ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

イスラム帽子と断髪式

2015年05月31日 17時16分20秒 | 闘病

散髪屋さんに行かなくなるようになってから25年は経っていると思う、それに坊主頭でいたのは高校の二年生位まで64年ぶりに子供に返った様に思えた、今回の入院以来ずっと考えていたことだ、最近は時々床屋に顔を出すように成っていたが白髪染めが目的だった色はダークブラウンで老醜をカバーしていたつもりだった、ただ長年続けて来たポニーテールの髪型は愛着があり捨てがたくも思っていたたが、今回の最後の聖戦と思われる戦いには余裕は全く無くなっている、抗がん剤治療の副作用で髪が抜け始めていた、此処等が潮時と考え先日今日の断髪式を妹に頼んでいた。

と同時に頭を保護するキャップも探すように頼んでいた、ネットで調べると私が望んでいるような帽子は介護用が存在していることも判ったが、最近若者や一部の人達に流行り出している既成でイスラム帽子として市場に出回っていることも判った

今朝はそれ以外に矢張ネットで仕入れた情報から玄米スープを作って来てくれる様に頼む、兎に角人使い荒い兄貴だと自分でも自覚している。

今日は、私からの注文の玄米スープを作りイスラム帽子を探して買ってきて私の断髪式に自らハサミを入れた、ナイチンゲールの様な素晴らしい妹です・

 

 

 


エ○ド○戦記(03)

2015年05月30日 17時11分33秒 | 闘病

現在の前線は東部砂漠の真っ只中、イイ(胃)村を巡っての戦いになっている、此所からS、L(腸)を横断するバイバスルートが我が国の生命線で、最近ではこれを狙って必要に攻めて来ている、我が精鋭兵士アブキラキサン部隊も砂漠の野戦場で活躍中だが、地上には敵兵の姿は見えないベトナム戦争さながら地下トンネルでルートを作り、壊しても壊しても新たなトンネルを作っている、犠牲を惜しまず人海戦術で攻めてくる。

前線は広い守りも手薄な処も出来る、戦い方のペースも敵方にある、一方的な勝ち方はないと思えるほどだ。

昨夜から今日の昼近くまで都市機能はやられていた、補給ルートが絶たれ孤立状態になる、親衛のサポート隊が非常用原子エネルギー源に切り換える、出来れば自然エネルギーが理想なのだが、それを阻害している敵の狙いでもある。

今回の戦いは自然エネルギーで成り立つ都市を目指している、其が究極の国家目標だ。  


エ○ド○戦記(02)

2015年05月29日 13時35分32秒 | 闘病

今回の戦いで敵は巧みな戦法で攻撃を仕掛けて来ていた、少し前のベトナム戦争、今起こっているシリア内戦、どちらも戦力のさ差があるときに出てくる昔からの戦い方弱者と言えど時には勝利してしまう事さえある。

反転攻撃の先端は我が陣営から切られた、5月18日13:10兵士10万人の中から精鋭六千人を第1回反転攻撃隊として出動させる、友軍の主力はキタサングループ族に属するアブキラキサン部隊が投入された

前回の大戦は気が付いたら、主要都市の一画に頑強な近代的な城を築かれていた、その時から作戦会議が開かれるようになった、この国はセキリテイも敵を攻撃する機能は備わっていない、今回も敵の動きを発見してくれたのも軍師になってもらっている(通称博士)のST氏だ、此方は軍隊を持たない国なので、時には外人部隊を雇っても動かせる事が出来ない、戦いの方の大臣も含め軍師(参謀長) として味方に加わってもらっている。

前回の大戦では総力戦で、此方からはサイボークまで戦いに加わる総力戦だつた、戦後処理後のダメージを少なくするため少し緩い終結で終らせたていた、一番危惧されていた事が現実となってしまった、この大戦で生き延びた細胞がいて公海上の海(腹水)に逃れて其処で其の細胞が密かに増殖を始めていたのだ。

