ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

米英鬼畜の標語が溢れる町中

2015年01月31日 04時36分41秒 | 自叙伝

兵隊とは死ぬことなりと、子供の脳裏に焼きっけて行った当時の国の指導は政治家はいたが実働組織は軍[陸軍、海軍、空軍]]に握られていた、伝統的には海軍のレベル高かった、所が日中戦争で力を付けてきていた陸軍の意見が優先される環境になっていた。

この頃の少年達の頭の中には1905年5月27ー28日の日本海海戦が刷り込まれていた、大国ロシア海軍のバルチック艦隊との大海戦、戦艦三笠に東郷平八郎、「本日天気晴朗なれど浪高し」信号を受け待ち構えていた日本海軍が「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の号令この時Z旗が掲げられ先端が切って落とされた。

この時戦法はT字戦法で日本独特の手法で歴史を遡り村上水軍まで行きつく。

太平洋戦争で日米開戦に最後まで反対したのは聨合艦隊司令長官の山本五十六であった彼は日本とアメリカの国力の差を熟知していた数少ない軍人だった、彼の意見は取り入れられず意にそま無かったが根は軍人、真珠湾攻撃を指揮をとる初戦は勝ってもその後をうるえていた、初戦だけは勝てたが二年ほどで日本のゼロ戦の上を行く飛行機、海軍より空軍が活躍する時代になる、諜報戦でも日本は負けていた、昭和18年4月18日ラバウルからブーゲンビル島に向かっている途中でアメリカ陸軍機編隊の待ち伏せで撃墜される護衛にゼロ戦6機がついていたがアメリカ製のPー38の16機との戦いに負けていた。

日本の暗号文が全て解読され時間もルートもアメリカ側に筒抜けだったことが後に分かる、海軍ではこの人しかリーダー的な人材は残っていなかった。

その頃の軍歌に「海行かば」・海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ。

此の歳になって凄い、酷い歌であった事が分かつて来る。少年期の世相は

本当に天皇の為に死ねたであろうか。合掌

 

 

 

 


兵隊さんの予備軍だった僕がいた。

2015年01月30日 12時32分22秒 | 自叙伝

戦争ニユースが画像で見られたのは、今の民放テレビのコマーシャルの如く映画の始まる前にはニユース映画として流されていた、勝った勝った映像、新聞も検閲があり報道は自由ではなかつた、昭和10年の東京の人口は500万人と発表されていた、今日の人口比とは隔世の違いが判るが、兵隊さんを作るにはと生めや増やせの大号令が国家を挙げての国策が条文化されていて疑わない国民がいた、一般の市民はお上の言うことには順応で子供の量産が当たり前の世相で無論我が家を含めて一家は大家族世帯で町中は子供で溢れていた、町内会こ"と子供グループも自然に出来上がり、子供達だけで遊んでいた、中でも二組に分かれリリアンを使って、兵隊、戦車、軍艦、大将、工兵、偵察、大砲、飛行機、など役をつけ戦争ごっこをしていた、背中に赤子を背負った子も一緒になって遊んでいた、広場は無かったが下水道を挟んで日鉄の平屋社宅が並んでいて町中の道路より広かった'ので我が町内の遊び場は決まっていた、子供同士の喧嘩何時も有ったが親が出てくることはなく子供同士で解決出来ていた、少し年長のリーダーがいてグループを納めていた。

中学生になると自然に巣って行った。

この頃の大きな出来事で私が解体工事現場に入り込み、上から落ちてきた材木が頭に当たり大出血をしてしまう、親に連れられて医者に行って包帯で頭をぐるぐる巻きにされた記憶はその後消えないが、坊主にすると禿げとして残っている。

もう1つは、子供同士の溝川を挟んでの石合戦で私の投げた石が運悪く相手側の子供の頭を直撃してしまった、子供は泣きながら帰って行ったが、暫くして家に帰ると石をぶっけられた子供が包帯頭で母親と連れ立つて我が家の店先の上がり口に座って話しているのを遠くから垣間見た私は、これは大変なことになっていると我が家の敷居を跨げなかつた、行方あてもなく店先の道路に積んであった俵の中に潜りこみ暖かくなって寝込んでしまった、家では暗くなっても帰って来ない私を探しまくり店先の俵の中で寝込んでいるのを見つけ出しました。

顛末はこの件についてあまり怒られたと言う記憶はない。

継ぎ竿は大量に入荷してくると俵を上手に使い包装して来ていた、俵の山が私を救ってくれた出来事だった。

 

 

 

 


