武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

083. ル・ブルトン展 -Constant Le Breton-

2018-12-13 | 独言(ひとりごと)

 知人から「今、グルベンキャンで、何だかどこかで観た事があるような絵ばかり描く画家の展覧会をやっていますよ」と教えて頂いた。「しかも美術館本館ではなく別館の地下の判りにくいところで」と。

 教えて頂いた次の日、日曜日に早速、グルベンキャンに出掛けた。
 久しぶりに美術館に行くのも悪くない。とちょうど思っていたところだ。
 連日、40度近くになる猛暑で家にいても暑いし、ビーチは人で溢れているだろうし、露店市も暑すぎて熱中症になっても大変。

 日曜日はリスボンの美術館はどこも無料である。しかしその別館の特別展は平日でもいつでも無料だとのことであった。


01.
 グルベンキャン美術館の敷地はリスボンの中心地にあるにも関わらず、広く、うっそうと茂った珍しい木々と池と小川などの公園になっていて、遊歩道とベンチが整備され、ところどころに彫刻などが配置され、野外音楽堂まである広大な場所である。
 休日にはリスボン市民の憩いの場ともなっていて、乳母車を押し散歩を楽しむ家族。木陰で本を読む人。芝生に寝転がり昼寝する人。お弁当を広げるカップル。


02.
 そんな中に美術館本館とは別に現代美術館の建物、そしてコンサートホールの建物などがある。グルベンキャン・シンフォニーはポルトガルでは一番権威のある交響楽団でもある。


03.
 美術館本館の受付に<Le Breton>というポスターが張ってあったので「このブルトン展はどこでやっていますか」と聞くとコンサートホールの方角を指差して「あっちです」と言うので行ってみた。
 途中の池ではカルガモの雛たちが観光客の関心を一心に集めていた。
 コンサートホールのあたりには標識や看板、ポスターなどがないので判りにくい。
 一階では別の展覧会が行われていて、その入り口に居た係りの人に聞いてみると「もう1階下です。」階段を下りるとスポットライトに照らし出された「LE BRETON」の文字があった。


04.
 あまり知らなかったが、今までもフランスの美術館で必ず観ている画家である。でも今までに買った美術館カタログを繰ってみたがあいにく出てこない。
 インターネットで調べると、英語版が出てきた。自動翻訳をし自分なりの解釈も加えてみたので、下記は間違った箇所もあるかも知れない。

ンスタント・ル・ブルトン Constant Le Breton(1895〜1985)

 コンスタント・ル・ブルトンは1895年3月11日、メーヌ・エ・ロワール県サンジェルマン・デ・プレでロワール漁師の家に生れる。ナントの美術学校に入学するが、1915年ダーダネルス海峡戦争に動員されて、学業は中断。
 休戦後パリに定住。書籍の挿絵木版画が評判になり、生活は安定する。
 その後、アンドレ・ドランとスゴンザックとの3人で友好を結ぶ。パリ独立展に出品。
 作風はコロー、シャルダン、マネ、ブーダンなどの影響を受けつつも当時台頭していたフォービズムの手法で描いたアトリエ室内風景、人物画、静物画、木立の風景、田園風景、河舟、海水浴場、パリの風景などどれも誠実で的確な描写力で評判を呼ぶ。アトリエ風景の自画像の中にフェルメールの作品写真とマチスと思われる裸婦などが一緒に描かれているのも興味深い。
 肖像画も評判になり、フランスの舞台俳優シャルル・デュラン、スウェーデン出身のハリウッドスター、イングリッド・バーグマン、イギリスのベアトリス王女など多くの有名人から制作依頼を受けた。
 フランスをはじめ米国、カナダ、イギリス、スイス、ドイツ、ギリシャなど多くの個人コレクションが残されている。
 1985年2月パリで死去。享年90歳。
 僕は昨年、アンドレ・ドランの足跡を訪ねる旅をしたばかりなのでいっそう興味のある展覧会である。多目的に使われるのであろう。こじんまりとした会場に、テーマ別に67点の作品が展示されていて、見応えのある展覧会であった。

 なるほど「シャボン玉を吹く少年」などはマネと同じ題材だ。
 でもマネの描く少年はいかにも育ちが良さそうなのに対し、ル・ブルトンの少年はワルガキ風なのが可笑しい。
 静物画の目線はシャルダンのそれとそっくりだがフォービズム風である。
 並木道の風景はコローと言うより、ピサロやシスレーの捉え方に似ている。と言うことはピサロやシスレーもコローの影響を受けていると言うことに気付く。
 海水浴風景を描くこと自体異例だが、ブーダンを意識していることは否めない。

