『はだしのゲン』問題の意味するもの・追記
▼松江市の教育委員会が劇画『はだしのゲン』に閉架書籍扱いの措置を取るよう口頭で要請したという報道は教育に関心のある保護者や教育関係者の間ではもう周知のこととなった。よく知られた原爆漫画ということもあってか、またSNSの時代ということもあってか、マスコミでの扱いはいざ知らず、情報の拡散が意外に速かった。しかしこれは、誤解や批判があったから撤回すれば済むというような簡単なことではない。
▼そもそもこれは教育委員会が〈子どもに触れさせない方がいい〉と言って《悪書追放》のような形で扱うようなマンガであるのかどうか、それはヒトラーのやった《焚書》と同じではないのか、一体誰の権限でそういうを措置を決定をしたのか--と話は発展する。。
それよりもさらに解せないのは学校の校長や一般教員の態度である。何が正しく何が解せないのか、自主的に判断することを全く放棄している。よく《事件は現場で起きている》と言われるが、教育界では現場の当事者である教員自身が骨抜きなのだ。
▼だから、学校の教室の壁にどんな立派な標語を掲げようと教育の中身は絵空事に過ぎない。これでは子ども達の教育に何か期待できるわけもない。可哀想なのは子ども達である。そこには大人のモデルになれる教師がいない。彼等は自ら行動方針を立てられず、ただ上からの指示を待っている。こうして学校教育の現場で支持待ち人間がつくり出される。これでは教育というもの内実において欧米の子ども達に敵うわけがない。(もう一国に都合のいい子どもをつくる時代ではない)
▼その結果どうなるか。放射能汚染された地域から動けない福島の子ども達を見るといい。〈地産地消〉とか〈地域で育つ〉とか聞こえはいいが、実際には政治経済優先の文科省の号令に従ったまま(教育も原子力も文科省の許認可だ)子ども達の生命が危険にさらされたままに放置されている。その責任を教師達が取れるはずはない。また、そんな方向に持って行くべきでもあるまい。
かつて国の命ずるままに教え子達を戦場に送り出した教師たちがいた。敗戦受諾の直前まで生きていた子もいた。その教師たちは戦後も言われるままに〈自主的に!〉かつての教科書に墨を塗り、〈民主主義の世の中になった!〉と子ども達に説いた。そんな教育や教師達とどんな違いがあるか!
▼はからずも今回、日本の学校教育の〈主体性〉なるものが明らかになった。教育を学校任せにしてはいけない。学校に子どもを任せて安心してはいけない。
明治5年、日本に学制が発布される前、子ども達の教育は家庭が責任を持ってやっていた。国家が保証した教科書がなかろうと、子ども達を立派な社会人に育て上げたのである。子どもは自ら教育されることを要求する学習権を持ち、保護者はそれを実現するための教育権を持つ。教育は国家の専有事項ではないのである。国家に任せっ切りにして戦争に突入した歴史を忘れてはならない。
もう一度教育の原点に立ち返り確認したい。公教育の変革を百年河清を待つかのように願っても未来はない。それが嫌であれば、自ら動くべきである。行動するべきである。不登校の子ども達が自分たちの存在をかけて行動しているではないか。
その意味で今回の松江市の教育委員会の行動は、我々に良いキッカケを与えてくれた。ちなみに、今、当の教育委員会には、多くの非難や撤回の要求が来ているそうである。
(松江市の教育委員会の委員等はつんぼ桟敷に置かれたまま、教育長が審議にかけず突っ走ったらしい)
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「いきいきニコラ」のサイト
http://www.os.rim.or.jp/~nicolas/
▼松江市の教育委員会が劇画『はだしのゲン』に閉架書籍扱いの措置を取るよう口頭で要請したという報道は教育に関心のある保護者や教育関係者の間ではもう周知のこととなった。よく知られた原爆漫画ということもあってか、またSNSの時代ということもあってか、マスコミでの扱いはいざ知らず、情報の拡散が意外に速かった。しかしこれは、誤解や批判があったから撤回すれば済むというような簡単なことではない。
▼そもそもこれは教育委員会が〈子どもに触れさせない方がいい〉と言って《悪書追放》のような形で扱うようなマンガであるのかどうか、それはヒトラーのやった《焚書》と同じではないのか、一体誰の権限でそういうを措置を決定をしたのか--と話は発展する。。
それよりもさらに解せないのは学校の校長や一般教員の態度である。何が正しく何が解せないのか、自主的に判断することを全く放棄している。よく《事件は現場で起きている》と言われるが、教育界では現場の当事者である教員自身が骨抜きなのだ。
▼だから、学校の教室の壁にどんな立派な標語を掲げようと教育の中身は絵空事に過ぎない。これでは子ども達の教育に何か期待できるわけもない。可哀想なのは子ども達である。そこには大人のモデルになれる教師がいない。彼等は自ら行動方針を立てられず、ただ上からの指示を待っている。こうして学校教育の現場で支持待ち人間がつくり出される。これでは教育というもの内実において欧米の子ども達に敵うわけがない。(もう一国に都合のいい子どもをつくる時代ではない)
▼その結果どうなるか。放射能汚染された地域から動けない福島の子ども達を見るといい。〈地産地消〉とか〈地域で育つ〉とか聞こえはいいが、実際には政治経済優先の文科省の号令に従ったまま(教育も原子力も文科省の許認可だ)子ども達の生命が危険にさらされたままに放置されている。その責任を教師達が取れるはずはない。また、そんな方向に持って行くべきでもあるまい。
かつて国の命ずるままに教え子達を戦場に送り出した教師たちがいた。敗戦受諾の直前まで生きていた子もいた。その教師たちは戦後も言われるままに〈自主的に!〉かつての教科書に墨を塗り、〈民主主義の世の中になった!〉と子ども達に説いた。そんな教育や教師達とどんな違いがあるか!
▼はからずも今回、日本の学校教育の〈主体性〉なるものが明らかになった。教育を学校任せにしてはいけない。学校に子どもを任せて安心してはいけない。
明治5年、日本に学制が発布される前、子ども達の教育は家庭が責任を持ってやっていた。国家が保証した教科書がなかろうと、子ども達を立派な社会人に育て上げたのである。子どもは自ら教育されることを要求する学習権を持ち、保護者はそれを実現するための教育権を持つ。教育は国家の専有事項ではないのである。国家に任せっ切りにして戦争に突入した歴史を忘れてはならない。
もう一度教育の原点に立ち返り確認したい。公教育の変革を百年河清を待つかのように願っても未来はない。それが嫌であれば、自ら動くべきである。行動するべきである。不登校の子ども達が自分たちの存在をかけて行動しているではないか。
その意味で今回の松江市の教育委員会の行動は、我々に良いキッカケを与えてくれた。ちなみに、今、当の教育委員会には、多くの非難や撤回の要求が来ているそうである。
(松江市の教育委員会の委員等はつんぼ桟敷に置かれたまま、教育長が審議にかけず突っ走ったらしい)
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