予定と現実の狭間で

2015年01月29日 09時49分24秒 | 自叙伝

当初今月か2月の頭辺りで、一旦退院を言われていた体力の回復を待って2、3ヶ月後に人工肛門の処置をしましょうとの主治医の話しだったが医師の目から見て手術に耐えられると判断したのか昨日の朝の回診で話してくれた、最悪の場合は人工肛門のままで終わる人もいるとのこと、私の意志は固かった私の計算では90歳迄の方程式が出来上がっている、後10年は生きる事になっているので元に戻して欲しいと主張する。

予定が変更し一週間後に回復手術をしましょうと言う事になる。

今日からトレーニングのピッチを上げる、手術後傷が塞がれば退院出来る少なくなった未來に朝日が射し出した全身からフアイトが湧いてくる。

昭和13年は漫才の横山エンタツが出て来たり、双葉山の連勝が続き、プロマイドの上原謙と高杉早苗の写真がヒットしていた、それにエノケンが活躍したのもこの項だった。スポーツ界では東京オリンピツク中止、国家総動員法が公布されたり世相は軍事色に染って行った。

そんな事とは無関係に悪がきを続けていた、時には隣の年上の友達と輪西から室蘭まで遊びに、歩きと無賃乗車の荷馬車に隠れ乗り、馭者に見っかり怒鳴られたり、冒険の少旅をやったりした子供だけで食堂に入り小銭で食べた物はカレーの煮っけだった、もうその頃は食品も少なくなり、間もなくお米も配給制になって行った。

その内お米以外の物質も配給制に、隣組婦人部に配られて来ると真剣にくじ引きをしていたのが思い出されて来る。

もう退院後の予定をたて初めている、二月の十勝岳吹き上げ温泉の湯治取りあえず3、4日間くらい素泊まり2,750円で食料持ち込み炊事場に鍋釜、食器あり、建物も立派だ、温泉も素晴らしい、露天風呂から十勝岳が見える温泉天国を予定に。

5月に入ったら今年も市民農園を続けようと、これは決定事項にしている、病気には負けて要られない。/

 

 

 

  


昭和10年代は戦争突入時代へ

2015年01月28日 13時44分21秒 | 自叙伝

前年二二六事件があり昭和12年のこの年に日中戦争が勃発、日本軍が仕掛けたとも言われている、町内会に警防団や隣組、婦人会が整備されて行く、小さな我が輪西にも映画館が二軒あつたひとつ下の友達がいたのでよくタダで入館していた、その他に大人が入るときその子供のふりをして滑り込んだり悪がきその物であった映画は古川ロツパ、エノケン、高瀬みのるの喜劇映画、それに大河内傳次郎の丹下左膳、嵐寛の鞍馬天狗等娯楽に飢えていたので映画館は良い商売と子供心に思い詰めていた。

その項から赤紙一枚で戦場に駆り出される時代に街角で婦人会のおばさん達が千人針をやっていたのを記憶している。大本営令が公布され日独伊三国防共協定が調印されたのもこの項だった。

そんな世相とは全く関係なく全て遊びの世界が我が世で朝から晩まで家に寄り着かないで遊びまくっていた、親達も外で元気で遊んでいてくれれば喜んでいた時代でもる。

就学前と思っているが遠藤百貨店は、冬には子供のスキーなども夏には釣り具などもぼつぼつ置いていたと思う、継ぎ竿はたいした長さでないが恵比寿さんが使っているのべ竿があるが長いものなら13尺もあったと思う、輪西駅には引き込み線もなかったので貨物は全部室蘭駅迄行ってしまうので、その後は馬車で運んでもらうか、自分で引き取りに行くかなので、自転車で運べるとテコにまだ五歳ほどの私を同行させる、荷物は長尺なので自転車の横に ー輪だけのサイドカー方式なので平地や下り坂は荷台に乗れたが、室蘭迄の国道には坂が3ヶ所もあり坂道を猫の手ょり良いと思ってのことだったがその時の記憶も残っていたのは辛かった事もあったと思っている、室蘭迄迄は約5Kはあった。

 昔はつき"竿より安い述竿が主流だった。

今日からトレーニング器具を使い出す、矢張しんどく感じ初日はそこそこで終わる。

 

 


遥か彼方70年~遠くに遠くに来たもんだ。

2015年01月27日 17時35分39秒 | 自叙伝

親父の大工職人職人も二年ほどで日本製鉄所の城下町町輪西に移り住む、国策で、会社の操業活発に大勢の従業員が輪西の駅を利用し、会社の正門まで真っ直ぐ行く通勤道路もあるが駅前の三条通リを南下し輪西町の銀座通リの仲通リを四条、五条、六条、七条、八条、九条まで商店街を眺めながらここで左折すると会社の正門に続いていた、我が家は四条仲通リで、親父は四つ角の場合は必ず死角があって商売しても駄目な所があるので見る目が大事と言っていた、我家の斜め向かいは一般住宅であとは殆ど商店繋がっていた、我が家の左隣は場鉄屋と八百屋、下宿屋の隣は射的とパチンコ屋が続いていた、向かいは仕出しとおかずや、菓子工場に魚やさん、米屋の隣は質屋さん、仲通を挟んだお向かいはお風呂屋が隣が髪結い屋さんに靴屋、雑貨屋と、右隣は化粧品店に少し大きなお菓子屋さんと、続き、テレビの「3丁目の夕日」で町並みが再現いたので驚いた。

