・髭黒の大将が、
玉蔓に求愛するについて、
手づると頼むのは「弁のおもと」と呼ばれる、
女房だった。
まだ若いが、
かなりしっかりした女房なので、
大将はあてにして熱心に頼みこんでいた。
「十月になれば入内される。
そうなっては手遅れだ。
たのむ。
入内される前によい機会を作ってくれ」
「姫君も、
ご入内なさるのはお心が進まぬようで、
いらっしゃるのですが・・・
源氏の大臣がお決めになったことでございますもの。
どうしようもございません・・・」
弁のおもともため息をつくばかり。
髭黒はたたみかけた。
こうと思い込むといちずな性格なので、
そのこと以外は考えられない。
「いっときは姫君も動転なさるだろうが、
怜悧な方だ。
運命の流れを見通される力がおありだ。
ご実父の内大臣も、
内々承知していられることなので、
姫君と私は結ばれる縁に思われる。
十月になる前に、
首尾よくいくように頼む」
「でも、源氏の大臣が何と仰せられますか、
もしお心に違うことになったとしたら、
恐ろしゅうございます・・・」
弁のおもとは、
時の権力者としての源氏の怖さを知っている。
「そんなことはあるまい」
大将は自信に満ちて断言じた。
「もしほんとうに源氏の大臣が、
私を拒否なさるなら、
疾うに私は求婚者の群れから、
追い払われていたろう。
あれほど政治力のある方だ。
姫君をその道具にお使いにならぬはずはない。
源氏の大臣はご自分からは動かず、
おのずとそうなったようにみせかけて、
次代の帝の世にも力を保ち続けようと、
考えていられる。
そのためには私と反目することは不利になる。
なぜだか、わかるか?」
「ええ、大将さまは東宮の伯父君、
次の帝の御代の柱になられる方です」
「そうだ。
そのためには私と仲たがいしてはならぬ。
その意味では、
間違っても兵部卿の宮などへは、
姫君を渡されることはあるまい。
宮は皇族の身分がら、
政治には近づけない方。
そういうところへ姫君を与えても、
何もならぬというもの。
源氏の大臣も、
内心ではこの私にこそ、
と思っていられるが、さりとて、
あの美しいひとをむざとやるのも業腹、
それで最後の決心がつかぬ、
一寸のばしに宮中へ上らせ、
求婚者たちの熱をさまし、
婉曲に遠ざけよう、
というところだろう」
髭黒は会心の笑みを浮かべて言い切った。
弁のおもとも目を見張る。
「いい年をして、
という者もあるだろうな。
自分でもこの執心の烈しさに、
とまどっている。
しかしどうしても思い切れぬ。
あの時、なまじ、ひと目かいま見たばかりに、
こんな物思いを作ることになってしまった。
このままの状態では、
死ぬより辛い」
「ええ、よくわかります」
「私は今まで堅物で通ってきた男だ。
色めかしい噂などついぞ立てられたこともない。
不風流、野暮、情け知らずと陰で、
嗤われていたのも知っている。
そういう身には似つかわしくない恋だと、
あなたも思うだろうが・・・」
「いいえ、ご同情申し上げています。
ですから、ひと目姫君を拝ませてくれ、
とおっしゃったのを承知して、
ひそかにお手引きしたのでございます」
髭黒は、
顔半分をおおうような黒い髭面を、
両手でおおって苦しんだ。
体躯の堂々として強大な、
いかめしく無骨な武官が、
恋に憔悴しているさまは、
見る人によれば滑稽であろうけれど、
弁のおもとは深く心を動かされた。
彼女は髭黒の人柄に、
好意を持っていた。
髭黒ほど、
恋に縁遠い人はなかった。
そうかといって、
家庭的にも幸福ではなかった。
式部卿の宮の長女の姫(紫の上の異母姉)である、
北の方は長いこと物の怪がついて、
常軌を逸するふるまいが多く、
大将は同じ邸内にいても、
別居同様の毎日。
ただ、若い頃の愛情はいまだに尾をひいていて、
北の方へのあわれみとやさしさを、
大将は失っていなかった。
それに子供たちもいることではあり、
大将は子供の可愛さにひかれて、
北の方を捨てる気にはならない。
しかし北の方とて、
心なぐさめられる雰囲気ではなく、
邸内は冷え切り、
家庭は荒廃していた。
常人ではない夫人を守って、
大将は子供たちを楽しみに、
味気ない中年の日々を送っていた。
弁のおもとは、
そんな髭黒の淋しさをよく知っていた。
それで髭黒が玉蔓に関心を寄せ、
しだいに恋の烈しさを募らせていったときも、
他の人々と同じように、
「似合わない・・・」
と吹き出して笑う気にはなれなかった。
(次回へ)