むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

8、宿木 ⑬

2024年06月10日 08時15分50秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・賀茂祭の騒がしさを過ごして、
四月二十日過ぎ、
薫は宇治へ行った。

造らせている御堂を見て、
あれこれ指図したあと、
弁の尼を山荘に訪れた。

すると、
女車の目立つほどでもないのが一台、
宇治橋をこちらへ渡って来るのが、
見える。

供の者は、
腕っぷしの強そうな、
東国男たちで、
ほかに下人も数多く従え、
いかにも道中安全の様子。

(田舎びた連中だな)

薫は見ながら山荘へ入り、
例の車もこの山荘めざして、
やってくる気配。

薫は、何者か、と訊かせた。

ひどい東国なまりの男が、

「常陸の前司殿の姫君が、
初瀬寺に詣でられて、
お戻りになりました。
行きにもここに、
お泊りになりましたので」

(おお)

薫は思い出した。

(弁の尼の話に出た女だな)

薫は姫君の一行に、
こう告げさせた。

御車を早く入れるがよい、
遠慮はいらない・・・

薫の従者たちは、
狩衣の旅装で質素にしているが、
やはり気配で身分高い人、
とわかるのか一行は、
気を使う相客がいると、
面倒に思うらしかった。

みな小さくなっている様子。

車は邸内に引き入れられ、
廊の西端に寄せられた。

新しく建てられた寝殿は、
まだ調度もなく、
簾もかかっていなくて、
がらんどうである。

格子を閉めきった廂の間の、
隔てにある襖の穴から、
薫はのぞいた。

車の姫君はすぐに下りず、
尼君に使いをやって、
身分ありげなお客さまは、
誰なのか聞かせているらしい。

例の姫君だと知った薫は、
すぐ弁の尼に、

「私が来ているとは、
決して言ってくれるな」

と口止めしていたので、
弁の尼や召使いたちは、
みな心得て、

「早くお下りなさいまし。
お客さまはいらっしゃいますけど、
お気遣いなく」

と車の人々に伝えた。

姫君は恥ずかしそうに、
年配の女房にすすめられて、
車から下りた。

(似ている・・・)

薫は思う。

身ごなしの上品なさまは、
亡き大君にそっくり。

檜扇を顔にかざしているので、
顔は見えない。

薫は胸のつぶれる思い。

濃い紅のうちぎに、
撫子がさねとおぼしい、
表は紅梅、
裏は青の細長、
その上に若苗色の小うちぎを、
着ていた。

四尺の屏風を襖の向こうに、
立てているものの、
薫ののぞいている穴は、
その上にあるのだから、
あます所なく見える。

姫君は薫のいる方が、
気がかりになる風情で、
あちら向きになって、
物に寄り添い横になった。

女房がいう。

「お疲れになりましたか。
今日はずいぶんお辛そうでした。
でもまあ、何といったって、
東路の旅のことを思えば、
なんの恐ろしいことが、
ありましょう」

などと話しているのに、
姫君はひっそりと臥している。

薫は、
だんだん腰が痛くなってきた。

人のいる気配を悟られまいと、
じっとなおも見ていると、
若い女房が、

「あら、いい匂いがしません?
すてきな薫物の匂い・・・
尼君が焚いていらっしゃるのかしら」

いぶかしんでいう。

「ほんとに、
すばらしい香り、
京の人はやはり風流で花やか。
北の方さまは、
風雅にかけては負けはとらない、
とお思いだったけれど、
やっぱり東国の田舎じゃ、
とてもこれほどの薫物の香は、
調合なさることは出来ませんでした。
ここの尼君は、
こんなにささやかなお暮しだけれど、
お召し物の美事さは、
とてもご立派ですてきです」

などとほめている。

薫はのぞき見の欲望に克てなくて、
なおも目を凝らす。

この人々より、
高い身分の貴婦人を薫は、
いくらも見ている。

后の宮をはじめてして、
美しい女や、
気高い女、
いやになるほど多く見てきた。

しかしよほどのことがなければ、
目にも心にもとまらず、
そんな薫がなぜか、
この姫君に心惹かれてならない。

そんなに美しい、
というわけでもないのに、
どうしても立ち去りがたく、
目が離せないというのも、
不思議である。

弁の尼は薫にご挨拶を、
と伝えたが供の者が、

「お疲れになったというので、
ちょっとご休息中で」

と気を利かせていったので、

(この姫君にお会いになりたい、
といっていらしたから、
日暮れを待っていらっしゃるのかしら)

と思った。

まさか、
薫が姫君をのぞき見しているとは、
弁の尼は思いもかけない。






          


(次回へ)

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