ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

点滴45日現在47k

2015年07月16日 11時43分09秒 | 闘病

最後の食事を食べ終わって一月半にも及ぶ絶食、栄養は点滴だけの環境 が続いた一気には体力の衰えは目に見えていなかったが近頃は抗がん剤の副作用も酷く感じていた、待ちに待ってた治療が昨日から始まる、腹水を抜き今日は何か薬剤を投入とのこと、明日は食道からの管を外すと言っている、そうすると食事がいよいよ再開される、不安はいつぱいだが良い方向に向かっている、パット視界が開けた感じだ、漸く残された人生に光が差して来た、この分なら遠藤農園の後半に参加出来ると嬉しさも込み上げて来る。

春に植え付けした馬鈴薯は この間から掘り出しては食べはじめている、この後に白菜と大根を植える事にしている、キヤベツの収穫後には秋取りの馬鈴薯を植える事ににしている、先日ボカシ肥料を作ったがどうやら完璧に出来上がったらしい、天恵緑汁も同時に出来あがつたので、後半使う肥料とストチユーは完成しているので有機農法は完全に実践出来ると確信している。

早く現場に立ちたいな~、もうひと辛抱と心を沈める。

 


底を脱出した爺

2015年06月22日 17時35分35秒 | 闘病

三週間隔で始まった抗がん剤治療は、6月18日が第二週になっていた、治療を受けた当日は副作用など出てくるかと思う位だった、翌日洗面所に顔を洗いに行き頭を触った途端髪の毛がボロボロに抜け始めているのに一瞬驚かせされた、直ぐ冷静になりイスラム帽子が出番がきたことを悟る、それから次々と副作用が私を襲った、四日目と昨日の五日目が最悪状態で、この辺りが今回の底止まりとなった様だ、今朝目覚めたが平熱になっていたので頭もはっきりしていた、体重計に乗ると48㎏になっていた、釈迦の修行中の裸を連想させる自分の姿に哀れみさえ感じしまった。

底止まりを感じれば後は快方が待っている、と自分に言い聞かせ気力を奮い立たせる、昨日まで私を含め二人の病室に新しく二人の患者さんが入った、少し賑やかなった。

相変わらずお昼頃妹が、我が家の花壇の写真を撮ったと見せに来てくれた、精神的な余裕もこの辺からのサポートで生まれて来るのを感じずにはいられない、予定していた降雨が来そうもないので、明日は畑の水撒きに行って来る、帰りはそのまま病院を訪ねると言って帰って行った。

久し振りに屋上の温室に顔を出す、真夏の風景に替わっているのに気付かされた。

 

 

 

 

 


復興ルート開通する。

2015年06月15日 17時16分24秒 | 闘病

幹線道路がズタズタにやられた、救援を待っている処に最良と思われた物資を生命線の胃袋から小腸をまで送り込んだが、現地の受け入れ体制が整っていなかった、一次隊から5次隊まで必用に支援を続けた、通信手段も復興していなかったので現地の生の情報が正確に解らないでいたのだ、救援隊の二次、三次、四次と被害が拡大するまで解らないかったのが今回の苦行に繋がった、絶食を始めたのは6月2日で今日で二週間ににも及ぶ、僅かな水だけで耐えた大量の点滴を打ち続けた、今回の治療には内科医も加わり万全体制だ、治療方法も定まり喉に穴を開け 食道を通 し胃袋へ、そこから小腸、大腸まで管を入れて多重遭難した場所を含め瓦礫の撤去が一週間ほど続いた。

今日は朝から現状確認のため造影剤を食道から入れ、レントゲンでの追跡調査が始まった、始めでから4時間後に僅かだが待望の通便があったのだ、此で幹線道路の復興に大きく前進した嬉しい日に、漸く退院の目安もついて来る。

妹は、朝から私の代わりに遠藤農園に出向いている、とうとう害虫の被害が出て来たので清田JAでその対策を聞いて必要なものを買って来てもらう事にしていた。

農園の情報第一報が届いたのは午前中だった、現場の写真を何枚も撮る事も頼んだ。

農園作業が病後の体力回復の特効薬になっていると確信している。

遠くから北海道神宮祭りの振れ太鼓の音が聞こえて来ている。

 

