・朱雀院の五十の御賀が、
源氏の私邸、六條院で催され、
病気を押して出かけた柏木でしたが、
気分が悪くなり、
途中で退席したまま、
寝込んでしまった。
父大臣も母君の北の方も、
ひどく心配して、
「手もとで養生させたい」
といった。
柏木は、
北の方の女二の宮のお邸で、
患いついて寝ていたのである。
北の方の女二の宮は、
女三の宮の姉君に当たるも、
女三の宮の母君は、
源氏の継母、亡き藤壺の宮、
紫の上の実父、式部卿の宮の、
妹君に当たられ、
身分も高いが、
女三の宮の母君は、
身分も低く、柏木は少し、
見下していて、
夫婦仲はあまりよくなかった。
「あちらへお移りになりましては、
わたくしが看病することも、
かないませんね」
北の方の女二の宮は、
悲しまれた。
柏木も、
いま二の宮に別れてしまうと、
このまま限りになりそうで、
悲しかった。
情の薄い夫婦ではあったが、
それはまだ将来があると、
信じていたから、
うち棄てられたのである。
しかし、
もしや最期ではないかと、
心細くなってくると、
今まであまりに疎々しく、
水くさかった妻との仲が、
省みられて心残りになる。
このまま、
永久に別れてしまったら、
どんなに二の宮は、
はかなく悲しく、
思われるであろう。
柏木は、
今さらになって、
二の宮につれなかった自分を、
すまない、と思う。
二の宮の母君の御息所も、
お嘆きになった。
「世間の常識では、
親はともかく、
夫婦はどんな折にも、
お離れにならぬのが、
ならわしです。
あちらのお邸で、
ご養生なさるといっても、
私どもは、
心がかりでなりません。
どうぞ、今しばらくでも、
こちらで療養なさいまし・・・」
と柏木に訴えられる。
「ご尤もです」
柏木は今になって、
二の宮にも御息所にも、
謙虚な気持ちになっている。
「数ならぬ身の私が、
勿体なくも内親王を、
頂くことになりました。
その光栄のためにも、
長生きして出世もし、
宮を幸せにしてさしあげたい、
と思っていましたのに、
こんな病気になってしまって、
私の真心を、
宮に知って頂くことも、
出来なくなりました。
宮をおいて死ぬにも死ねない、
心地でございます」
柏木も泣き、
なかなか父の邸に、
行こうとしなかった。
母君の北の方は、
柏木が来ないので、
気が気でなく、
「なぜすぐに、
顔を見せてくれないの。
早くこちらへ移ってきて」
と息子を案じていた。
柏木は仕方なく、
「母もあわれなので、
あちらへ行きますが、
もし危篤とお聞きになったら、
そっとお忍びで、
会いに来てください。
きっとですよ。
あなたに会わなければ、
死ぬに死ねない」
柏木は宮のお手をとって、
握りしめた。
「私を許してください。
罪深い私を。
あなたに冷たくしていたこと、
今は心から後悔しています。
こんな短い命とは知らず、
将来を楽しみにしていました」
宮ご自身はその先を、
お聞きになることは出来なかった。
泣きくずれていられたし、
父大臣邸から、
迎えが来てしまったから。
宮は自邸にとどまられて、
柏木を恋しく泣き暮らして、
いられた。
つれない夫よ、
と思われたときもあったが、
別れる間際の柏木の声も、
目の色も嘘はなかったと、
宮には感じられたからだった。
大臣邸では、
柏木を待ち受けていて、
早速、加持祈祷と騒いでいた。
柏木の容態は、
急に危篤になるのではなく、
次第次第に弱ってゆく。
日々、食欲は衰え、
ものに引き入れられるように、
衰弱してゆく。
柏木のように、
当代一流の学識ある人物が、
重病だというので、
世間は惜しみ、
見舞いに来ぬ人はなかった。
御所からも、
朱雀院からも、
お見舞いは始終来た。
親たちは悲しみ惑うていた。
六條院の源氏もおどろいて、
たびたび父大臣に見舞いをした。
夕霧の大将は、
ふだんからの親友なので、
病床を自身見舞って嘆いた。
女三の宮は、
柏木の重病を何と聞くであろう。
幼げなお心にも、
やはり悲しいであろうか。
恋は世間知らずの宮を、
少しは成長させたであろうか。
(了)