ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

北海道マラソンゴール付近で

2014年08月31日 20時06分06秒 | プレーパーク
北海道マラソンに関わりあったのは、6年前の2009年で月寒公民館が校舎になっていたシニア大学の創造学園に入学が縁になっている、学園からのボランティアで2年間豊平の豊陵公園会場に給水のお手伝いに行ったのが初めてだった、選手として参加するにはランニングとは余りにも縁が無い環境だったので、参加出来ると云えば役員のお手伝いだった、私は在学中の2年間でそのボランイィアも卒業してしまっていた、同期で一緒に通った妹は学園を卒業した後も休まず続けていて、今年の大会にも元気よく大会会場へ、給水場所は相変わらず豊平の豊陵公園で8時までと集合時間が早い時間に設定されていた。
今の所、私は参加しなくなったが会場まで送ってゆくのが決まりごとの様になっていて、今年も7時30分には自宅を出発し送り届けている、出発時間は9時で大通四丁目を出て中島公園を通過幌平橋を渡って平岸街道へそこから北に向って下りてくる、街道の突き当りが豊陵公園になる、其処が私たちがやっていた給水場所で、今でも同じところを守り続けているようだ。
初めての給水場所で、ここらで給水を受けているようでは完走は覚束ないと思っている、しかし今日の日中は気温が上がり大変なレースになったと思っている。

一旦帰宅し車を置いて地下鉄でさっぽろ駅に向かった、昼からピクスタのセミナーに参加する事にしていた、丁度お昼頃ゴールを目指して走ってきた選手たちと交差することを予想し、さっぽろ駅地下街を中心にのんびりと探検して歩く、モーニングコーヒーやお昼はカレーを食べたがハーフサイズが無いのが、恨めしいと思った、ご飯を一番少なくしてもらったが其れでも食べ残す量には閉口する。

道庁赤レンガが目印か、見える所まで来ると元気を取り戻すランナーが目の前を通り過ぎていた。

フォートセミナーは13時から始り16時過ぎていた、今だ写真をアップしたことはない、どうなることやら?

ゴールは目の前
赤レンガが見えて元気百倍

ハワイヤンに出くわす

今日は団地の草刈り日・私は欠席

少年期の夢の続き

2014年08月18日 20時46分24秒 | プレーパーク
少年期にはよく漫画を描いていた事を思い出す、毎日毎日同じような絵をかいていた其れもマンガで、軍国色濃い「のらくろ」が一番人気があったと思っている、それに南方地方が舞台となった冒険ダン吉は、少年達の心を鷲掴みにしていたテレビも無くラジオか新聞だけ、映画が市民の最大の娯楽ともに同時に放映されるニュース映画が外界と繋がる最大のメデァであった。
放映までには、可なり厳しい国家の検閲があり今の様に自由に意見が云えなかった時代だった、子供心にも残っているが映画館には警察官が常設出来るスペースも用意されていたのが不思議に思えたことを思い出す。
それに今のお巡りさんと違ってピストルは持っていなかったが、サーベルと云う日本刀の様な長い刀を腰に付けていた時代だった。
少年雑誌「少年倶楽部」に『マレーの虎』が連載され、ハリマ王伝説が子供に拡大して行く。
この少年倶楽部こそが我々少年たちのバイブルでも有ったと思うが、一人一人が買える時代で無かったので回し読みをしていた、無論我が家でも買っていなかったが当時ハーモニカの宮田東郷さんのハーモニカを手にしていた、当時でも結構高かったと思うが良く買ってくれたと思っている、第一子供は私一人でなく女の子だが何時も4.5人はいたことを思い出す。

私が誕生した1934年にジョニー・ワイズミュラー主演の「ターザンの逆襲」の映画が製作されている、日本に入り見る事が出来たのは戦後の事であるが、この映画の日本における影響も計り知れないと思っている。
少年期の心の中を豊かに育ててくれたデズニーのマンガ映画が、今日の私の土台を作っているとも思っている、音楽はからっきしダメな方だが子供のころからやっていたハーモニカだけは時々引っ張り出して演奏している、現在はとんぼハーモニカを使っている。

