むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

31、若菜(下) ⑫

2024年02月28日 08時52分35秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳





(沈丁花)







・世間では、
紫の上が亡くなられた、
という誤聞がひろまっていた。

賀茂祭の翌日は、
上賀茂から帰りの行列がある。

それを見物に出た上達部たちは、

「何不足ない人は、
長生きできぬものよ」

「桜のようなものでしょう。
散ってこそ、惜しまれる」

「こういう光栄に包まれた人が、
長生きして栄えると、
まわりが迷惑です」

「これからは女三の宮が、
お栄えになるんじゃないか」

などとささめき合う。

柏木衛門督は、
うつうつと心晴れず、
過ごしかねたので、
これなら祭見物に行ったほうが、
と弟たちと一緒に、
賀茂祭の帰りの行列を、
見に行った。

その出先で、
紫の上がみまかった噂を聞いた。

柏木は驚き、

「それは確かなことか」

と弟たちに聞いた。

「わかりません。
弔問に行っても、
もし事実でなければ、
失礼になりましょう。
ただのお見舞いということで、
とりあえず参上しては」

柏木たちは、
そろって二條院へ行った。

あまたの人たちが、
立ち騒いでいて、
泣き悲しんでいる。

紫の上の父君、
式部卿の宮が車で着かれて、
悲しみ呆けられたご様子で、
奥へ入られる。

「事実だったのか」

柏木は驚いた。

あたりは混雑していて、
源氏への見舞いを、
取り次いでもらえそうもない有様。

そこへ折よく、
夕霧の大将が出て来た。

彼も見舞いにかけつけたらしく、
涙を拭いていた。

「それでどうなのだ。
まだ信じられないのだが。
ただ、長いご病気と、
うかがっていたので、
心配でお見舞いにあがったのだが」

「ありがとう。
おかげで持ち直された」

夕霧の目は真っ赤だった。

「この明け方から危篤でね、
とうとう息が絶えられた。
どうも物の怪の仕業だったらしく、
修法や読経、
さまざま手を尽くして、
やっと息を吹き返された。
邸の者もほっと一安心だが、
まだ心細いことで、
心配だ」

夕霧は言いながら、
片手で目をこすっている。

源氏はたくさんの人々が、
見舞いにかけつけたと聞いて、
挨拶を人づてにさせた。

「かねて病の重かった者が、
にわかに息を引き取ったように、
みえましたので、
女房たちが騒ぎたてたのです。
私も落ち着かず、
心あわただしくしておりますので、
お目にかかれませんが、
いずれお見舞い頂いたお礼は、
改めましてのちほど」

柏木は、
源氏の挨拶の言葉にすら、
胸にぎくりとこたえる。

源氏に対して後ろめたく、
そういう自分を恥じていた。

紫の上が命をとりとめたことで、
源氏はかえってよりいっそう、
彼女の死を恐れる心地になる。

それにしても、
何という執念深い御息所の、
霊であろうか。

あの貴婦人は、
生きていたときから、
怖く気味悪かった。

ましてその魂が、
怪しく姿を変え、
いつまでも源氏の周囲に、
まつわりつく不気味さを思うと、
御息所にかかわるすべてが、
厭わしくなってくる。

源氏は御息所のおん娘、
というだけで、
中宮のお世話をするのも、
今は気が進まない。

中宮には何の罪も、
おありにならないのであるが。

(女は罪深いものだ・・・
しかしそうさせたのは、
男なのだ。
男と女の仲は、
なんと気疎い、
おぞましいものであろう。
あらゆる罪のもと、
といっていい)

御息所の執念深い物の怪は、
源氏と紫の上しか知らぬ、
二人だけの会話を、
言い立てたではないか。

源氏はそれを思うと、
ぞっとする。






          


(次回へ)

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