
▼かつてアウトドアが好きな若者たちの間で、野山で使用する便利な道具として十徳ナイフというものがもてはやされたことがある。缶切り、ナイフ、栓抜き、コルク抜き、ドライバー、ヤスリ、スプーン、フォーク、爪楊枝、ハサミ…などが揃っていた。秋葉原事件のように現代の危ない若者が秘められた自分を慰撫する道具のように眺めたり、酔っぱらいのオヤジを狩るためのサバイバルナイフとは全く趣が違う。両者は似ても似つかぬ代物である。聞くところでは、この十徳ナイフはスイスのアーミーナイフに通じ、さらには1800年代のローマ帝国時代にまで遡るらしい。何せ野性志向(?)の当時の若者にとってそれはとても格好よく、現代という荒野を生き抜くための魅力的なサバイバルアイテムであった。
▼では、現代の我々がこの厳しい現実社会を生き抜くために身に付けるべきサバイバルアイテムは何かと考えたとき、今まではパソコン、特にノートパソコンがその座を占めていたように見える。若者達がこのアイテムを手にした時、彼らはそれが出来ない上司を小馬鹿にさえしたのである。IBMやNECのMSDOSパソコンが世に出たとき、たとえば日本でも「24ドットの漢字が打てる!」とか言って感動をもって迎えられたものである。しかし、そのパソコンがどれほどのものか、実のところまだよく分かっていなかった。このようなIT社会がすぐに来るとは誰も思ってはいなかったのではないか。だから、若い連中がパソコンをいじくり回していると(実際、まだとろかった)、上司たちはいまいましげに「パソコンで遊んでやがる!」とまで悪態をついたものだ。
だが、パソコンは単なる玩具や小道具ではなかった。次代を担う若者達がこの社会を生き抜くための新しいサバイバルの武器となったのである。それから約30年が過ぎ、今やパソコンをはじめコンピュータのない生活はおよそ考えられなくなった。
▼ところが、ここ数年、すっかり様相が変わってきた。パソコンに代わり携帯電話がその座を奪ったかのように見えたのも束の間(日本で独自の進化発展を遂げた携帯電話は「ガラパゴス」と称され、国際規格からは大きく外れたものになった趣はあるが、日本国民の大多数が所持するものとなり、特にビジネスの世界では不可欠のアイテムとなった)、そこに海外から国際規格のOS純正品として侵入してきたのがiphoneやandroidなどというスマートフォン、小型コンピュータに電話機能がドッキンづされたような高性能携帯端末であった。
▼ところが、ここ数年、すっかり様相が変わってきた。パソコンに代わり携帯電話がその座を奪ったかのように見えたのも束の間(日本で独自の進化発展を遂げた携帯電話は「ガラパゴス」と称され、国際規格からは大きく外れたものになった趣はあるが、日本国民の大多数が所持するものとなり、特にビジネスの世界では不可欠のアイテムとなった)、そこに海外から国際規格のOS純正品として侵入してきたのがiphoneやandroidなどというスマートフォン、小型コンピュータに電話機能がドッキンづされたような高性能携帯端末であった。
▼幸か不幸か私はパソコンとは黎明期からの付き合いで、ワープロ専用機→MSDOSパソコン、window機というように、その道の人間ではなかったが、パソコンの歴史と共に歩んできた一人である。そしてその余りの変化の速さに正直驚いている。パソコンの進化そのものに違和感はないが、これは人の成長のスピードを遥かに超えているのではないかとも感じてきた。IT機器の進化に人間の方がついて行けなくなっているのだ。
また、日本の若者達がまるで曲芸のように掌で弄ぶテンキー操作の日本の携帯電話には少なからぬ違和感を持っていた。qwertyキーボードを操るのならまだしも、あんな玩具でどんな文章が打てると言うんだという反感さえどこかにあった。一時「携帯小説」などというものが流行ったが、ああいう器具から生まれ出る文章など高が知れたものと思っていた。だから、モバイル機器には関心があったが、日本のガラケー(フィーチャーフォン?)には電話機能以外には興味はなかった。
▼ところが、そういう私が、とうとう昨年の暮近くにアンドロイドのスマートフォンを手に入れた。本来剥き出しのガラス画面は好きではないが、薄さと軽さを追求していくからにはやむを得ない選択かもしれない。その分、ガラス面を保護するグッズが必要だろう。
スマートフォンはまずiPhoneから始まったが、マイクロソフトによる囲われや桎梏を嫌ったアップルが今度は自らが覇権主義者となって逆の唯我独尊に陥る姿を見て、私自身は買い求める気にはならなかった。
以前から「ユビキタス」的な考え方(いつでも・どこでも・だれでも)があり、このスマートフォンの出現もその延長線にあると思っている。そして、その方向を鮮明に示しているのがアンドロイドOSの動向のように見える。
▼今後,人間の社会がどういう方向にどう動いていくのか、利害に絡む話そのものはだんだんどうでも良くなりつつあるが、とても興味深い。
本来、人間社会の建設はもともと弱い存在であった人類が自然界から防御するシステムとして考え出されたものなのだろうが、人間の社会もまた第二の荒野に似た様相を呈している。人間の作ったシステムが逆に人間を抑圧することさえ珍しくない。
今、私たちは21世紀という人間荒野の真っ只中にいる。ローマ帝国の時代に既に十徳ナイフに類するナイフがあったように、かの弁慶が七つ道具を持っていた(?)ように、現代の我々もこの吹き荒ぶ人間荒野を生き抜くために、現代の十徳ナイフが必要とされているのかもしれない。そして、その一つが今スマートフォンと呼ばれているものなのではないか。人は今後、その文明の利器を用いてどんな未来を切り開いていくのだろうか。希望でもあり不安でもある。
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