親父は小学校しか出ていなかったが専門的な建築の話はよく話してくれていて、町並みの四つ角は死角を見極めと商売屋は道路と引居は同じ高さにする事で、客の入りが入り易くなるとよく話していた。

室蘭から輪西に移り住んだのは、二年後くらいで間もなく四条仲通リの角地の一角を手にい入れ遠藤百貨店の店をオープンしている、あっという間に小金を貯め商人に変身してしまった、私がまだ幼稚園時代でその頃は町中より少し高台にあった幼稚園まで毎日通っていたが、もうその頃から粗暴で弱いものいじめするガキだった、幼稚園では、帯で縛られ柱に繋がれたり、園内から閉め出されカギを掛けられたり、悪童だったことは間違いなかった、それでも近くの沢でザリガニ取りがある時などは、おお張り切りで一番収穫しては得意になっていた事を思い出す、園では茹でて子供達に食べさせていたが、真っ赤に茹で揚がったザルガニはおやっになっていたと思う。

その粗暴さは、小学生まで続くことになる。

 

 

 


釣り夜話から【自徐伝】へ

2015年01月26日 15時02分40秒 | 自叙伝

只今満80歳に到達しているが三歳以前の記憶は私の脳裏には残っていない、断片的だがそれ以後の記憶しか私の記憶箱には無いが、時折その記憶箱さえ思い出せない事も出始めた、回顧する事で脳の若さが蘇るかと80歳を期に初めることにする、小説でないので何の分野に入るのか自伝又は自叙伝が相応しいと思っているが、話が前後するのはご勘弁下さい。

北海道の何処かと言っても、室蘭か輪西のイタンキ浜の波打ち際を少し離れ出した父や母の背中をを追っかけている自分がいて、それを少し離れた空から見ていた自分がいた。

不思議な記憶が始まりだった、次に現れて来るのは幼稚園の鉄の門にしがみつき母の姿を追って泣き叫んでいる自分が、母は背中に赤子を背負って一度も後ろを振り向きもしないまま消えていた、当時親父は本職の大工職人でその現場のテコを背中に赤子を背負ってってのスタツフの一員だった、それゆえ朝に私を幼稚園に預け現場入りしていた、私の幼稚園通いも慣れ出すと帰り道父や母の現場に立ち寄り遠くから眺めていた、基礎作りの段階で杭打ちをやっていたが、昔は大勢の人達が杭打ちで縄を引き合い掛け声を掛けていた、子供心に染み付いていたが、1966年美輪明宏が「ヨイトマケ」をヒットさせた、ただ母の当時のイメージとのギヤップに戸惑ったが、歌の内容もはっきり分かり当時の母の心境その物であったと、この時は気がっく。

辛い時、悲しい時、負けそうな時、に「がんばろう!」と思う歌だと言うことが解る。

故郷を捨て、未開大地北海道に根付くため必死に働いていた父母の姿と重なり室蘭時代の幕開けのいっぺージのシーンが脳裏に焼きつけられている。


5月が待ち遠しい

2015年01月25日 18時01分20秒 | 釣夜話
楽しみながら病後の体力回復にと、百姓仕事を気が付いたのは昨年のまだ雪のある内だった、それの他にも前から定宿にしていた十勝岳麓の吹き上げ温泉に湯治に出掛けていた。
五日だったがバックカントリーで三段山山頂、手作り橇で滑り下りる事も出来て、自信が付き五月から始まる市民農園の仲間入りを果たした、楽しい六ヶ月だった、五月から始まった途端に突然の直ぐ下のの妹の死に、自分を振り返る警告でもあったと警告もあったのに過信していたの自分があったのも事実だった。
後悔先に立たずをこの歳になっても繰り返している自分の未熟さに呆れている。
どうも歳をとると考えが単旬に、そして頑固になっているのが薄々解っている。

昨日突然外出許可をもらい帰宅する、PCのメール整理と今日から始まった月寒中央公園で始まっているジヤンボフェステバルの様子を見る為で、私の代役の本間氏が活躍しているのを見て安心して病院まで帰って来た。
明日の日曜日まで続くが、お天気も味方しているみたいだ、久しぶりに沢山の子供達を見た。