 


365歩のマーチ

2015年06月11日 18時50分31秒 | 闘病

水前寺清子の歯切れよいマーチは、人生の所々で突然思い出され元気を与えてくれる歌です、今回も二泊三日の予定で入院したが予定と現実のギヤツプは大きかった、三週間サイクルの抗がん剤治療の日が来週の火曜日に予定されている、第一回目の時には酷い副作用もなかったが、胃腸が異常に機能低下を起こし未だに後を引いている、今は内科医も加わり対処してもらっているが完治にはほど遠い、それでも一時ほど追い詰められていた時よりは少しは余裕が出てきた感じもあり、久し振りに院内文庫本を手にする。

飛び込んで来たのは、平山郁夫シルクロード展の彼の女性像に目を奪われた、 世界の女性ランキングが極端に下位を低迷している訳も少し分かりかけて来た、曰本の場合は女性政治家が育たないのか、回避してしまっているのか、選挙率が男女を問わず低いのも近頃の常識になってしまっている、きっと教育が悪いのが原因か、兎に角国の基準の中で経済、教育、政治、健康は欠かせない物ばかりです。

国や民族によって女性は動物扱いしている所も現実にある、もう人間ではないと思うけど、再教育するか、それ故教育がいかに大事かも解って来る。

司馬遼太郎の猛烈なファンの一人で、最後に目に焼き付いたのはNHKスペシャル、湖西のちち、韓のくに紀行、モンゴル紀行、だった。

彼も日本人のルーツを探していた事も判ってきたが最後まで到達していないで終わっている。

 平山郁夫の世界

 

 

 

 

 

 


五月も過ぎ6月があっという間まに過ぎて行く勢い。

2015年06月08日 22時00分27秒 | 闘病

ただ一日を生き延びている感じだけでは成長は感じ感じられない、今日より明日へ明日から明後日と少しでも成長し続けねばこの世に生まれて来た

解(かい)、が意味で当てはまっているかも理解できていない、私には難解な問題で、もうこんなところで頓挫してしまった。

抗がん剤治療が28日から始まった三週間単位で秋風が吹く頃まで続いていくが、食欲が極端に減退し時には何も食べれなくなる日も出てくる、今回も1週間ほど何も喉を通らない、10日間ほど前に食べたのは重湯だったが時々動いているようだが出てくる気配はない、その内に数日後良かれと飲んだ玄米スープが最悪状態に落とし入れた私の責任で、やったこと誰も責められない身から出た錆びだ。

この度は、内科醫も加わり食道から胃袋を通り小腸の腐敗したような物を排泄してくれた時間はかかったが地獄から呼び戻された感じ(こ、厳しい悪夢の4日だった。

今日も1日不思議な一日を過ごした、眠れ姫ならぬ眠れ王子になり朝から夕方まで8時間はベットに横になっていた。

不思議な日だ。

 

今できる最大限の事をやっているだけなのだ。


断髪のもうひとつ理由が浮かんで

2015年06月07日 17時46分14秒 | 闘病

戦場を駆けるカメラマン、渡辺陽一氏が突然テレビに登場してから3年は経っていると思う、彼の語り口は独特で話す内容よりあの雰囲気で茶の間の戦争とは関わりない人達を取り込むで行った不思議な人物である。戦場を一緒に駆け回って命を落とす人が多いなか、ある程度仕事をな遂げ今は安全な所に住んでいる、それもそれで一つの目的を果たしたと思う、特に年齢が高くなつて来ると思慮分別は付いて咄嗟の判断は引くことも多くなるのは自然かと思へる、どれだけ彼の戦場をカメラマンとしての職業を理解しているか、ここ数年の彼の行動で女性や子供にも判ったことも多かったと思っている、彼も見たところ盛りは過ぎたと思う、此れからも大戦はないと思うが小さな紛争は無くなって行かない、自分の価値観を人に押し付ける事だけでも無くなれば世界平和に一歩近付けるのではないかと、単純に考えているのは私ばかりかと思ってしまう。