宮田東郷ハーモニカ
現在はトンボです

漫画のらくろ
ターザン一家

前田森林プレーパーク

2014年08月10日 21時02分04秒 | プレーパーク
今夜には台風は北海道に、それを尻目に手稲区前田地区に向う新川沿いの奥で左手に手稲山頂が見える辺りまで来ると右手に前田森林公園の駐車場の看板が見えてくる、家を出たのは8時を過ぎていたが此処まで来るのに小一時間は掛かってしまう、森林公園はかなり広い公園で今までに中心部まで足を入れたことも無かった、ペタンクで頻繁に近くまで来ていたころは未だ公園全体が完成していなかったと思っている、此処まで新川通りを来ると前田3号線を左に曲がり橋を渡って北海道工業大学方面に向っていた、時には3号線を右回りしてパークゴルフ会場に行っていたこともあった。
暫く行っていなかったが、行けば簡単に判るとタカをくくっていたが、お蔭で遠回りさせられてしまった、今日は展望ラウンジの前が会場て大きなイベントが開催されていた、朝が早かったので人はまばらだったがその会場まで行ってしまった、管理棟もその近くと勘違いしていた、其処の案内所で公園の案内図を戴き始めて公園全体の広さに驚かされる。
万が一を考え少し早めに来ていたので、前田森林プレーパークには遅刻しないで到着出来ていた、会場は管理棟と芝生広場の直ぐ近くだった、11時頃になって子供達もボツボツ集まり出した、子供だけで来ると云うより、若い母親が一緒でそれに若いお父さんが入るフアミリー家族がお客さんと云ったところだった。
午後から空は曇り出したが、午後3時に終了し後片付けをするともう4時になっていた、如何やら台風は避けられた前田森林プレーパークとなった。

月寒公園も来年度から市の指定業者も入ってくる、それに月寒公園プレーパークの誕生も時間の問題と見ている、プレーパークの正体も少しづつ判りかけて来ている、私の年齢では主体となってもう運営は出来ない、短い繋ぎが私の役目と思っている。

プレーパークとは。









プレーパーク研修実践編

2014年08月09日 18時04分38秒 | プレーパーク
札幌市では、次代を担うさっぽろの子どもの自主性、創造性、協調性を育むことを目的に、既存の公園等において地域住民等が主体的に開催・運営を行う、子どもが「自分の責任で自由に遊ぶ」ことのできる場として、プレーパークを推進している。

遊びは、子どもたちが健やかに成長するために、なくてはならない大切なもの。
子ども自身が「やってみたい!」という気持ちや発想で遊ぶことの積み重ねが、子どもたちの生きる力を育みます。
子どもがもっと四季の変化を体で感じながら遊ぶことができるように、地域の大人が子どもの遊びをおおらかに受けとめ、子どもの目線になって支える子どもの遊び場が、「プレーパーク(冒険遊び場)」です。


NPO法人日本冒険遊び場づくり協会 (http://www.ipa-japan.org/asobiba/)

昨年12月に偶然にもプレーリーダー研修会に顔を出し、基礎課程の研修を受けていた、実際どんなことをやるのか現場に立ち会ったことは無かった、7月19日初めてのプレーリダー派遣で藤野プレーパークの会「冒険遊び場inふじの」に行ってきた朝10時から午後5時までの長時間だったが、この日は生憎会場が藤野リュージュコースの近くと云ってもいい山側の町はずれで山の際だけに霧雨が朝から降り続いた、残念なことに天候のせいもあって終了時間が迫った頃二組の人達が来てくれて、多少の研修になったかなと思っている。
さっぽろの街中の公園と違ってたき火も出来る、自然のど真ん中の冒険広場だった広場そのものに斜度があり冬は其の侭そり滑りの山にもなる羨ましい会場だった。

藤野会場は多少は知ることが出来、大変参考にもなった、さて明日の日曜日手稲前田森林公園のプレーパークに派遣を命じられてた、朝10時から午後3時までで此処は藤野より普通公園内が会場と思っている、此方はこちらで此処だけの内容のプレーパーク運営をやっていると思っている、会場が違えばプーパークの内容も違っているはずだ、この辺のことも含め、いずれ月寒公園でもプレーパーク発足の参考になると明日は真剣に取り組んで来ることにしている。

月寒公園でも真似事


ふじのプレーパーク





カメラと昭和

2014年08月05日 16時47分07秒 | プレーパーク
私のカメラ歴は64年も遡る、高校入学の部活は運動部でなくカメラ部だった当時存命だった七歳上の兄貴が珍しくカメラマニアで今でも覚えているがドイツ製の一眼カメラをいじり回していた、高校の部活の時は兄貴のカメラを無断で持ち出し使っていた、自分のカメラが欲しくひと夏お袋とタックを組んで花屋さんを始めた、仕入れは私が担当し店の方はお袋が引き受けてやってくれていた。
当時は花市場もなかったので、リヤカーを引きながら近くの農家の家々の庭で咲いている花を買って歩いていた、今考えても良くやったなと思っているが、親たちも簡単に買って与えてくれなかった、小学生時代から親は商道を自然に教え込んでいたと思っている。

