・髭黒の大将の、
もとの北の方は、
いよいよ痴呆のようになって、
暮らしていた。
大将は北の方への、
見舞いも欠かさず、
ゆき届いた世話もし、
生活上の面倒はみていた。
手もとに引き取った、
男の子たちを可愛がり、
子供たちは母の邸へも行くので、
北の方も大将とすっかり、
縁を切ってしまうことは、
出来なかった。
大将は娘に会いたくて、
たまらないのであるが、
北の方も父宮も、
どうしても会わせない。
姫君の方は、
父に会いたがっていた。
少女は、
祖父母や母が、
大好きな父を悪くいうのを、
悲しい思いで聞いていた。
わずかに弟たちが、
父の噂をするのを楽しみに、
聞いているのだった。
弟たちはまた、
玉蔓の噂ももたらした。
「とてもお綺麗な方なんだ」
「ぼくたちのことも、
可愛がって、
やさしくして下さる」
姫君はそれを聞いて、
うらやましかった。
「いいわねえ・・・
男の子は、あっち、こっちの邸を、
行き来できるんですもの。
わたくしも、どうして、
男に生まれなかったのかしら。
それで、お父さまは、
どうしていらして?」
「始終、お姉さまのことを、
ぼくたちにおっしゃってるよ。
時々、お姉さまのお手紙を見て、
泣いていらっしゃるよ。
ぼく、見たんだ」
無邪気な幼い弟の言葉に、
姫君は涙を落とすのである。
玉蔓の子供が生まれたのは、
十一月だった。
可愛い男の子であった。
大将がどんなに狂喜したか、
また、誕生後のいろんな儀式が、
どれほど美々しく盛大であったか。
実父の内大臣も、
ふかく満足している。
玉蔓は、
内大臣がかしずく、
長女の姫の女御にも劣らず、
美しくたしなみある姫君であった。
大将の妻となり、
男の子をもうけた以上は、
もはや押しも押されぬ、
貴婦人である。
内大臣は、
玉蔓のおのずと開けゆく運命に、
満足している。
長男の頭の中将・柏木は、
いささかちがう。
以前、
何も知らず懸想していたころの、
甘いあこがれは今も残っている。
美しい姉の玉蔓が、
髭黒の妻になるより、
宮中へ入って主上の寵愛を、
受けていたほうがよかったのに、
と密かに思う。
(主上はまだ男御子が、
おありでない。
こんな美しい皇子を、
もうけられたら、
どんなにわが家の面目であろうに)
などと考えた。
玉蔓は、
尚侍としての公務も、
在宅のまま執ることになった。
参内することは、
もうないであろう。
玉蔓が、
今やどんな人にも誉められ、
尊敬され、愛されてゆくのに比べ、
いよいよ、
困りものになってゆくのは、
内大臣の拾った子の一人、
近江の君である。
近江の君は尚侍に、
なりたがっていたが、
このごろは少し色気づいて、
公達を見るとそわそわして、
大臣ももてあまし気味である。
姉の女御は、
(いまにみっともないことを、
しでかすのでは・・・?)
とはらはらしていらっしゃる。
父大臣は、
「ひと中に出ぬように」
と近江の君を制止するのだが、
近江の君は平気で出てくる。
姉女御の御殿に、
殿上人の、それもことに立派な、
貴公子たちが参上して、
音楽を楽しんだ。
風情ある秋の夕べ、
宰相の中将・夕霧も立ち寄った。
いつもは生真面目な夕霧が、
いつになく打ち解け、
冗談などをいいかけているのを、
人々は珍しがった。
夕霧の様子は、
なみの青年たちより、
すぐれて見える。
そこへ近江の君が、
女房たちを押しのけて、
出て来た。
(まあ、困ったわ)
女房達は当惑して、
小声で、
「どうなさいますの?」
と引き止めるのに、
「かめしまへん。
ほっといておくれやす」
とにらんで御簾の側に坐り込む。
人々は、
何を言いだすかと、
冷や汗が出ているのに、
近江の君は、
「あのお人が、
夕霧の中将さんどすか、
こっち向いてえ~っ」
と叫びたてた。
人々は耳をふさぎたい思い。
近江の君は頓着なく、
「まだ独身で、
いてはりますねんとなあ。
北の方がお決まりやないなら、
うちに決めとくれやす。
ふらふらと一人の方ばっかり、
思うてはるそうやけど、
うちもあの方の姉妹の一人、
どないどすか、
北の方にしてえ~っ」
驚いたのは夕霧である。
彼の方が真っ赤になってしまった。
この内大臣の長女の女御の御殿は、
上品で趣味のいい人ばかり、
こんなつつしみない、
無作法なことを、
いう人はいないはずなのに、
と考えているうち、
夕霧は、
(噂に聞く近江の君とは、
この人だな・・・)
とわかった。
全くもって、
珍しいほどの品行方正な貴公子の、
夕霧にむきつけに、
言い寄ったものである。
たちまち、
語り草になった。
(了)