「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

12、澪標 ⑨

2023年10月14日 08時52分48秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・「何をいわれる、
姫宮にはあなたがいつまでも、
ついていてあげなければ。
そんな心細いことを、
仰せられてはなりません。
お言葉がなくても、
私は力の限りお世話するつもりだ。
ましてあなたのねんごろなご依頼を受けては、
どうして捨てておけよう。
安心してお任せください」

源氏が心をこめてなぐさめるのへ、
御息所は凛としていった。

「お言葉はうれしゅう存じますが、
この際、はっきり申し上げたいことがございます」

「私が、何を、あなたに対して・・・」

「姫の世話をお願いすると申しましても、
決してあだめいたお心をお持ち下さいますな。
実の父親に任せるときでさえ、
女親のない娘はあわれなもの。
ましてあなたが、
色めいたお心で扱われましては、
またしても女同士の恨みそねみの渦に、
まきこまれましょう。
わたくしは姫だけには、
あの辛さを味わわせとうございません。
あの姫には、安らかで幸せな、
女の一生を用意してやりとうございます」

(やられた・・・)

源氏は思った。

御息所は、
源氏の好色ごころを俊敏に明察して、
さかしくも、釘を打ったのだ。

しかし源氏は色にも出さず、
まめやかにいった。

「近ごろは私も分別ができました。
昔の色好みが抜けないようにいわれるのは、
心外というもの。
ま、おいおい、お分かりになるだろう」

外は暗くなっており、
部屋の内には灯が点じられていた。

ほのかに室内の様子が見える。

心もとない小暗い灯影に、
御息所はいた。

髪を形よく切って、
脇息によりかかっている姿、
やはり美しく情緒深く、絵に描いたよう。

御張台の東に姫宮はいられた。
几帳のすき間からのぞくと、
宮は頬づえをついて、
物悲しそうに沈みこんでいられた。

たいへん美しげな乙女だった。

上品で気高く、愛嬌があって、
源氏は心そそられる。

ありていにいえば、
源氏は若く美しい姫宮を、
手に入れたくなっている。

しかし、母の御息所が、
ああも心配しているものを、
とうてい裏切ることは出来ない。

御息所は気分が悪いといって、
女房にたすけられて横になった。

源氏が近寄ろうとすると、
御息所はさえぎった。

「病みやつれて、
おそろしいような姿をしております。
どうぞこのままで。
昔のおもかげのままで、
お別れ下さいまし。
いまわの際にお目にかかれて、
思い残すことはもうございません」

「私を頼りにして頂けて嬉しいです。
故桐壺院が、姫宮を実の御子として、
扱っていられたのですから、
私も妹のようにお世話します。
いや、そろそろ父親といってもいい年ごろです」

などとこまごま、
言いなぐさめて源氏は帰った。

それから七、八日して、
御息所ははかなくみまかった。

源氏は人の世の無常さが、
今さら思われる。

青春の日の一つの夢を奪って、
あの女人は逝ってしまった。

源氏は哀切な悲しみにうちひしがれて、
御所へも参内せず、
仏事にあけくれた。

六條邸は源氏のほか頼る人もなかった。

源氏自身、立派な葬式をとり行った。

姫宮はどんなに悲しんでいられよう。
源氏はくやみの言葉を伝えると、
宮は、

「何もかも夢のようでございます。
悲しみでぼんやりしております」

と女別当(斎宮寮の女官)を介して、
返事がもたらされた。

「母君からのご遺言もございます。
母君の代りと思し召して、
なにごとも遠慮なくご相談ください」

と源氏はいった。

そうして精進のあいだ、
姫宮には便りをしてなぐさめた。






          


(次回へ)

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