むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

32、柏木 ②

2024年03月08日 08時16分28秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳




(モミジバゼラニウムが咲きました







・病に倒れた柏木は、
妻の女二の宮の邸から、
父大臣の邸へ帰って療養していた。

病をおして、
女三の宮へ書いた手紙、
その返事を持って、
小侍従は柏木のもとへ行った。

邸内は修法や読経の声が、
まがまがしく充満している。

柏木の病気は、
一向に回復しない。

父大臣は心痛して、
いまは手当たり次第に、
たのみをかける。

葛城の山からも、
聖と呼ばれる験者も来た。

柏木の父大臣は、
年はとっても陽気で、
賑やか好きの性質で、
よく笑う老人であった。

それが今ではめっきり老け込み、
心痛のあまり笑いも忘れ、
山奥の験者に頭を下げて頼む。

小侍従は柏木のもとへ行く。

柏木は弱々しく、
抜け殻のような様子で、
泣いたり自分を嗤ったりしつつ、
小侍従に語る。

「お気の毒な父上、
父上は何もご存じない。
私の罪でこんな病になったとは、
ご存じなく、
心を痛めておられる。
おいたわしいことだ」

「宮さまも、
おやつれになって、
物思わしげにお過ごしで、
いらっしゃいます」

と小侍従は、
宮のこのごろのことを伝える。

それを聞く柏木は、
沈みこんで面やせていられる、
宮のお姿が目の前に見える、
気がする。

いとおしくて恋しくて、
心は痛いままで切なく、
やるせなかった。

「もう止そう。
今上でお目にかかれることは、
もうないだろう。
私の執念だけがこの世に残って、
宮のおそばにまつわりつく、
ことだろう。
宮は私の執念に妨げられて、
成仏が、
お出来にならないかもしれぬ。
それを思うといとおしい。
せめては、
ご安産なさった、
ということだけを、
生きているうちに聞きたいが、
無理かもしれない・・・」

柏木が、
深く思い込んでいるさまが、
小侍従はすこし恐ろしかった。

ただならぬ執念を、
不気味に思いつつ、
さすがにあわれで、
小侍従も泣かずにいられない。

柏木は紙燭を取り寄せ、
宮のご返事を見た。

「おいたわしく存じますが、
私がどうしてお見舞いに、
まいれましょう。
お手紙では、
なきがらは煙になっても、
胸の思いは残るでしょう、
とありましたけれど、
私も一緒に煙になりとう、
ございます。
あなたに後れて生きていられる、
とは思えませぬ」

柏木はしみじみ嬉しかった。

臥したまま、
休み休み宮への返事を書いた。

「身は煙となって空へ昇っても、
心はあなたのそばを、
離れはしないでしょう。
私が死んだら、
夕暮にはとりわけ、
空を眺めてください。
もはやあなたを咎める人目もなく、
お気持ちは楽になるでしょう。
そして時々は、
私のことを、
あわれな男と、
お思い出しになってください」

と書いているうち、
気分が悪くなってきて、

「もう、これでいい。
あまり夜が更けないうちに、
帰って、宮に申し上げてくれ。
今を限りに見えました、と」

と泣きながら内へ入ってしまった。

いつもなら、
小侍従をいつまでも引き止め、
無駄話をしていたのに、
今は弱って口数も少なくなっていた。

それが小侍従は悲しかった。
彼女の伯母である乳母も、
泣いていた。

父大臣も、

「昨日今日と、
少しよくなったように、
見えていたのに、
どうしてこうも弱ったのか」

と嘆いている。

「これまでの命だったのです、
父上」

と言いながら、
青年の頬を涙が流れ落ちる。






          


(次回へ)

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