親父から釣のいろはを教えてもらったが、私から自分の子供達に教えたのは釣りでなくウインタ一スポーツのスキーだった、直接教えた訳でなく環境を整えるのに私の全能力、財力、時間、をつぎ込んだ、全く悔いの無い子育て時代を過ごして来たと確信している、親父を超すことはできなかったが別の意味で私の役割は完徹したと思っている。
その頃の釣り場は私はもっぱら美国から先の岩場が多く崖をロープを持ち込み人の余り入らない場所を積極的に開拓したり、崖下りしてから組み立て梯子を持ち込んでは若さいっぱいの釣りを楽しんでいた。
それに引き替え親父の釣り方は、無論お客さんと一緒に歩いていたが余別の船釣りが多くくなっていたのは体力の衰えが原因だった事が後年にになって理解出来て来た。

釣札幌編
札幌に代わってから父も私も自分達の店のお客さんと釣歩きする事が多くなる、その頃は子育て時代と重なるのでプロドライバーと釣具店、それにスキーが中心の子育てが重なり、それは忙しい時間を役替えしながら充実した日々を過ごした。

それと対象的に親父は人で店先までタクシーを呼び込み、石狩新港釣りに変化していた、無論ドライバーには帰りの予約を忘れることは無かったのでタクシー会社には大変上客になっていたと思う、それほど釣りは親父にとっては人生その物と思う。

私から子供達に釣りは伝授はしていない。

歴史的出来事の瞬間をテレビ座席で観戦する。



只今サイボークで~す。

2015年01月24日 18時08分25秒 | 釣夜話
緊急入院して三週間が過ぎた、何回目のお風呂に入る首までざっぷり湯壺に入れる訳ではないが人間に戻ってゆく感覚は何とも云えない、異物が臍の下にぶら下がっている、此も我が身の内と思うと、とうとう劇画のサイボーグになったと異次元世界に入り込んだ気持ちになる。
主治医の話では近々此のままで一旦退院してもらいます、そして3ヶ月ほどしてから人口肛門を処置しますとのお話しだった。
多分現在の体力では手術は困難で少し体力が付き次第と、私は解釈した、病院のベット生活だけでは運動量が足りな過ぎる、此で病院の食事では食欲がなく正直食べるものが無い、普段食べているものを家から持って来て貰って食事を済ませて要るが、それでも半分程度しか食べれない。
手術痕も回復し安定して来たので今日から、院内トレーニングを開始した、と大げさに言っても軽い運動靴に履き替え病棟の階段歩きで手に杖を付き手摺に掴まっての歩行、5階までだったが息が切れた、ついでに階下院内を一周して来る。
明日からは徐々にトレーニング量を増やすことにしている。

現在でも私の幼名のヤッチャンと呼んでくれる人がいる、私より七歳上の姉さんで子供の項から親戚付き合いの女性で今は恵庭の末息子が住む近で一人住まいをしている、今でも交流を続けている。
遠藤製網時代前々から付き合いのあった日通の長谷さん、この時は萩野駅の日通の所長だったと思うけど、病身の奥さんに先立たれ親や兄弟それに自分の子供と大所帯の彼の苦境を案じて会社ぐるみで後妻のお世話、厚岸の婚期が遅れていた女性を言葉巧みに長谷さんの後妻に納めてしまった、中にたった人の話では子供は一人ということにに乗せられたか考えた末に長谷家の一員に、嫁いだ日は一人だった子供が翌日になると二人に一日ごと家族が増え最期は父親迄いたことが解ったが、もうその時は運命かとあきらめて添い遂げたと後になってその時の心境を話してくれた。

私も女房をもらい嫁舅問題で親父から家から出て行けと言われて、実家にも帰れずその頃すっかり親しくなっていた長谷さん宅に赤子を背負い避難していた、大変な頑固親父だったが時間がたちお袋から諭され薄々感じていた長谷さん宅に私を連れ戻し役として長谷さん宅に行き一晩泊まって帰ってきた事があったが、狭い借家の部屋に収まらなくて朝起きると父親が押し入れから現れたり、子育て時代の貧乏を身をもって経験した、本当にいま思うと懐かしくさえ思える時代だった。

その長谷さんが日通の所長時代登別辺りから苫小牧までの各駅を渡り歩いた時に、沿線の各川のヤマメ釣りをやっていた時に、親父に代わってヤマベ釣の先生になってくれたのが長谷さんだった、後妻に入って二人の男の子を育て上げたが、少し年がい離れていたが一人になってからもう20年もなっている。
あと数年で90歳に到達する、年々老化は進んでいる様に見えるが血はつながらないが姉の長命を心から願っている。