サイボーグとなった細胞はそれぞれ海(腹水)を使って戦線を広げて行った、今回は一ヶ所に止まらず様々な場所にまで分散させた戦略で来ている、彼らが作った腹水の中には我国を支える栄養素が溶け込んでいる、その中に敵の細胞が紛れ混んでいる敵は姿をミクロに変えてきた、一つ一つ見っけて殲滅するか増殖を止めさせるか一気には決着は付かない、今回の作戦会議で28日に続き三週間サイクルに攻撃を仕掛けて行くことに成っている 、次回は6月18日で多分二泊三日の缶詰めがその後秋風が吹く頃迄続く。

エド戦記も言いが遠藤農園も気になる所だ、少し余裕が出て来た様に思える。

洗面所でクリスマスローズの花が置いてあった、我が家のローズも早くから花を見せてくれていたが今ごろはその花から種がボロボロ落ちているはずと思い出している。

 

 


エ○ド○戦記

2015年05月28日 04時32分36秒 | 闘病

戦況が要約判明したのは5月27日今日の作戦参謀会議だった、戦況は直接戦場の斬り込み部隊であり作戦参謀でもあるS氏から現状報告と明日から戦いの子細が明らかにされる。

重要な資料デターや、此れからの戦場現場の偵察は済ませ反転攻撃の準備は整った。

2年前の突然の戦いで味方の兵士を全滅まで行かなかったが主要都市の3/4を失った主要都市の大きなダメージは国全体の存亡にも関わる、大戦後の復興が少しづつ良くなっていたと思っていたどろ、想像もしなかった自然災害を招き入れてしまった、この国の最高責任者が自ら侵した過ち、人間にはよくある事だ、其のまま国の滅亡に成らなかっただけでもこの国は救われている。

前回の大戦で生き残った残党がゲリラ戦争に転じた大部隊を編成しないで小さな部隊になり戦況を一気に広げてきた、特に狙われているのは我が補給ルートで数が多いで中々厄介だ、此方も精鋭支援部隊を一万人揃える事が出来るが其の60パーセントしか使えない国力、闘いは長引くと思っている、それにこの闘いに参加してくれる味方の兵士の中に力を余して友軍まできづつける、その手当てにあたる準備とスタツフも整った。

兎に角明日から始まる最初の反転攻撃でどういう戦況になって行くか今から予想も出来ないが、国(一代で終る単一国家)の存亡をかけての戦いには違いない。

少し余力が戻ったので、戦記日記を時々出すことにする、とうとう日付線を越える。


一寸先は闇、時々主が居ない家

2015年05月22日 19時05分02秒 | 闘病

自分の体でありながら、自由にコントロール出来ないのが情けない病気になって世界が変わってしまった、これ迄の人生で大病はあったが若さで克服してきた、後を振り返ると60代は若さも知力も頂点に達していた、70代は少し衰えた肉体を知能が補っていた、平穏に行けば90歳位まで余勢をかって行ける気がしていた、80歳で最後の試練が待ち構えていた、胆嚢結石から胃癌、大腸破裂、腸閉塞と二年間で徹底的に痛み付けられた、今は余裕がなく精一杯頑張って生きている、それでも3日もあげず遠藤農園には通いつめている、昨日も先日植えたさつま芋が枯れ初めていたので苗の植え直しをしその上にトンネルかけをしてくる。

此れから野菜畑は一気に成長期になる、天候も安定し太陽が照り続ける、今回は何時まで入院が続くか解らない、三日に一度は水撒きが必要となってくる、私が行けない場合は妹にバスを利用して行ってもらうことにしている。

せめて農園だけは続けて行ける事を願っている、私の病気回復には最高の特効薬と本気で思っている。

 


