・これも大阪人がよく使うが、標準語に言い換えにくい。
必ず下に「言う」をつけて、「ウダウダ言うとる」
「ウダウダ言いなはんな」などと使う。
ゴテゴテ、くどくど、ぐずぐず、ぶつくさ、
というような語感であるが、みな少しずつ違う気がされる。
もともとこの語は「うだうだしい」から来た。
「うだうだしい」は、愚かな、間の抜けた、というような意味。
「ウダウダ言いなはんな」は、
「ええかげんにおきなはれ」という、言外の叱責や侮蔑がある。
「ウダウダ」は馬耳東風と聞き逃される。
同じような雰囲気に「ゴテる」「ゴネる」がある。
「ゴテる」は「ウダウダ言う」よりも扱いが面倒になる。
これが私であると、原稿の催促の仕方が気に入らぬと、
ゴテはじめ、「オタクの雑誌にはもう書きません!」などと言うと、
「ゴテセイ」と呼ばれ「またゴテたか、あのおばはん」
とひんしゅくを買う。
しかし、現実は私にはそれほどの実力はない。
それらしいことをモゴモゴ言うだけで、
「ウダウダ言いなはんな!」と出版社から一喝されると、
すくみ上るのがオチである。
「ウダウダ」はかなり侮辱的に迎えられているのである。
てんからバカにされているのである。
男性たちは、
「婦人週間ちゅうのは何やねん。あれ。
オナゴが集まってウダウダ言うとるだけのこっちゃないか」
などと言う。
酒飲みがクダ巻いて、同じことを繰り返ししゃべっている。
人々は冷笑し、
「何ウダウダ言うとんねん。誰ぞ、水ぶっかけたれ、この酔っ払いに」
などと使う。
「ゴテる」は対する人に警戒心と緊張を要求する状態だが、
「ウダウダ」は物の数にも入れてもらえぬ状態。
・「すっくり」
これは「すっかり」に似ているが、意味は強く、
洗いざらい、根こそぎ、そんな意味がある。
一部始終という意味も含まれる。
かといって「すっくり忘れてた」とは使わない。
そういう場合は「ころっと忘れた」という。
「ころっと」というのも根こそぎという意味があるが、
「ころっと盗まれた」とは言わない。
その場合は「ごそっと盗まれた」と、
使い分けはきっちりしている。
ウダウダ言う人間を一喝してしまえばよいが、
商売相手であると、いちがいにかませないから困る。
そういう時「難儀やなあ」がある。
困ったこっちゃ、かなわんなあ、面倒やなあ、
それも切羽詰まったものではなく、
わが難儀をみずからおかしがっている。
「難儀やなあ」は内々での嘆声で、これが相手に向かうと、
「そんな、殺生な・・・」になる。
殺生は本来の語義は、生き物を殺すという仏教語である。
そこから転じて、残酷な、かわいそうな、むごい、ひどい、
という意になり、転じて大阪弁では、
理不尽な、あまりといえばあんまりな、という意味で使われる。
「そんな殺生な!」は半ば詠嘆である。
値段を値切り倒す。ソロバン弾いて、
「ここまでまけとけ。ほんなら買うわ」と言うと、売り手は、
「そんな殺生な、これやったら銭あらしまへんが。
水など飲めるように色つけとくなはれ」と言って、
またソロバンの珠を上下する。
そういう時に使われると「そんな殺生な」がイキイキする。
・殺生やで、と言うのが、
圧迫者に対する被圧迫者の抗議であるとすれば、
第三者に向かっての客観的報告は「往生しました」になる。
これは東京弁の「弱っちゃう」に当たる。
どうにもならぬ困惑の意から、閉口する、困るという意。
「ウダウダ言われて往生しました」などと使う。
もとより「往生」は仏教用語で、
現世を去って極楽浄土に往くことである。
それからして、死ぬことに用いる。
「〇〇銀行にソッポ向かれて往生した」
となると、これ即ち、倒産。
女を口説いて「ええかげん往生しいな」などと使う。
ここでは覚悟を決めるという意。
往生する、にはあきらめるというニュアンスもあるが、
真実、うんざりしたという時には、
「うとてもうた」と言う。
「うとた」は「歌うた」である。
悲鳴をあげる、音をあげるということで、
往生すると同じく倒産した時にも使うが、
もっと切実で緊迫感がある。