悪名時代の遠藤家

2015年01月23日 12時42分57秒 | 釣夜話
映画の勝新太郎時代「悪名」と重なるような遠藤家の時代があった、釣具卸商から発展し遠藤製網株式会社の運営に行き詰まり会社を潰してしまった、大事な息子を失ったり地獄を見た親父は、形振り構わずと残っていた自宅を利用しヤクザの世界と重なる遊廓[花月]を開業する、子供達は自宅から離れた所に借家を借りてお手伝いさんを住まわせ別世帯の環境を整えて遊廓の運営に関わっていた、時折私も帳場に顔を出し悪名時代の遊廓の裏側から現実の世界も見せてもらった。
親も社会勉強のつもりか私の存在を気にもとめていないようだった。
この時私は多感な高校二年生で男になったのも高2時代だった。

別宅の住み込みのお手伝いさんに手を付けてしまった、17歳になった男子相手は5歳も年上のお姉さんだつた、何時までも続く事なく室蘭の番頭各の高久さんにお預けとなる、他人の飯を食べたのも初めてで此処から学校に通っていた。
忘れない青春の一ページとなった。
遊廓その後三年ほとで終わり、今度は道路側を区切って店舗として貸し出す大家さんに変身していった、その間私は高校を卒業し短かった丁雅時代を終えて輪西に帰ってきた、時は昭和50年頃世間は糸編景気の真っ只中だった、何もすることがなく我が家に出入りしていた、軍払い下の毛布をニツカズボンにした商品を一反風呂敷に包んだ荷物を担ぎ行商の見習いで親方の後に付いて行った、実戦で商売の勉強をしていた、その内にもう修行も止めて自分の店を持ち開業ししてしまってはと、貸していた店舗を返してもらい親父は自ら大工仕事で奥行きが浅いが間口の広い衣料品店[越後屋衣料品店]を作り上げてしまった。
同時平行で商品仕入れは、同じ町内会の大阪商人の古物商に同行し大阪の競り場に渡りを付けてもらい競り場で初めての買い物をする、そこを終えると綿物の所の岡崎や戻って岐阜の競り場通い道が開け準備は整って来た、初回はお袋も同伴し私の後見人として見守ってくれていた、母と二人だけの長旅は此れが最初で最期となる、この頃婦人科の子宮癌が見っかり何年も入退院を繰り返すことになる、母まだ50歳頃で二十歳で嫁に来て二年おきに子供を生み、死産を入れて1ダースの子供を生んだと母の口癖だった。
余程親父に惚れていたのか、死もの食いで付き添い命を全うした、それはそれは腹の座っ
た芯の強い女性だった事が良く解って来た。

父母の強力な応援を得て、越後屋衣料品店は開業へとつながる、物さえあれば売れる時代店先は昔の札幌の金市館の店構えで商品が無くなれば札束を腹巻に巻きっけ大阪方面には通った、現金仕入れの現金販売面白い様にものが売れた、売場は店員二名ほど雇い母の手使もあって滑り出しから順調だった、始まった頃はまだ21歳の若僧だった。

魚信と合わせ
小さな魚でワカサギ釣りがあるが、仕掛けを魚に合わせた道具を使うとそれなりの釣の面白さが堪能出来る。、親父は何でも釣って来ていたが真剣に釣り方の研究も兼ねいた、大変良く釣れる魚に食べて余り美味しくないが、岩場の浅瀬で釣れる油子に良く似たハゴトコがいる岩場や海藻が繁茂し仕掛けが失う場所は重りに砂袋を使い紙ひもか輪ゴムで繋ぎ一回一回重りを捨てても惜しくない重りを考え出したり、研究に余念のない親父はだった、そして釣り上げたハゴトコは背割りにして焼くと藁で編み上げ囲炉裏の上に、乾燥してそのまま酒の肴になることもあるが甘露煮で戴くと立派な一品に仕上がる。
ガヤは浮魚だが大きくなるとハチガラやソイ擬きになる、結構美味しく食べられる魚です。
引きはソイが一番だがハチガラの引き込みも釣の楽しさを倍加させてくれる嬉しい魚で見た目は悪いが味はソイ並みと思っている。
圧倒的に当たりが強烈なのはスズキの右に出るものはないと思っている、油断すると竿ごと海の中に引きづり込まれてしまう事がある、何本も遠投げして竿たてに立てているススキは固まって回遊してくるので釣れ出すと巻き上げている途中にで残りの竿の方にも掛かってしまうこともあり、体がひとつには出来ない相談になる。