藻岩レーシングへの序曲

2015年05月21日 14時13分48秒 | 藻岩レーシング回顧録

今日から藻岩レーシングクラブの回顧録を時々書き出すことにする。

1970年 札幌冬季オリンピックの滑降支笏湖コースで開催された、プレプレオリンピックに、つばめ自動車のスキー愛好家グループ数人と観戦に行く、冬道を初めて札幌から支笏湖湖畔までの開けた道路の両側は雪のカベのトンネルのようでした、一般の観戦者が全くいないゴンドラとリフトを乗り継ぎ、スタート地点にたどり着く、スタート地点での選手の少し青ざめた真剣な顔、雪の上の黄色い小便の跡、途中立ち木に激突し担架で運ばれる選手、競技が終ってコースの中を恐ろ恐る下迄降りてくると、ゴール付近のプレジャンの周りに散乱するヘルメットの破片、いまだにそのときの情景が思い出されます。

そして、その頃からアルペンスキーの魅力に取り付かれたようです、その後猪谷千春親子の伝説を見てしまい、それを引き継ぎ、子育て教育の一環としてアルペンスキーに賭け、親子三人でのレーシングチーム誕生につながって行きました。

初めてのスキー合宿(1971)

2/03ニセコひらふスー場にて合宿・家族全員山田温泉に3泊4日で出かける・今日から札幌オリンピックが始まった。8時さっぽろ駅出発、到着後昼飯を食べ高原リフト第1だけでフリー滑走をする、降雪が続き夜たっぷりと温泉に浸かる。 

2/04 ひらふスキー場・オールメンバー、朝から天気が良く半日券を買う第3リフトで千M高地迄行く此処まで来ると山頂は目の前、簡単に往けそうに見えるが庄二君が体力不足で登坂を断念する、前日の降雪でシュプールが付いていない所を選んで滑り降りる、昼から子供達は休養する監督だけ山頂より滑り降りる。

2/05 ひらふスキー場・オールメンバー、この日家族4名で千M高地迄行く記念写真を写しママさんはリフトで降りる、昼から全員休養し高原スキー場の夜間スキーを楽しむ出来たばかりのロマンスリフトに乗る。

2/06 ひらふスキー場・オールメンバ、合宿最終日高原リフト、アルペンリフトの回数券を買い午後1時半頃まで滑る、ひらふ駅に出て3時の汽車に乗る。

この頃から記録を書き残すことが始っていた。

ニセコひらふ1.000m台地

旭岳スキー場にて

 

札幌オリンピックSL優勝のオチョワ選手の滑り(借用)

 

 


故郷の助宗タラと闇市

2015年05月20日 19時11分20秒 | ペタンク爺さんの一日

生れた新潟の佐渡島が見える五ヶ浜は砂浜で磯船漁師もいたが、三歳までしかいなかった故郷の幼児時期の記憶は残っていないが、その後北海島に渡って室蘭の輪西に住み着いた、町の西側は日本製鉄の工場群が海岸線を全て占有していた、自由に行ける海は町並みの東側でひと山越えると砂浜が見えてくる、遥か前方には鯨半島と云う鯨に似た半島が見えてくる。

第二の故郷室蘭輪西町は海にも近く戦後一時鯨半島に沿岸に住み着いている漁師から磯船を買って預かってもらっていたこともある、商売が釣具商だったが戦後の食糧難時代に時折親父は素人イカ釣り漁師になっていた、当時は良く釣れて磯船一杯の大漁が続いたことがあった、家族総出で烏賊運び家の周りに干してスルメを作った、其れを川口市の竿職人に送ったその見返りに、出来上がった米俵に梱包された釣竿が日通便で届き、店先は梱包された釣竿の山が出来ていた、それを独占販売同様に釣具店は一気に財を蓄えて行った。

戦前及び戦後暫くは、物資や食料が乏しく配給制度我が家でも畑を買って馬鈴薯や大根作りもやってた、戦後は皆食べる事が最大の案件に、全国的にも闇市が戦後復興の力強い原動力になっている。

