗れたのは坂田栄寿当時本因坊で、勝ったのは当時新進気鋭の「コンピューター・石田九段」である。 . . . 本文を読む