カメラとの出会い

2015年01月22日 16時54分31秒 | 釣夜話
小学生の遊びの中で日光写真があつた、単旬な作りで印画紙を黒い袋から取りだし写真と反対の種紙に合わせ太陽に向かって当てると写真が現れて来ると、子供の頃は興奮していた、残念ながら定着が出来ないので翌日には印画紙は真っ黒になっていた。
本物のカメラを手にしたのは高校の一年生だった、兄と同じ学校で室蘭商業高校で入学時は東室蘭の兄の通った学校だったが直ぐ母恋に移っていた。
クラブ選択でカメラ部を選んでしまったのは兄の影響が大きかった、兄はその項でドイツ製の一眼レフKW社のPrakticaを持っていた、私はカメラ無しで入部していたので時折兄の目を盗んでその豪華なカメラを部活に持ち出していた。
しかしいっまでも続く事はなく、親父から自分で働いて買えと言われる、父母が話し合いってのことだったと後で気が付くが、母と相談して夏休みに家の一角を利用し生花店を開く、仕入を担当し輪西からリヤカーを引きながら本輪西方面の山側に点在していた、農家の庭先に咲いている花を買い付けて廻った、お月見などには途中の原野でススキや背たかあわだち草を刈り採って商品に混ぜて売っていた、売り子はお袋で商売上手だった、カメラが買えるほど売上が貯まると兄に頼んで買ってきてもらったのが国産カメラのミノルタのシヤバラ式カメラだった、嬉しかったその夜はカメラと添い寝をしていた。
目的を果たすと花屋さんはいつの間に閉店している、それから部活には誇らしげに首から下げて歩き廻ったことを昨日の様に思い出す、カメラのお陰で女生徒と自然に接触出来る様になりこの頃から異性に目覚めた瞬間だった。
黒の学生服にゲレーのスボンをはいて目立つ服装に、硬派から軟派に変身していった。

川釣り編
親父と一緒に釣り歩いた中で印象深い釣がある、後から検証すると最所から川のボラ釣が狙いで場所は靜狩方面の大岸の河口がポイントだった、現地到着後海岸へ波打ち際でたもを使い沖アミ掬い、それが今日の魚の餌だった、このボラ釣は釣果より釣の醍醐味を考えての釣り方で、竿はへら鮒釣の段巻き竿にヘラ浮きを使用し針は極小針に沖アミを付けて川の深みへ上流から流し込むと微かに浮に変化が現れる、タイミングを見計らい合わせると一気に竿は引っ張り込まれ竿が二つになるようにしのる、魚との闘いが始まる暫くすると、魚は弱って来る、そこまで持ち込むと人間の勝ちに完全に釣り上げると50センチもある大きなボラで顔は四角い面白い顔をした魚でした。
北海道ではあまり食べられていない魚ですが、洗いとか酢味噌あえで食べた記憶が残っている、本州ではボラの卵で珍味を作っているので珍重されているボラだが北海道では滅多に見られない魚です。












釣具の変遷

2015年01月21日 12時22分02秒 | 釣夜話
戦後食糧難時代は遊び半分ではなかった、捕ってきた獲物は生きる為の食糧に明日の糧となった、沢山釣ろうと思うと釣り場の選定が大事で我が家の茶の間が情報集めの場所に、移動方法はこの頃は鉄道一本の時代だった、非番が多い鉄道マンが多かったのも頷ける、太平洋海岸は砂浜が多い、波打ち際から100Mほとの所へ餌を付けた針を投げ込むには手竿では不可能だ、ぞこで遠投が出来る投げ竿が改良して出来上がって来る、親父が考え出した竿は、竹継ぎ竿で扱いやすい長きを15尺としそれを四本にする事で汽車で 持ち運びの時でもと考えての事で、普通は2セットでそれに付帯する竿立て角形魚籠、リックサックの中は弁当と雨合羽、時には特長も用意するので結構な重装備になる。
装備で忘れてはならないものにリールがあるが戦後はドラムの金属性でメーカーは確かオリンピックと記憶している、大きさは三寸五分でがっちりとしたリールだった。
その他矢張スチール製の富士リールでこちらは四寸が主体だった戦後中のドラムはプラスチックに変わって行ったが少し重くなったと感じていた。
重いものに重しがあるが最初は純正の鉛の三角で投げ釣り用は20グラムを使っていた。
仕掛けは三角を使い針二本が標準だった、餌はもっぱらえらこが主役だった。
室蘭時代はまだグラスフアイバーが発明されぬ前だったので天然物の鯨のひげを削って穂先に取り付けた竿でひとランク上に、釣果期待出来た竿だった。