自由販売が普通になり、輪西の町にも近くの虎杖浜辺りから女性のガンガン部隊が個人の家に魚を売り歩くようになった、各自自分の家でも商売をしていた当時、魚屋、八百屋に買い出しする時間も惜しく、魚売りのガンガン部隊は商店の女将さん達には嬉しい存在だったと思っている、第二の故郷の輪西も海に近いいので魚類は良く食卓にあがった、今でも産地になっている虎杖浜の助宗タラは、我が家の魚と云っても過言でない。

現在と違って、当時の助宗タラは大きかった、当時でもメスの子は鱈子にするのでメスは高かったと思っている、料理はメスの場合は子を使ってこんにゃくで和えると子供達にも好評の一品に、身は殆んど味噌汁に野菜は大根で時には馬鈴薯も入っていたと思う、タチも大人の味で美味しかった、自作の沢庵は欠かせないおかずで、この他食卓には、豆腐、納豆、は町中を売りに来る人から買っていた、それに毎日配達してくれる牛乳、など町中を大声をあげて売り歩く商人の懐かしい時代でもあった。

店の金庫から小金を掠めて、闇市で食べ物を買い食いしていたことも懐かしく。

 八紘学園まで

遠藤農園にて(種から植えた野菜も芽を出して)

今日はオジヤと烏賊のつみれ

 

 

 

 

 

 


案じていたことが

2015年05月19日 16時06分09秒 | 闘病

体調が優れない日が続いている、その日により朝から鼻歌が出てくるような爽快な日があるが午後になり体内に住み着いてしまった悪魔が動きだし悪さをしているような症状になる、身内の母や妻、それに大勢の癌患者の通った道だ、生れた時からの運命か、とうとう私も同じ道に迷い込んでしまっている、早くから腹はくくっていたが実際証拠を付きつけられると心は萎えるが、生への執着はまだまだ旺盛なり。

今日の定期検診で、先日腹水を抜き取り検査していた結果が知らされる、腹水が溜まるということは何か原因があると私なりに理解していた、其の腹水の中に癌細胞が含まれていた、遡れば胃癌を手術してから二年は経過していた癌細胞が生き残り活動を始めてしまった、主治医は抗癌剤治療を薦める、無論私も此処では負けていられないと主治医に従う、飲薬でなく、点滴治療を行うので2泊3日程度の入院が必要と云われる、第1回目は5月27日から始まり三週間おきに治療が始ることになった。

今の所相当体力は衰えているが、治療の合間をぬって遠藤農園だけは続けて行きたいと決心している、病人に成り切ることだけは避けたい、日々の楽しさも一緒にやって行きたい、6月のアカシアの花が咲くころには愛車のMBXを乗り回しアカシアの花の雨に打たれたいと思っている。

現在は、今年大腸手術のあと癒着、腸閉そくとダブルパンチを食らって便秘体質になっている、兎に角コントロールが難しい、病院から出た薬剤で調整しながら一日一日頑張っている、その苦しさを忘れさせてくれるのが今年も始まっている遠藤農園の農作業だ、週間天気予報を見ては一喜一憂している自分を可愛い奴と思っている。

 高校二年生

22歳頃、浅草寺前で(衣料品の仕入れに大阪岐阜まで)

24歳頃町内のドライバー仲間と遠出(愛車ホンダトリーュームで)

 

 

 


久しぶりに20度を越えた

2015年05月18日 19時43分23秒 | ペタンク爺さんの一日

何時の頃からか、一週間ほど前からか気象予報状況が発表されるようになった、調べると1988年から始まっている100%当ることはないのと途中から予報が変ってゆくこともあり、時にはがっかりさせられることも多々あった、其れでもこれほど日本の気象学が充実してきたのも明治維新の野中到、千代子夫妻の冬期富士山での観測から始っている様に思う、ラジオで天気予報が開始されたのが1925年、戦後1977年に静止気象衛星が打ち上げられた、時の流れと飽くなき気象学に携わってきた人たちの夢と努力の賜物と思う。