何時の間に刷り込まれてしまっていたようだ陽一スタイルのチョッキと今回のイスラム帽子が私のスタイルに入り込んでいたのに気づかされる。

渡辺陽一氏はテレビより今は講演をしながら学校や企業を廻っている、彼の大きな役目でもあると思う。

今回3日ほどたったが一人で戦場のど真ん中に取り残された、数日前から緊急援助隊が喉元から食道と胃袋を通過し小腸内に詰まって瓦礫を排除してくれた、良く耐えた、期間は短かったが手術と変わらぬ四日目で漸く小康状態に、このあとの処置も大事と思っている。

写真はネツトから借用


今日は、山開きのはず

2015年06月01日 17時00分46秒 | 闘病

病室の裏窓から見える風景は再々開発のビルが地下部分のコンクリート打が終わり二三日静かだった工事現場が今日は朝早くから騒音を鳴り響かせていた。

故郷の輪西の町を夜逃げ同然の様に抜け出し、最初に落ち着いた場所が東札幌の中心部だった、今の南郷通りに面した借家だったが通り沿いは家並みが続いていたが周りは田圃が点在し夏になると蛙が鳴いていた時代、すぐ向かいの銭湯喜楽湯を利用していた、今から50年以上も前のこと銭湯喜楽湯だけはいまでも営業している、周りはすっかり様子が変わった、地下鉄が開通し一気に開けて行った、この地に居たのも一年余りその後大通り20丁目の市電停留所前に遠藤釣具円山店を開業している、親父の援助を受けての事だが有難い親心に感謝するだけだった。

次男は、この円山時代に誕生し長男共々円山小学校、向陵中学校の卒業生になっている、当時は市電が円山公園まで行っていた、公園を出ると桑園を通り札幌駅前からすすきの迄と、そのまま山鼻線西線へ、すすきのから豊平定鉄駅前迄、その他苗穂駅前迄市電ルートは充実していた。

今は地下鉄が取って代わっているが観光札幌にはレトロな地上を走る市電が相応しく思えてくる。

札幌の街中にも古い町並みを残した(テーマパーク)観光等を考えてもいいのではないかと思っている。

避暑と思い屋上に、ところが暑かった南国の植物園になっていた。

 

 

 

 


イスラム帽子と断髪式

2015年05月31日 17時16分20秒 | 闘病

散髪屋さんに行かなくなるようになってから25年は経っていると思う、それに坊主頭でいたのは高校の二年生位まで64年ぶりに子供に返った様に思えた、今回の入院以来ずっと考えていたことだ、最近は時々床屋に顔を出すように成っていたが白髪染めが目的だった色はダークブラウンで老醜をカバーしていたつもりだった、ただ長年続けて来たポニーテールの髪型は愛着があり捨てがたくも思っていたたが、今回の最後の聖戦と思われる戦いには余裕は全く無くなっている、抗がん剤治療の副作用で髪が抜け始めていた、此処等が潮時と考え先日今日の断髪式を妹に頼んでいた。

と同時に頭を保護するキャップも探すように頼んでいた、ネットで調べると私が望んでいるような帽子は介護用が存在していることも判ったが、最近若者や一部の人達に流行り出している既成でイスラム帽子として市場に出回っていることも判った

今朝はそれ以外に矢張ネットで仕入れた情報から玄米スープを作って来てくれる様に頼む、兎に角人使い荒い兄貴だと自分でも自覚している。

今日は、私からの注文の玄米スープを作りイスラム帽子を探して買ってきて私の断髪式に自らハサミを入れた、ナイチンゲールの様な素晴らしい妹です・

 

 

 


エ○ド○戦記(03)