山女魚釣・1年生
初めてヤマメ釣りに挑戦したのも親父のお供で始まっている、川は竹浦川で手頃な川だった、出で立ちは竿一本腰には蓋付き魚籠それに餌入れがセツトされていたと思う、背中にはオニギリとお茶が足元は地下タビに草鞋履、兎に角一人前のスタイルだった。
下流から釣り上りで1ヶ所に止まらない釣りスタイル、親父の後を必死に付いて行った、親父の釣り方を真似て竿を出すが、そう簡単には釣れてくれなかった、腰くらい深い川を何回も渡る、その内とうとう初めての山女魚を釣り上げる、その日はそれ一匹の釣果だったが楽しかった、それに用意して行ったオニギリの美味かったこと忘れる事は出来ない。
以後やまべ釣の先生は、長谷さんになった。続く

北海道遠藤家の教育骨子は

2015年01月20日 15時33分03秒 | 釣夜話
親父は遠藤家の長男として誕生しているが、親の目から見た父には異端児に見えていたのか家督は次男にしてしまつた、女親の強い意思が働いたと聞き及んでいた、それが切っ掛けで生まれ故郷を出る決心をした、その項で子供は4人になっていたので上の長男と長女を祖父に預け水盃を交わし北海道の士を踏んだ、その後親父は親が死んでも故郷に帰る事はなかった、本音は錦を飾って故郷にが親父の秘めたる心と推察している。

父のバツクボーンは、ー子相伝長子相伝が組まれていたようで教育方針、昔から踏襲されて来た男尊女婢で生まれてきた長男を家の跡継ぎとして生まれた時から別扱いに、実際その様に子供を育て鍛え上げている、兄は幼児期に目の上をハチに刺されて失明している、そのハンデーを克服しながら小学校を卒業すると、ここで父母のグループに合流する、第二次大戦が始った頃に中学生になっている学校は5年間で最後の年は終戦を迎えている、兄は文武両道で片目の独眼竜政宗だったが剣道を続けていて選手にもなっている。
大事に育てていたのか当時珍しく写真が残されている。
それに引き換え、次男坊の私には勉強を強要された事もなく、元気に朝から晩まで遊びまくっているのが私の日課だった、親父は時折商業実践の様に泊まり込みで一人で商用の手使いをさせられていた、其れなりの考えのあってこそと想像つく。

戦後釣具卸商から転換した、漁網会社の運営は大変な時代に会社を立ち上げてしまったみたいで、漁師に売った網の代金が回収出来ない事態に、自然相手の漁師は魚が捕れなけれ
ば支払う事は出来ない、大漁が続けば何の事もないのに、この時代の商法に打ち負けた、それでも生き残るのに闇で綿糸の横流しが残されていたが、父の潔癖症はそれを許さなかった、後耐え切れずに会社は倒産する最初から一緒に携わって来ていた兄の長男が責任を取る様に間もなく失踪してしまう、その後足取りは途絶えたまま、たぶん何処で命を絶ってしまったと想像するだけです。
親父も長男には大きな期待を掛けていたと想像出来ます、親父の人生の中で一番悲しい出来事と思います、その後の人生観も変わって行ったと思っています。

親父の教育方針は自然に私にも引き継がれた。

今日の釣り談義は
後年、店の前へタクシーを呼び込み豊平川の下流の堰堤まで行きヤッメウナギの引っかけに通っていた、背おろしし串に刺して焼き上げ蒲焼きの様にして美味しそうに食べていた。
兎に角釣った魚は供養と粗末にする事はなかった。





遠藤釣具商は通算26年に及ぶ

2015年01月19日 17時23分51秒 | 釣夜話
親父の才覚で昭和18年頃百貨店より遠藤釣具卸商に変革している、間もなく終戦を迎えるが親父が最も輝いた時だ2年くらいでひと財産築く、ここで親父は発展的に物事を考え釣具から漁網の分野への転出を図る、その頃は綿糸は統制時代のキップ制で自由販売の出来ない時代だった、遠藤製網株式会社を立ち上げた、事務所もシックイ塗りのジャンデリアが下がった応接間もある会社で、専務や事務の方には長男もスタツフの一員だった。
向かいの工場には糸車のついた輪転機械が稼働していた、出来上がった網を二階の倉庫で仕上げ作業と忙しく、女工さんもたち働く企業だった、その頃私もー役かって夜になると工場入口の門番役で泊に行っていた。
遠い昔のお話しです。

釣の方は磯釣りばかりでなく自家用磯舟もあったが、私はからっきし舟に弱く釣り場につかない内に舟酔いが始まってしまうので子供の頃は舟釣りは出来なかった、それでも大人になってからは、いつの間に消えていた。
黄金の沖辺りは宗八カレーの漁場で何時も箱釣りで大漁が当たり前だかた、量が多いとあの独特な魚の臭いに閉口するが、腹を出し串に刺して2・3日干し上げると、これがカレーの一夜ぼしになり最高の代物に変化する。
宗八カレーは干物のトツプリーダーです。
残念ながら磯釣りでは釣れないカレーです、虎杖浜辺りから日高沿線様似辺りの砂浜でタカノハカレー釣りが楽しみのひとっでした、よく煮っけにして食べていたが黒がしらカレーより美味しかった、いっの間に姿が消えてしまった理由は未だに解らない。