残念ながら明日の札幌は雨模様、お天気は今日一日の最良の一日だった、種からポット植えしていた苗が生長するに従って何処かで取り違えたのか、キウリの苗になっているのがあった、花壇では植える事が出来ず今日遠藤農園に持ち込むことにしていた、先日定置植えしていた畦の隙間と未だ植えていなかった所、それに生育の悪い苗を交換する、持ち込んだ本数は4本でキウリは合計Ⅰ4本になった、昨年もそうだったが実が付きだすと食べきれなくなっていた、ただ塩蔵で保存でき後から色々活用できるので、今年も食べきれなかったものは塩蔵して保存することにしている。

農園の畦は計8本、種や苗を定置植えしていて空いている所はない、ネットを掛けないでも元気よく育っているトーモロコシ、直蒔きした野菜がほぼ全部芽を出し始めている、ネットを掛けない馬鈴薯、豆類、枝で豆、はまだ芽が出て来ていない、ネットで保護しているトマトはまだ半分しか定置植えしていない、その他今日補強したキウリはそこそこの成長と感じている、早くからネットで覆ったキヤベツは外から見ても順調に成長しているのが確認できている、寒い日が続いているのでこんなものかと思うしかない。

この後、20日頃から安定したお天気にそれに平均気温も20度近くに、いよいよ本格的に遠藤農園の野菜達も育って行くと楽しみにしている。

明日は、定期検診日。

 順調に育っている野菜達

お昼はお粥弁当

 


50センチ近いトドマツ切られる

2015年05月17日 19時25分34秒 | ペタンク爺さんの一日

私が入居している市営団地は、正式名称を「月寒はまなす団地」と云い100戸の住民が居住している、炭鉱長屋のような木造二階建ての住宅から昭和53年に五階建てのマンション風団地に建て替えられていて、建て替えられてから40年近くになっていて、もうそろそろ建て替え時期に来ていて早い所では建て替え工事も始まっている所もあるが、何せこの辺一帯は同じような団地が密集していて、私が住む団地まで建て替えとなると市の予算の関係もあり私がの存命までには先ず無いと考えている。

その団地内の庭(小さな公園)にトドマツの木が一本あって団地一の高さに成長していて数年前とうとうカラスが巣を作った年があった、ベランダの選択干し場から針金製のハンガーを強奪して行き其れを巣の材料として立派な巣を作った、最初は余り判らずじまいだったが常時カラスが居ずいてしまった、全くカラスの生態を知らない住民の一人が残り食物をカラスに与えた人も出て来て、小さな公園は半分カラスに占領されたようになった年があった、其のうち高い松の木の上に作った巣に卵を産み雛に孵った事かあり、子カラスを守るために、松の木の下を通る人間を襲う様になった、大変な出来事になった。

大がかりで、市の職員も来てカラスの巣の撤去作業になった、そして翌年も巣を作り出した、今度は松の枝を切ったり芯を止めたりカラス騒動は数年間続いた、数年前から当団地には漸くカラスは居つかなくなった。

今年は、松の根元の一部が腐り始めた、それを理由に危険との判断と思うが、先日市の関係者が来て直径50センチ近くにもなるエゾマツを切ってしまった。

(育った所が悪かった、としか云えない出来事だった)

切り倒した松の木は、資材として使えば大変価値があるが素人の我々には唯のゴミになってしまう、利用したいと思うが現在の私の健康状態では、残念ながら全く手は出せない。

庭の花の移り変わりを楽しむ此の頃です、今日は都忘れを手折って来る。

直径50センチ近い松゛った

今年は実が付くか柿の木

ブルベリの花が咲く

都忘れも咲き出す

のうぜんかづらも新芽を付けた

 

 


花桃(ハナモモ)が咲いたよ

2015年05月16日 18時58分40秒 | ペタンク爺さんの一日

今年の桜は札幌でも4月には満開に、昨年より11日も早く開花していた桜の種類と開花は種類により多少違う北海道は山桜、千島桜、八重桜が多く、吉野桜は少ない、其れに南から北の端まで到達するまで時差があるので桜が咲き出すと話題も一気に増える、つい数日前まで咲き誇っていた八重桜も葉が茂り目立たなくなっている、此の時期になると八紘学園の敷地に北国では珍しいハナモモの木があり毎年楽しませてくれていた、ハナモモの色は様々あるらしいが学園のハナモモは少しどす黒い桃色をしていて、葉も一緒なので余り目立たない木です、道路に面しているが意識していないと開花しているのを見過ごしてしまいます。

