<有馬山 猪名の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする>
(愛していないですって?
否(いな)なんて
あたしがあなたを拒んだことがある?
いなの笹原だわ
ありませんよの有馬山 ってところね
あなたご存じ?
有馬山 そのふもとの猪名の笹原に
風が渡ると
さやさや そよそよとかすかな葉ずれ
そうよ そうよとささやくのを
そうなのよ あなた
あたしがあなたを忘れると思って?
忘れるはずないじゃないの)
・『後拾遺集』巻十二・恋の部に、詞書。
「離れ離れなる男の、
おぼつかなくなどいひたるけるによめる」
として出ている。
足が遠くなってここしばらく通ってこなくなった男が、
間の悪さをごまかすつもりか、あべこべに、
<君の気持ちがいまいち、
わからないんだよ。
愛してくれているのかどうか、
おぼつかないんだ>
この歌は結びの「人を忘れやはする」という、
それだけが核であって、
その上に美しい修辞がいくつも重なって、
きらびやかな金平糖のように、
ふくれあがった歌なのである。
この大弐三位(だいにのさんみ)は、
57番の紫式部の娘である。
有馬山と猪名の笹原は旧い歌枕。
(私がいま住んでいるのは、
そのあたりの一部で、
近くに猪名野というバス停がある)
「有(あり)」と「否(いな)」、
男と女のラブコールをひびかせた対句でもある。
笹原のそよぎから「そよ」という言葉が引き出され、
「そよ」は「それよ」を略したもの、
「いでそよ」となると、
「さあ、それなんですよ」と弾んで、
ここの「人」は男、あなた、
あなたのことを忘れましょうか、
いいえ、忘れはしませんよ、
と反語になる。
美しい女声合唱の輪唱を聞いているような、
ひびきのいい歌である。
大弐三位のユーモアある明るい美しいしらべは、
母の紫式部には全くないもの。
この娘は父親似であったらしい。
父は有能な官吏で、
かつ社交界でもてた伊達男の藤原宣考(のぶたか)、
派手好きでおしゃれ者だった。
そういう男が、
内向的で粘液質な紫式部の夫だったというのは、
面白いが、大体において女流作家は、
陽気な男前を相棒にしたがる。
自分がしんねりむっつりと仕事するからだろう。
大弐三位は本名、賢子。
二、三歳で父と死別したあと、
母と共に祖父の藤原為時に養われた。
為時は有名な学者で、
母方の系統はみな文雅の人であった。
母と共に彰子中宮に仕えることになったが、
まもなく母の紫式部に死別する。
紫式部は長和三年(1014)ごろ、
四十一、二で死んだのではないかと推察されている。
そのころ賢子は十四、五くらい、
加えて翌々年、
杖とも頼む祖父、為時も出家してしまう。
賢子は若くして、ひとりぼっちになった。
宮廷女房として、
自分の才と若さだけをたのみに、
生きねばならない。
しかし賢子はそれをやってのけた。
母ゆずりの才気と勝気、
父ゆずりの美しさと快活。
そしてそのころ宮中に、
『源氏物語』がようやく盛んに読まれはじめ、
母の存在が大きくなっていった。
賢子は、
親の七光りを、
十分効果的に使ったのかもしれない。
七光りがあっても、
それを使いこなせない人もいるのだから・・・
賢子は権門の貴公子と次々、恋をする。
藤原定頼、藤原兼隆(道兼の子で道長にかわいがられる)。
しかも兼隆の子を生んだとき、
ちょうど後冷泉天皇が誕生され、
彼女はその乳母に選ばれた。
天皇の乳母の権威は大きい。
そんなことで世に重く扱われ、
しだいに出世して従三位、典侍とすすみ、
しかも三十六、七歳のころ、
太宰大弐(大宰府の長官)高階成章と結婚する。
この成章は54番の作者、儀同三司母の一族で、
蓄財の才に長けていた。
賢子は若き日には、
貴公子らとしっかり恋を楽しみ、
仕事の業績もあげて立身し、
中年になって大金持ちの高級官僚と結婚して、
身をかためたのである。
賢子は成章と結婚したので、
大弐三位と呼ばれた。
それまでは祖父が越前守だったので、
越後の弁と呼ばれた。
(次回へ)