2015年05月30日 17時11分33秒 | 闘病

現在の前線は東部砂漠の真っ只中、イイ(胃)村を巡っての戦いになっている、此所からS、L(腸)を横断するバイバスルートが我が国の生命線で、最近ではこれを狙って必要に攻めて来ている、我が精鋭兵士アブキラキサン部隊も砂漠の野戦場で活躍中だが、地上には敵兵の姿は見えないベトナム戦争さながら地下トンネルでルートを作り、壊しても壊しても新たなトンネルを作っている、犠牲を惜しまず人海戦術で攻めてくる。

前線は広い守りも手薄な処も出来る、戦い方のペースも敵方にある、一方的な勝ち方はないと思えるほどだ。

昨夜から今日の昼近くまで都市機能はやられていた、補給ルートが絶たれ孤立状態になる、親衛のサポート隊が非常用原子エネルギー源に切り換える、出来れば自然エネルギーが理想なのだが、それを阻害している敵の狙いでもある。

今回の戦いは自然エネルギーで成り立つ都市を目指している、其が究極の国家目標だ。  


エ○ド○戦記(02)

2015年05月29日 13時35分32秒 | 闘病

今回の戦いで敵は巧みな戦法で攻撃を仕掛けて来ていた、少し前のベトナム戦争、今起こっているシリア内戦、どちらも戦力のさ差があるときに出てくる昔からの戦い方弱者と言えど時には勝利してしまう事さえある。

反転攻撃の先端は我が陣営から切られた、5月18日13:10兵士10万人の中から精鋭六千人を第1回反転攻撃隊として出動させる、友軍の主力はキタサングループ族に属するアブキラキサン部隊が投入された

前回の大戦は気が付いたら、主要都市の一画に頑強な近代的な城を築かれていた、その時から作戦会議が開かれるようになった、この国はセキリテイも敵を攻撃する機能は備わっていない、今回も敵の動きを発見してくれたのも軍師になってもらっている(通称博士)のST氏だ、此方は軍隊を持たない国なので、時には外人部隊を雇っても動かせる事が出来ない、戦いの方の大臣も含め軍師(参謀長) として味方に加わってもらっている。

前回の大戦では総力戦で、此方からはサイボークまで戦いに加わる総力戦だつた、戦後処理後のダメージを少なくするため少し緩い終結で終らせたていた、一番危惧されていた事が現実となってしまった、この大戦で生き延びた細胞がいて公海上の海(腹水)に逃れて其処で其の細胞が密かに増殖を始めていたのだ。

サイボーグとなった細胞はそれぞれ海(腹水)を使って戦線を広げて行った、今回は一ヶ所に止まらず様々な場所にまで分散させた戦略で来ている、彼らが作った腹水の中には我国を支える栄養素が溶け込んでいる、その中に敵の細胞が紛れ混んでいる敵は姿をミクロに変えてきた、一つ一つ見っけて殲滅するか増殖を止めさせるか一気には決着は付かない、今回の作戦会議で28日に続き三週間サイクルに攻撃を仕掛けて行くことに成っている 、次回は6月18日で多分二泊三日の缶詰めがその後秋風が吹く頃迄続く。

エド戦記も言いが遠藤農園も気になる所だ、少し余裕が出て来た様に思える。

洗面所でクリスマスローズの花が置いてあった、我が家のローズも早くから花を見せてくれていたが今ごろはその花から種がボロボロ落ちているはずと思い出している。

 

 


エ○ド○戦記

2015年05月28日 04時32分36秒 | 闘病

戦況が要約判明したのは5月27日今日の作戦参謀会議だった、戦況は直接戦場の斬り込み部隊であり作戦参謀でもあるS氏から現状報告と明日から戦いの子細が明らかにされる。

重要な資料デターや、此れからの戦場現場の偵察は済ませ反転攻撃の準備は整った。

2年前の突然の戦いで味方の兵士を全滅まで行かなかったが主要都市の3/4を失った主要都市の大きなダメージは国全体の存亡にも関わる、大戦後の復興が少しづつ良くなっていたと思っていたどろ、想像もしなかった自然災害を招き入れてしまった、この国の最高責任者が自ら侵した過ち、人間にはよくある事だ、其のまま国の滅亡に成らなかっただけでもこの国は救われている。