親父の釣具商は、室蘭編5年と札幌編21年の合計26年に及ぶ。

スケトウタラの三平汁はご馳走だった。

2015年01月18日 20時01分55秒 | 釣夜話
輪西時代の我が家の左隣は津軽弁丸出しの婆ちやんがらっ湾振るう八百屋だつた、親父は馬車追いをやっていて馬鉄も合わせてやるやり手の一家で子供時代大いに影響を受けている。
魚はガンガン部隊のおばさんが出入りしていた、季節の魚の中でスケトウタラは我が家の食卓を大いに賑わい充実していた、この魚値段が安いのが最大の魅力で捨てる所がない、レシピは頭から尻尾までぶつ切りコンブを曳いた大鍋に大根がどっさり入る味は塩味の三平汁で食卓を充実させていたと思っている、魚のメスと雄で白子なら鍋の中にタラコだったらコンニヤクで和えて鍋の他に一品増えていた、秋に大量に漬けた沢庵は何時も食卓に、丸いチャブ台を囲んで食事風景で親父はガラスの中が見える銚子に酒を入れ鉄瓶の蓋を取って燗をする所作は決まっていた、鍋の中から大きな魚の頭を取り出して美味しそうに綺麗に食べる仕草は決まっていた、遠藤の子供達はこの魚で育っている、レシピは味噌汁になったりちり鍋になったり、旬が終わると棒だらを戻して薄味醤油で煮っけになったりスケソウ様々でした。

親父が充電中、毎日の様に輪西の鶴中の前の坂を登り詰めゴルフ場跡を降りると右手にローソク岩、左遥か前方に鯨半島が見える砂場海岸に立つローソク岩まで所々岩場もあるが降りた辺りは一面鳴き砂だ、最初はカレーか油子狙いと思つているが、その内夕方まで粘った夜予想もしなかったスズキがヒットした、後での話しの中で、夕方になると沖の方で大型の魚が波だつのを見ていたと話していた。
獲物は大きい凱旋して帰って来る姿は魚のエラにタオルを通し釣竿にぶら下げひとやま越えて帰って来る、町中を通るので一辺に噂は広がった、それから親父も毎晩通い続けた釣果は一晩に三本も掛けてしまい持ち帰るのに大変苦労している、何せ魚は大きいのは1Mもある、大漁もほどほどと思う日もあつた、イタンキのスズキ釣りは親父が開拓者で、毎晩浜は賑わいを見せた。
今から50年以上も前の出来事です。

今日は院内喫茶店へ

サツカーと相撲で躍る遠藤家

2015年01月17日 14時37分15秒 | 釣夜話
親父は小学校を出ると村のしきたりか大工の修行時代に入っている、13歳から20歳迄の8年ほど親方について修行が続く、村に帰って来るのは盆と正月だけの世界だった。
母も小学校を出ると越後特有で巻町の毒消し販売組織に加わっている、組織は年配の女性を親方としてその下に子供と呼ばれる売り子をはいし一団を形成し行動し、旅館は使わず部屋や一軒家を借りて合宿生活に入って農村部へ散開している、商品は毒気しばかりてなく日用品全般を扱い歩く百貨店と呼ばれていた、越後カスリを着て「毒気しはいらんかね~」と歩く姿と母の映像が重なって来る。
親父は大工の年季明けが終わって間もなく隣の遠藤ハナと結婚する、父22歳母20歳1925の正月。

1927年に長男(照秀)の誕生、1929年長女(房子)、1931年次女(死産)、1934年次男(泰秀)私の誕生、1936年に直ぐ下の妹の芳子と続く、ここまでに生まれた子供達の生誕地は五ヶ浜で
このあとに生まれた子供達は道産子になって行く。

防波堤釣りは、本輪西駅で下車し北外防波堤(通称白ぼう1)まで歩いている、延々と続くケーソンの上'を行く灯台まで600Mほど途中幾つかのポイントはあるが昼間はカレー、油子、カジカ、ガヤ、夜釣りは黒そい、それに夏場のハモ釣りは親父からの直伝で夜のカーバイトランプが懐かしく思う映像として焼き付いている。

風が強い山瀬風が吹く日、防波堤は途中堤防の上を波が越えている箇所が数ヶ所見えていたが、構わず堤防のとっさきまで一気に走り灯台真下で釣りを強行したことも忘れられない思出のひとっです。
灯台真下は堤防より1M以上高く灯台の風下でしぶとく釣りを決行する技も父からの直伝と懐かしき。