むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

26、真木柱 ③

2024年01月05日 08時50分26秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・「あやしい者ではありません。
何度も手紙をさしあげている髭黒の大将です」

玉蔓は、
行幸の日に大将を見たので、
すぐ本人だとわかった。

ふしぎなことに、
そうわかった途端、
恐怖心は薄れていった。

「さぞびっくりなさったでしょう。
驚かせて申し訳ない。
こんな手段を取りたくなかったのですが・・・」

乱入者の方がのぼせているので、
玉蔓の心に余裕が出来た。

玉蔓は、
突然侵入してきた大将に、
恐怖や警戒心をもつよりも、
その無作法をなじりたい気持ちだった。

大将は、
玉蔓の咎めるような沈黙にあって、
いっそう性急にいった。

「本来ならば、
あらかじめ人を立て、
しかるべき手続きを踏み、
あなたのお心の解けるのを待って、
お目にかかるのが順序です。
しかし、そういうことをしていたら、
時が移り、あなたは宮中へ上がってしまわれる。
そうなっては手遅れです。
時間がないのです。
非常手段に訴えても、
私の気持ちを直接聞いて頂かなければ、
間に合わないことになります」

大将はたまりかねたように、
二人をへだてる几帳を押しやったので、
玉蔓は思わず身を引いた。

「源氏の大臣は、
何とおっしゃるでしょう・・・」

玉蔓は非難がましくいう。

「なあに、これでよかった、
とお思いになります」

そして大将は語った。

源氏の思わくや、
政治的背景のあらましを。

玉蔓にははじめて聞く、
男の世界の内幕である。

いかにもありそうなことに思われ、
何より、源氏の暗黙の了解がなければ、
大将がこんな邸内の奥深く、
忍んで来られるはずがない、
とも思った。

手引きした人間がいる、
玉蔓は愕然とした。

それも源氏の意を受けてのことだろうか?

玉蔓は、
流されてゆく自分の運命を見たような気がして、
呆然とした。

自分は大将の妻になる運命だった・・・

さすがにさかしい玉蔓も、
思い乱れて突っ伏してしまった。

今の今まで、
そんなこと考えもしなかった。

求婚者の中で、
最も玉蔓の心から遠い男は、
大将だったのに・・・

玉蔓の白い頬に涙が流れる。

大将はその美しい混乱を見て、
理性も分別も取り落としたように夢中になって、
玉蔓を引き寄せた。

彼は玉蔓が、
息もつけないほど、
きつくたくましい胸板の中に、
抱きしめていた。

「突然のことだから、
お気持ちが乱れるのも無理はない。
しかし、あなたを一番幸福に出来るのは私です。
后の位より私の妻のほうが」

大将は、
弁のおもとの忠告なんか頭になかった。

(首尾を焦ってむりやりなことを、
運ばれようとしたら、
姫君のお心に違います)

と釘をさされたが、
言葉で口説くようなまどろしいことは、
大将にはできない。

女人の扱い方は洗練されていなかった。

しかし、この場合は、
そのほうがよかった。

玉蔓のような聡明な姫君に、
ものを考える時間を与えなかったほうが。

大将としては、
そんな計算をして迫ったわけではなかった。

あまりにも生真面目で一途な性格が、
彼を強引にし、
わきめもふらず突っ走らせるのであった。

玉蔓が、
今までこんな荒々しい力で、
拉っし去られることはなかった。

これに比べれば、
源氏の言い寄り方は、
春のそよ風のようなものだった。

そうして玉蔓は、
男女の仲はそういうやさしい心遣いの、
気を引くしぐさや心ときめく甘美な不安、
そんなものがすべてと思っていた。

しかし、大将の仕打ちは無残で、
玉蔓は何も考える力もなくして、
大将のするがままに任せていた。

「世間の噂は間違っている。
あなたと源氏の大臣は何でもなかったのだな」

大将は深い声色でいった。

「もう離しません、あなたを」

大将はいとしそうにいった。

寒い初冬の夜更けというのに、
玉蔓は汗をにじませている。

汗か涙か。

世間にひそかに取沙汰されていた、
事実はなかった。

玉蔓は無垢の処女だった。

その発見も、
大将の玉蔓への愛執を深めさせた。

髭黒の右大将が、
ひそかに玉蔓を訪れたという事実を、
源氏は翌朝、耳にした。

耳打ちした女房は、
源氏が不興を催したのかと恐縮し、

「何しろ、
私どもも全く思いもよらぬことでございました」

玉蔓に仕える女房たちは、
自分が責められたようにうなだれていた。

「どうしようもないことだ。
それよりも、
このことはしばらく内密にしておくように。
玉蔓の宮仕えを、
心待ちにしていられる主上に対しても恐れ多いから、
世間には言い広めないように」






          


(次回へ)

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