中国が原産で三月の桃の節句に飾る花と云われている、日本でも南では桜の開花前に咲く(桃の一種)と云われているが長野県までくると開花は4月~5月になっている、日本は南北に細長いので桜同様ハナモモも札幌では5月の中頃になるのは自然と云うことになる。

今日もとうとうお天気回復しなかった、朝からお天気待ちしていたが太陽が顔を出さなかった、一昨日より遠藤農園の作業を予定していたので少し遅いスタートになったが10時には家を出ていた、何時もの様にホーマックで不足資材を買ってすぐ隣のスパー東光でお昼の弁当を買い込む・

今日の作業は、トマトの定置植えで合計16本植える予定になっていたかポット植えで育てている苗の育ちが悪く、今日は半分の8本だけ移植した、マルチの穴あけから移植して保温を兼ね防風、防虫、ネットを被せる、午前中だけで終らなかった、お昼は寒くて野外では出来ず車に入って暖房を入れて食事を取る。

作業は2時間ほど、畑の隅で山菜の山ぶきを5,6本採取する帰りしな生ミガキ鰊を買う、無論今夜の食卓にはフキと身欠きニシンの煮つけが加わった。

美味しいかった~

 長野県のハナモモ街道

今日のお昼は車の中で暖房を入れていました

遠藤農園もネット畦が増えた

ベランダ菜園で下仁田ネギを育てる事に

 


ベランダ袋菜園初日

2015年05月15日 18時47分22秒 | ペタンク爺さんの一日

今日は寒かった、遠藤農園では足りず我家のベランダも袋菜園にしてしまった昨日買って植えたさっま芋の苗が6本余ってしまったので、畑にはもう植えるスペースは残っていなかった、苗を捨てるのも惜しく其れなら経験のあるベランダ袋菜園を思いだし、昨日の遠藤農園の帰り道ホーマックで仕入れてきた古い土の再生材資材を使ってベランダ菜園様の土づくりから作業は始まった。

今日は寒い上に南風が吹き荒れる感じだった、作業中も軽いものは風で吹き飛ばされる悪条件だったが兎に角気力が先行し、ベランダ菜園完成に向けて気合が入っていた、だだ私一人で出来る仕事でなく力仕事は全部妹にやってもらった、今年は妹の支えが無かったら農園関係は出来ず仕舞いだったと、つくづく有り難い存在に幸運な男と感謝するだけだ。

菜園は、さっま芋6本、源介大根2袋、手なしささげ、変り大根2袋とイタリアンパセリ、パセリの6種類が植えられベランダ菜園の初日が終わる、現在ポット育成中の苗はトマト、ししとう、青シソ、等があり、その他にプランタンに小松菜、ホウレンソウ、カブが植えられ芽を出し始めている、全部ベランダに入れて来ると、もう満員状態になると想像している、さて如何なってゆくのか今から解らない、成る様になるとしか云いようがない。

明日からは少し気温が上がってくると思う、今年も矢張りリ「リラ冷え」がやって来ていた、昨日から南1条西8丁目にある三吉神社の祭礼が始っている、親父が7丁目で釣具店を開業していたので、その頃は良く三吉さんのお祭りを見に行っていた、懐かしい思い出になっている。

今年は雨のお祭り、ひと月遅れの北海道神宮の祭礼は三吉さんが雨だったのでお天気になるとジンクスが残っている、さて如何なることやら一月後が楽しみに待っている。

 今日のタネは

さっま芋

種蒔き終える


関取:遠藤を同姓のぺ爺応援

2015年05月14日 19時21分48秒 | ペタンク爺さんの一日

本名の遠藤で相撲界にデュユーして、十両でのざんばら髪で活躍し出してから注目するようになった、其のうちに四股名に代ると思っていたが未だに変わらず遠藤を名乗っている、何か曰くがあるのかなと想像するしかないが本名で何処まで通すのかすかも興味のあるところだ。

