むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

32、柏木 ①

2024年03月07日 09時01分40秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳













・柏木衛門督の病は、
治らないまま年も明けた。

父母の嘆きを見ると、
柏木は親に先立つ不孝の罪を、
ひしひしと感じる。

内心は、
もはや命は捨ててもよい、
とさえ思うのであるが・・・

幼いころから、
自尊心あつく、
人に負けるまいと、
理想を高く持っていた。

しかし、
女三の宮を望んで得られず、
あれから自信をなくした。

世の中がすっかり味気なくなり、
一時は出家も考えたが、
親たちの嘆きにためらいつつ、
そのうち恐ろしい罪に迷いこんだ。

人の妻になった人を、
忘れられず、
世の掟を越えて愛してしまった。

しかも夫の源氏は、
世の第一の実力者であり、
私的にも長年、
自分の面倒を見てくれ、
愛してくれた人。

そういう人を、
裏切ってしまった。

何の面目あって、
源氏に二度と顔を合わせられよう、
知られてしまった上は。

だが、
そういう袋小路に追い込んだのは、
自分自身なのだ。

これもみな、
自分の宿命かもしれない。

いや、
何よりも、
あの佳き人が、
自分の死をあわれと思い、
ひとしずくの涙をこぼして、
くれるかもしれない。

向こう見ずな恋の火に、
身を焼いて失った命も、
それでむくわれよう。

もしこの上、
永らえていれば、
きっとあのひととの浮名が、
いまわしく世に流れよう。

生きての浮名は、
あのひとも自分をも、
汚してしまう。

死はすべてを、
浄化するであろう。

それに自分に憎しみを持って、
いられる源氏の院も、
死ねば許して下さるであろう。

柏木は、
そんなことを思い続けて、
人に言えない涙を流していた。

人のいない間に、
柏木は宮に手紙を書いた。

「いまは限りの命と、
風の便りにお耳にも、
入っていましょうに、
どんな具合かと、
おたずねも下さらないのは、
ご尤もと思いながら、
辛うございます」

手は病気で力も出ず、
ふるえて思うことも、
充分書けない。

「私の命終わる日、
なきがらは燃えても、
あなたを思う心は、
いつまでも燃えません。
永遠に、
くすぶり続けることでしょう。
あわれとだけでも、
ひとことを。
そのお言葉を私は、
一人赴く死の闇の道の、
光として逝きます」

柏木はそれを、
小侍従に渡した。

彼女も古く馴染んだ、
柏木の重病に涙ぐみ、
受け取らずにはいられない。

「どうぞこのご返事だけは、
これだけは。
あのかたの最後のお文で、
ございます」

小侍従は必死に申し上げる。

宮はお返事を、
お書きにならない。

「この前のことで、
手紙は懲りたの」

柏木とのことを、
源氏に知られて以来、
源氏の冷たさ、厳しさが、
おわかりになるのだった。

小侍従はそんな宮を、
言葉を尽くして説得したので、
宮はしぶしぶお書きになった。

小侍従はそれを、
宵闇にまぎれ、
人目を忍んで柏木の邸へ行った。






          

(次回へ)




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