ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

故郷は大工の里だった

2014年11月29日 20時28分28秒 | ペタンク爺さんの一日
新潟弥彦さんの裏側の海岸は海岸伝いには道路が無かった、そんな不便な海岸に小さな小さながあった、そのに行くには今は岩室温泉あたりから国道402号線で海岸に向かう道路が開通していて海岸線を貫通している越後七浦シーサイドラインが海岸線ぞいに続いていて、途中からそのシーサイドライン沿いに五ヶ浜村に降りて行く道路が有る。
岩室から海岸線に出るにはひと山越えねばならなかった、そう五ヶ浜峠が待ち構えていて鬱蒼とした杉の大木が道路に被さる様に空に伸びていて昼間でも薄暗く感じていた。
私が6歳の時に七歳上の兄と子供だけの二人で、祖父が待つ故郷へ兄の帰省の為に付録でお供した時の記憶で、兄は祖父の所で12歳まで住んでいた、中学校に進学するため親の住む北海道に来たので、兄にしてみれば五ヶ浜が故郷だった。
その頃は、五ヶ浜峠を越えてに行くより方法が無かったので、峠越えの記憶が後々まで消えることは無かった。
小さなだがの半分は、遠藤と阿部の苗字でしめられると云っていて、それで屋号で呼ぶ習慣になっていと親たちは云っていたことを思い出す。
最近では滅多に聞くことは無くなってしまったが、故郷の新潟弁を耳にすると父母の事が一気に思い出として蘇えり今でも胸が熱くなる。

の産業と云えば、殆んど何も無し男も女も出稼ぎで一家を支えていたと思う、男は大工で一番は宮大工、2番は船大工、三番は普通の大工で、親父大工で其れでも一人前になるには10年はかかると云っていた。
北海道に移り住んでから、一人棟梁で個人住宅を一人で建てていたと思っている建前だけは仲間に応援をもらいその後一人で請負制で仕事をのなしていったと想像している。
後から振り返ってみても、急激にお金を残し商人に変身していった親父だった。
商才に長けていったた事は間違いない事実で、戦前戦後の日本の激動期を巧みに生きていたことは私は見ている。

久しぶりに、親父の残した大工道具を使う、私の私物になってから殆んど手入れもしないでほったらかしカンナもノミも刃がボロボロになっている、作業場はホーマックのサービス部屋を利用し、必要な物だけ材料を買い込み計画したものを作る、作り始めてからほぼ完成するまで4時間はかかってしまった。

帰路は陽が落ち暗くなっていた。

故郷五ヶ浜のを海側から望む


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