残念ながら先場所、テレビ観戦中の目の前で思わぬ落とし穴にはまり大怪我をしてしまった、起きてしまったことを悔やんでも仕方がない、私の予想では今場所は全休すると予想していたが予想に反して出場するとのニュースに、最初は無理しなくてもひと場所休んで回復を待ってからでも良かったんでなかったかと思っていたが、遠藤が初日から本場所の土俵に上がり相撲を取っている姿を見ていると、勝星は望んでいないが怪我だけは避けてほしいと、ただ祈るような気持ちで毎日テレビ観戦している、同姓ばかりか同郷の近くの出身も身近に感じる要因で、まだまだ若い先を見越して稽古を積んでいってほしいと親心にも通じると思いになっている。

今日漸く昼から青空が見えるようになった、ただ気温は予報では14度で春先の気候だった、遠藤農園に植えるさっま芋の苗が中頃には入荷するとの情報を得ていたので、大曲のAKに出向いてゆく、矢張りホーマックより園芸コーナーは充実していた、さっま芋のポット苗と切苗も入荷していて、予定の切苗の鳴門金時8本セットと紅あずま5本セット2束を手に入れる。

苗が手に入ったので、帰り道にある遠藤農園に立ち寄りさっま芋の定置植えをやってしまった、スペースは畳2枚分で其処に鳴門6本と紅6本を植えた、植え方は動画で勉強した方法で完璧に出来ていると思っている。

其れでも、苗は6本余ってしまったので今度はホーマックに立ち寄り資材を買い込む、今度はベランダで袋栽培に挑戦する事にする、我家では芋の他にベランダ菜園も今年のビック行事になりそうだ。

 さっま芋の苗を手に入れる

農園に立ち寄り定置植え

野菜達も芽吹き始めていた

 

 


小さな退院祝い

2015年05月13日 15時39分50秒 | ペタンク爺さんの一日

予定通りに一泊だけの入院で終わった、体調が悪くなると入院し処置をしてもらいたいと思うが、いざ入院して少し経過が良くなると早く退院して家に帰りたいと思ってしまうのは、人情と云うものか。

今回の正式な入院計画は今日帰りしなに知らされる、病名・胃癌術後、腹水貯溜で腹腔穿刺、腹水採取とのことだった、最初は全部抜き取られると思っていたが検査のための採取だけで、あっという間に終わってしまったが簡単に結果が判るわけでなく、一週間後の外来の定期検診時に知らされることが判明する。

今回の入院時には五日間ほど便秘が続いていて、どちらかと云うと便秘での腹痛のほうが大変だった、昨日の朝入院してから夜中までに7回もトイレ通いが始っていた、何日も下剤を続けていたが効果が直ぐ現れず入院日の朝になり出がけに出していった、結局昨日一日で8回も便が続いたが多少柔らかい程度で下痢と云うほどでもなかった、すっきりしたお腹で昨夜はぐっすり眠れた、最近は専ら眠剤のお世話になってしまっている。

退院するお昼過ぎには雨も上がり青空が出ていた、医院の屋上に上がって見たら温室の中から植物が屋外の屋上に移されて夏の装いが始っていた。

自宅に帰ると今日の夕食は出来合いで演出しようと大谷地の生協に出かけて来る、ここは札幌でも充実したお店でつい最近食品売り場も拡張されていた、前回見ていた出来合いのおかずの充実したコーナーがあり好きなだけでも買えるシステムに魅力があった、私が食べれそうなものと美味しそうに見えるものだけを買ってくる。

重箱に入れるとオセチ料理にもなりそうなおかずセットが出来あがる、何日で処理できるか?

病院の屋上は夏模様に

院内のボランティアの作品