ひと夏の出来事だった、カメラが買えるほどにお金が出来るともう花屋さんは閉店していたと思っている。
生れてはじめて自分のカメラになったのは、国産の蛇腹カメラだった、もうメーカー名も忘れてしまっていがミノルタと思っている。

当時そのカメラで撮った写真が1枚残っていた、其れが今同居している妹の幼い頃の写真です。

その後自分でカメラが買えるようになりキャノンの一眼カメラだった、レンズも500m迄揃えたので格好だけはプロ並みだったが碌な写真しか取れず其のうちカメラの出番も少なくなり今では古時計の様に動かなくなっている。

カメラ熱が再発したのは、ペタンクと出会って本州遠征が切っ掛けになっている、最初は友人からカシオの中古デジカメを貰った、使いやすさに驚と同時に価額の安さにも引きつけられた、其れから今年の春買ったカメラも含めてメーカーはカシオに統一された。
今回手に入れたカメラは少々高かった、CASIO EX-ZR1100で色々な機能が備わっていて今だ使いこなしは出来ていない。
使い方が乱暴なので不具合が出来、メーカーに持ち込み本州送りとなる、一週間ほど掛かったが修理完了の連絡あり引き取りに行ってくる。
帰り道、豊平緑のセンターに立ち寄る、雨の後の防虫対策でオルトラン水溶液を仕入れてくる。
雨の公園は静かな佇まいを見せていた。

私のカメラ
始めて持ったカメラ
キャノン一眼レフが長かった 今は動かない

豊平公園の佇まい


雨には矢張り紫陽花が似合う




60年も前に高校写真部の展示会に出品した写真です。

プレーリダー えんどうじいちゃん

2014年07月19日 20時19分00秒 | プレーパーク
昨年偶然にも札幌市のフレーリダーの資格を取ってしまった、講習に出た時は周りは若いお母さんたちとのイメージが有った、私みたい爺さんは異種の様に感じていたが活動内容は過去の私の活動の延長と思え、年を取ってからこんな仕事に出会えて嬉しくもあり、生れ故郷の越後の先人の良寛和尚さんを思い出した、晩年の良寛さんは子供達に囲まり心の安らぎも得ていたと思っている。

日本冒険遊びの場つくり協会が中核になり全国的組織として広がっている
各地域のプレーパーク
今回は南区ふじのプレーパークのお手伝いに出向く。
主たることは、遊びの場の管理、整備、安全確保に努める。

冒険遊び場は、子どもが「遊び」をつくる遊び場です。
そこでは火を使ったり、地面に穴を掘ったり、木に登ったり、何かものをつくったり・・・。
落ち葉やどろんこや自然の素材を使って、
遊び場にあるスコップや金づちや大鍋を使って、
自分の「やってみたいと思うこと」を実現していく遊び場です。
さまざまな遊びが展開されていくので、変化しつづける遊び場ともいえます。
禁止するのではなく、いっしょに考えてやってみる。
のびのびと思いきり遊べるこの場所は、
子どもが生きる力を育むことを支えています。

遊びは、子どもにとって生きることそのものです。
子どもは、自然環境の中で遊び、
たっぷりと五感を使ってさまざまなことに興味を持ち、
いろいろな人とかかわりをつくり、
自分のやり方や自分のペースで、
創意工夫をし、挑戦し、失敗し、それをのりこえて、
成長していきます。
遊びは、そのすべてを子どもに届けることができるのです


「遊び」をひろげるプレーリーダー

プレーリーダーは、冒険遊び場には欠かせない存在です。

プレーリーダーの役割をひとことで表すと「子どもがいきいきと遊ぶことのできる環境をつくること」といえます。

子どもの興味や関心を引き出すよう、いつも遊び場を整備しています。
つねに変化する遊び場の状況に応じて注意を払い、子どもに声をかけます。
子どもといっしょに思いきり遊び、子どもが厚い信頼をよせる相手です。
ときには、子どものよき相談相手になることもあります。
ケガや思わぬトラブルにも対応します。

大人は子どもの遊びを規制しがちになりますが、
そんなときには子どもにかわって子どもの気持ちを伝えます。
こうして、子どもののびのびとした成長を見守る輪を、地域に広げていきます。


ふじの会場はペタンク大会で何年か利用している、国道筋の8丁目の公園でやっていたので今回のプレーパーク会場とはさほど離れていない所だった、手作り感溢れる掲示版にペタンク爺さんの事も紹介されていた、兎に角初めてのプレーパーク実践で大変お勉強になった、何れ月寒公園にもプレーパークを根付かせたいと思っている、今年は他のプレーパークの様子を勉強したいと思っている。

手作り掲示板
えんどうじいちゃんです
ふじのパーク案内
管板02
会場は?