むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

31、若菜(下) ⑪

2024年02月27日 14時07分06秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳





十七夜(立ち待ち)月







・源氏は女三の宮のところへ、
久々に来たので急に、
帰りもならず、
気が気でないところへ、

「ただいま、
息が絶えられました」

と二條院から急使が来た。

源氏は、
目の前が真っ暗になる気がして、
二條邸へとって返した。

近くまで帰ってくると、
道にまで人があふれて、
騒いでおり、
邸内には泣き声が充ちている。

「ここ二三日は少し、
持ち直していられましたのに、
にわかに容態が変わられました」

と女房たちは告げ、
泣きまどうている。

もう望みはないのかと、
源氏は強いて心を取り直し、

「待て!
物の怪のしわざかもしれぬ。
むやみに騒ぐな」

と制して、
加持の僧たちにいっそう烈しい、
祈願を立てさせた。

哀訴の祈願の声は、
邸内をゆるがす。

源氏も、

「もう一度、
一度だけでよい、
私を見て下さい」

と取り乱して、
紫の上の体をゆすぶる。

源氏の悲嘆が、
仏のお心に届いたものか、
この何か月ものあいだ、
修法しても一向に現れなかった、
物の怪が小さい女童にのり移った。

よりましの女童が、
叫びののしるうちに、
紫の上は息を吹き返した。

「おお・・・
生き返った。
あの物の怪のせいだったのか。
嬉しや、よう生き返ってくれた」

源氏は紫の上の手を握り、
再び絶え入りはせぬかと、
おろおろするばかり。

物の怪は烈しく調伏されて、
踊りあがって叫ぶ。

「人はみな去れ。
源氏の院おひとりに、
話したいことがある。
この何か月、
私を祈り伏せようと、
苦しめられるのが憎さに、
紫の上を取り殺そうと思ったが、
あまりに源氏の院が、
お嘆きになるゆえ思い直した。
今こそ、
浅ましい物の怪だけど、
もとはといえば人間、
源氏の院恋しと、
心に沁みついた思いは失せず、
物の怪の私の正体を、
知られたくなかったのだけれど・・・」

と髪をふり乱して泣くさま、
その昔、亡き正妻、葵の上に、
とりついた六條御息所の物の怪、
そのものではないか。

源氏は寒くなった。

あの時の不気味さ、
恐ろしさが、
まざまざとよみがえる。

源氏は物の怪がのり移った、
女童の手を捉え、
しっかと抑えこんで、
身動きを封じながら、

「まことにその人の物の怪か。
たしかに名乗れ。
人の知らぬことで、
私だけにわかるようなことを、
言ってみよ。
それなら信じよう」

というと、
物の怪ははらはらと涙をこぼし、

「まあ、おとぼけになって。
私の正体はおわかりのくせに」

泣きながらいうさま、
六條御息所そのものである。

源氏はぞっとして、
うとましく不気味になった。

物の怪はいい続ける。

「娘を中宮にして頂いて、
私はあの世で喜んでおりますが、
別世界のことのようで、
わが娘のことは、
深く心に沁みません。
それよりも報われぬ愛の傷み、
愛されなかったつれなさへの、
怨みばかりが執念となって、
この世にとどまっております・・・
生きているうち、
他の人より、
愛されなかった怨みより、
なお憎い怨みがございます。
あなた。
あなたは紫の上と、
むつまじい物語のうちに、
私のことを貶められました。
気位が高い、
うちとけぬ、
可愛げのない女だと、
お話になりました。
お怨みに思います。
たとえ他の人が、
私の悪口を申しても、
それをとりなして、
庇い立ててくださるもの、
とばかり信じていました。
その怨みで、
このひとにとりつきました。
このひとを憎んでいるのでは、
ありません。
あなたには神仏のご加護が、
強くてとりつけないのです。
調伏の読経が苦しくて、
なりません。
あなた。
娘の中宮にもこのことを、
お伝え下さいまし。
女の嫉妬と悪業の浅ましさを、
伝えてやってくださいまし。
宮仕えの間も、
人を嫉んだり、
争ったりなさいますな、
と・・・」

源氏は言葉もなく、
女童を一室に閉じ込め、
紫の上を別の部屋に移した。






          


(次回へ)

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