前回の大戦で生き残った残党がゲリラ戦争に転じた大部隊を編成しないで小さな部隊になり戦況を一気に広げてきた、特に狙われているのは我が補給ルートで数が多いで中々厄介だ、此方も精鋭支援部隊を一万人揃える事が出来るが其の60パーセントしか使えない国力、闘いは長引くと思っている、それにこの闘いに参加してくれる味方の兵士の中に力を余して友軍まできづつける、その手当てにあたる準備とスタツフも整った。

兎に角明日から始まる最初の反転攻撃でどういう戦況になって行くか今から予想も出来ないが、国(一代で終る単一国家)の存亡をかけての戦いには違いない。

少し余力が戻ったので、戦記日記を時々出すことにする、とうとう日付線を越える。


一寸先は闇、時々主が居ない家

2015年05月22日 19時05分02秒 | 闘病

自分の体でありながら、自由にコントロール出来ないのが情けない病気になって世界が変わってしまった、これ迄の人生で大病はあったが若さで克服してきた、後を振り返ると60代は若さも知力も頂点に達していた、70代は少し衰えた肉体を知能が補っていた、平穏に行けば90歳位まで余勢をかって行ける気がしていた、80歳で最後の試練が待ち構えていた、胆嚢結石から胃癌、大腸破裂、腸閉塞と二年間で徹底的に痛み付けられた、今は余裕がなく精一杯頑張って生きている、それでも3日もあげず遠藤農園には通いつめている、昨日も先日植えたさつま芋が枯れ初めていたので苗の植え直しをしその上にトンネルかけをしてくる。

此れから野菜畑は一気に成長期になる、天候も安定し太陽が照り続ける、今回は何時まで入院が続くか解らない、三日に一度は水撒きが必要となってくる、私が行けない場合は妹にバスを利用して行ってもらうことにしている。

せめて農園だけは続けて行ける事を願っている、私の病気回復には最高の特効薬と本気で思っている。

 


案じていたことが

2015年05月19日 16時06分09秒 | 闘病

体調が優れない日が続いている、その日により朝から鼻歌が出てくるような爽快な日があるが午後になり体内に住み着いてしまった悪魔が動きだし悪さをしているような症状になる、身内の母や妻、それに大勢の癌患者の通った道だ、生れた時からの運命か、とうとう私も同じ道に迷い込んでしまっている、早くから腹はくくっていたが実際証拠を付きつけられると心は萎えるが、生への執着はまだまだ旺盛なり。

今日の定期検診で、先日腹水を抜き取り検査していた結果が知らされる、腹水が溜まるということは何か原因があると私なりに理解していた、其の腹水の中に癌細胞が含まれていた、遡れば胃癌を手術してから二年は経過していた癌細胞が生き残り活動を始めてしまった、主治医は抗癌剤治療を薦める、無論私も此処では負けていられないと主治医に従う、飲薬でなく、点滴治療を行うので2泊3日程度の入院が必要と云われる、第1回目は5月27日から始まり三週間おきに治療が始ることになった。

今の所相当体力は衰えているが、治療の合間をぬって遠藤農園だけは続けて行きたいと決心している、病人に成り切ることだけは避けたい、日々の楽しさも一緒にやって行きたい、6月のアカシアの花が咲くころには愛車のMBXを乗り回しアカシアの花の雨に打たれたいと思っている。

現在は、今年大腸手術のあと癒着、腸閉そくとダブルパンチを食らって便秘体質になっている、兎に角コントロールが難しい、病院から出た薬剤で調整しながら一日一日頑張っている、その苦しさを忘れさせてくれるのが今年も始まっている遠藤農園の農作業だ、週間天気予報を見ては一喜一憂している自分を可愛い奴と思っている。

 高校二年生

22歳頃、浅草寺前で(衣料品の仕入れに大阪岐阜まで)

24歳頃町内のドライバー仲間と遠出(愛車ホンダトリーュームで)