チベット問題、中国がインドに「感謝」(読売新聞) - goo ニュース
「造反有理」という言葉がある。中国の文化大革命の時、毛沢東に導かれた紅衛兵が掲げたスローガンである。ここではあまり政治的な意味では使いたくないが、中国の政策に対する今のチベットの反乱を見て、ふとそんな言葉を思い出した。「ノー!」と言って反旗を翻す行動に出るということはそれなりに意味があるということである。そして、今は有無を言わせずにチベットの鎮圧に望んでいる中国が、かつてはそう言って各国の植民地支配から立ち上がったのである。 一方の中国の指導者たちは「ダライ・ラマは僧侶ではない。扇動者である」といい、一方、ダライ・ラマ側は彼ら独自の已むにやまれぬ抗議の運動であると言っている。
マルクスの予言とは違って、レーニンらが始めた一国社会主義というものが本当に社会主義と定義できるものなのかどうかという問題もあるが、本来の社会主義や共産主義というものが単なる資本主義へのアンチテーゼではなくて、資本主義的個人主義や私的所有主義を超えたその先にあるものとするならば、すでに崩壊したソ連の社会主義体制や今の中国の社会主義制度なるものは、到底本来の意味での社会主義と言える代物ではないばかりでなく、きわめて悪しき全体主義的国家主義と言わざるを得ないであろう。
中国は今、後数ヶ月に迫ったオリンピックの成功に躍起になっている。チベットの反乱に対する鎮圧や報道管制もそこから来ている。やらせまでやって見せて、世界各国に中国の平安ぶりをアピールしている。だが、そこに人権はあるか、民主主義はあるか…それが問題である。どんな国家体制の違いはあっても、しれが正常に機能しているかどうかがその国家を判断する際の試金石である。その意味で、今の中国の対応には大いに疑問がある。
中国は一枚岩ではない。国家指導部と民間では大いに違うこともある…というのは事実だろうが、現実に、海外の報道が中国国内では改変させて伝えられたり、全く報道されていなかったり、本来自由なメディアであるはずのインターネットが国家の検閲の対象になっている(それを国民は知っているのか?)というこいうことは、やはり中国国家の全体の問題として考えないわけにはいかない。
実際に中国は今どういう状態にあるのか、何をどうすることが急務なのか、各国のスポーツ選手が集うオリンピックはそれを明らかにする絶好の機会となることであろう。その意味で、現在の中国の対応には批判の声は上げるとしても、各国のスポーツ選手はあえて「政治とは無関係」と言わずに、それぞれの国の文化使節でもあることを自覚した行動を期待したいものである。それが今後の中国の発展のためでもあろう。オリンピックはスポーツの祭典であると同時に地球規模での文化の祭典でもあるだろう。
ジョージ・オーウェルに『1984年』という有名な小説がある。そこではビッグ・ブラザー」という独裁者が国家を支配し、人々の行動を監視し、命令を下す。本来はスターリンがモデルらしいが、こういう社会はインターネットなどが高度に発達した近未来の社会でこそ現実にあり得ることである。
「造反有理」…この言葉の意味するところを改めて考えてみたいところである。
「造反有理」という言葉がある。中国の文化大革命の時、毛沢東に導かれた紅衛兵が掲げたスローガンである。ここではあまり政治的な意味では使いたくないが、中国の政策に対する今のチベットの反乱を見て、ふとそんな言葉を思い出した。「ノー!」と言って反旗を翻す行動に出るということはそれなりに意味があるということである。そして、今は有無を言わせずにチベットの鎮圧に望んでいる中国が、かつてはそう言って各国の植民地支配から立ち上がったのである。 一方の中国の指導者たちは「ダライ・ラマは僧侶ではない。扇動者である」といい、一方、ダライ・ラマ側は彼ら独自の已むにやまれぬ抗議の運動であると言っている。
マルクスの予言とは違って、レーニンらが始めた一国社会主義というものが本当に社会主義と定義できるものなのかどうかという問題もあるが、本来の社会主義や共産主義というものが単なる資本主義へのアンチテーゼではなくて、資本主義的個人主義や私的所有主義を超えたその先にあるものとするならば、すでに崩壊したソ連の社会主義体制や今の中国の社会主義制度なるものは、到底本来の意味での社会主義と言える代物ではないばかりでなく、きわめて悪しき全体主義的国家主義と言わざるを得ないであろう。
中国は今、後数ヶ月に迫ったオリンピックの成功に躍起になっている。チベットの反乱に対する鎮圧や報道管制もそこから来ている。やらせまでやって見せて、世界各国に中国の平安ぶりをアピールしている。だが、そこに人権はあるか、民主主義はあるか…それが問題である。どんな国家体制の違いはあっても、しれが正常に機能しているかどうかがその国家を判断する際の試金石である。その意味で、今の中国の対応には大いに疑問がある。
中国は一枚岩ではない。国家指導部と民間では大いに違うこともある…というのは事実だろうが、現実に、海外の報道が中国国内では改変させて伝えられたり、全く報道されていなかったり、本来自由なメディアであるはずのインターネットが国家の検閲の対象になっている(それを国民は知っているのか?)というこいうことは、やはり中国国家の全体の問題として考えないわけにはいかない。
実際に中国は今どういう状態にあるのか、何をどうすることが急務なのか、各国のスポーツ選手が集うオリンピックはそれを明らかにする絶好の機会となることであろう。その意味で、現在の中国の対応には批判の声は上げるとしても、各国のスポーツ選手はあえて「政治とは無関係」と言わずに、それぞれの国の文化使節でもあることを自覚した行動を期待したいものである。それが今後の中国の発展のためでもあろう。オリンピックはスポーツの祭典であると同時に地球規模での文化の祭典でもあるだろう。
ジョージ・オーウェルに『1984年』という有名な小説がある。そこではビッグ・ブラザー」という独裁者が国家を支配し、人々の行動を監視し、命令を下す。本来はスターリンがモデルらしいが、こういう社会はインターネットなどが高度に発達した近未来の社会でこそ現実にあり得ることである。
「造反有理」…この言葉の意味するところを改めて考えてみたいところである。