・「あやしい者ではありません。
何度も手紙をさしあげている髭黒の大将です」
玉蔓は、
行幸の日に大将を見たので、
すぐ本人だとわかった。
ふしぎなことに、
そうわかった途端、
恐怖心は薄れていった。
「さぞびっくりなさったでしょう。
驚かせて申し訳ない。
こんな手段を取りたくなかったのですが・・・」
乱入者の方がのぼせているので、
玉蔓の心に余裕が出来た。
玉蔓は、
突然侵入してきた大将に、
恐怖や警戒心をもつよりも、
その無作法をなじりたい気持ちだった。
大将は、
玉蔓の咎めるような沈黙にあって、
いっそう性急にいった。
「本来ならば、
あらかじめ人を立て、
しかるべき手続きを踏み、
あなたのお心の解けるのを待って、
お目にかかるのが順序です。
しかし、そういうことをしていたら、
時が移り、あなたは宮中へ上がってしまわれる。
そうなっては手遅れです。
時間がないのです。
非常手段に訴えても、
私の気持ちを直接聞いて頂かなければ、
間に合わないことになります」
大将はたまりかねたように、
二人をへだてる几帳を押しやったので、
玉蔓は思わず身を引いた。
「源氏の大臣は、
何とおっしゃるでしょう・・・」
玉蔓は非難がましくいう。
「なあに、これでよかった、
とお思いになります」
そして大将は語った。
源氏の思わくや、
政治的背景のあらましを。
玉蔓にははじめて聞く、
男の世界の内幕である。
いかにもありそうなことに思われ、
何より、源氏の暗黙の了解がなければ、
大将がこんな邸内の奥深く、
忍んで来られるはずがない、
とも思った。
手引きした人間がいる、
玉蔓は愕然とした。
それも源氏の意を受けてのことだろうか?
玉蔓は、
流されてゆく自分の運命を見たような気がして、
呆然とした。
自分は大将の妻になる運命だった・・・
さすがにさかしい玉蔓も、
思い乱れて突っ伏してしまった。
今の今まで、
そんなこと考えもしなかった。
求婚者の中で、
最も玉蔓の心から遠い男は、
大将だったのに・・・
玉蔓の白い頬に涙が流れる。
大将はその美しい混乱を見て、
理性も分別も取り落としたように夢中になって、
玉蔓を引き寄せた。
彼は玉蔓が、
息もつけないほど、
きつくたくましい胸板の中に、
抱きしめていた。
「突然のことだから、
お気持ちが乱れるのも無理はない。
しかし、あなたを一番幸福に出来るのは私です。
后の位より私の妻のほうが」
大将は、
弁のおもとの忠告なんか頭になかった。
(首尾を焦ってむりやりなことを、
運ばれようとしたら、
姫君のお心に違います)
と釘をさされたが、
言葉で口説くようなまどろしいことは、
大将にはできない。
女人の扱い方は洗練されていなかった。
しかし、この場合は、
そのほうがよかった。
玉蔓のような聡明な姫君に、
ものを考える時間を与えなかったほうが。
大将としては、
そんな計算をして迫ったわけではなかった。
あまりにも生真面目で一途な性格が、
彼を強引にし、
わきめもふらず突っ走らせるのであった。
玉蔓が、
今までこんな荒々しい力で、
拉っし去られることはなかった。
これに比べれば、
源氏の言い寄り方は、
春のそよ風のようなものだった。
そうして玉蔓は、
男女の仲はそういうやさしい心遣いの、
気を引くしぐさや心ときめく甘美な不安、
そんなものがすべてと思っていた。
しかし、大将の仕打ちは無残で、
玉蔓は何も考える力もなくして、
大将のするがままに任せていた。
「世間の噂は間違っている。
あなたと源氏の大臣は何でもなかったのだな」
大将は深い声色でいった。
「もう離しません、あなたを」
大将はいとしそうにいった。
寒い初冬の夜更けというのに、
玉蔓は汗をにじませている。
汗か涙か。
世間にひそかに取沙汰されていた、
事実はなかった。
玉蔓は無垢の処女だった。
その発見も、
大将の玉蔓への愛執を深めさせた。
髭黒の右大将が、
ひそかに玉蔓を訪れたという事実を、
源氏は翌朝、耳にした。
耳打ちした女房は、
源氏が不興を催したのかと恐縮し、
「何しろ、
私どもも全く思いもよらぬことでございました」
玉蔓に仕える女房たちは、
自分が責められたようにうなだれていた。
「どうしようもないことだ。
それよりも、
このことはしばらく内密にしておくように。
玉蔓の宮仕えを、
心待ちにしていられる主上に対しても恐れ多いから、
世間には言い広めないように」
(次回へ)