 知人が言っていた「どこかで観た様な絵ばかり」と言うのは当っている。
 器用すぎるきらいがあるのかも知れないが、上記の誠実で的確な描写力という文言がうなずける。
 でも一口でフォーブ「野獣派」と片付けるがその河は一つではなく、幾つもの流れからなっていたのが伺われる。


05.
 帰りにはカタログも買った。なかなかまとめては観ることが出来ない興味深い展覧会であった。


06.
 昨年観た「ファンタン・ラトゥール展」といい、このル・ブルトンといい、グルベンキャンはなかなか渋い展覧会を催る。観覧者が少ないのが勿体ない。

 庭園を一回りして、ついでに現代美術館も観ることにした。
 常設展示とは別に、ポルトガルの女流現代作家、コラージュを駆使した、ポップアート的な膨大な作品群、アナ・ヴィディガウ<ANA VIDIGAL>の個展が行われていた。


07.
 ル・ブルトンに比べると大勢の観覧者がいたし、昼時はもう少し過ぎていたが、現代美術館のレストランには長い行列が出来ていた。
VIT

 

(この文は2010年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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082. リネンの花 -Linho-

2018-12-12 | 独言(ひとりごと)

 今年は春の早いうちからポルトガルに戻って来られたので、それ幸いアレンテージョだのカーボ・エスペシェルだのトロイアだのパルメラだのとせっせと花見に出掛けた。
 その牧場風景はMUZのサイト「ポルトガルのえんとつ」先月号にフォトアルバムとして紹介されているとおり。でも写真では残念ながらその素晴らしさは半分も出ていない。

 田舎道を走っているだけでも感動もので満足なのだが、ところどころでクルマを停めて花の中に入ってみる。

 その時期はシャゼンムラサキが圧倒的に強烈で、その中にクリサンテムン(シュンギクの原種)の白と黄色。それに真っ赤なポピーやショッキングピンクのナデシコ。鮮やかなブルーのアナガリスやアンクーサ。でもそのような色鮮やかな花ばかりではない。そんな中に実に多くの種類が混生しているのに気付く。肉眼では見られないほど小さな花。葉っぱと同色緑色のトウダイグサの仲間。淡いピンクや優しい黄色のヒメキンギョソウ。そして様々なハーブの花が香ってくる。

 他の花の陰に埋もれるようにして1センチほどと小さくて清楚なブルーの花がひそっと咲いている。以前から時々見ていて、写真にも撮っている花だ。群生しているのではなく、ところどころにぽつりと咲いているのだが、何となく気になる花であった。



 家に帰ってインターネットで調べてみた。名前が判らないから花あわせで調べる。
 そうすれば学名はリヌム・ビエンヌ、亜麻科の1年草。なんと通名<リネン>だと判った。リネンとはリンネル亜麻である。
 こんな清楚な花からあのリンネルの繊維が取れるのである。正確には、花ではなく茎からであるが…。

 太古の昔から世界中で使われてきた繊維であるが、ポルトガルでも古くからリネンは貴重に使われてきたのがわかる。

 先日ある地域のお祭りでリネンを布にしてゆく工程が示されていた興味深い場面があった。乾燥したリネンの束を叩きつけて柔らかくする人。糸巻きで紡いで糸にする人。機織(はたおり)機で織る人。ポルトガルでは欠かせない繊維らしい。

 衣服は勿論のこと、下着、シーツやベッドカバー、ハンカチ、台所の布巾。パンを包む布。
 パンを作るのには欠かせない小麦を引くための風車の帆。それに大航海時代を支えた帆船の帆やロープ。それまでは帆船の帆は綿等であったのが、水にも強く腐りにくいリネンを使うことによって、航海距離は格段に延びた。大航海時代の後は、綿の品質も上がり再び綿が使われる様になったとのことだが…。

 油彩を描くキャンバスは基本的には亜麻地である。コットンのものもあるが、僕は亜麻しか使わない。

 又、リネンの種子をリンシードと言う。
 僕たちが昔から使っているリンシード・オイルは亜麻仁油と言い、この亜麻の実から抽出したものだ。油彩画には欠かせない溶き油なのだ。

 油彩画の溶き油としてはポピー・オイルとリンシード・オイルを使うのが一般的で、それらに松から採れるテレピン油で薄めて使う。

 ポピーはケシのことでこれも実から抽出する。
 ポピー・オイルは光沢があり乾くのに時間がかかり多少扱い難い。だが変色が少なく明るい色の溶き油として用いるがリンシードに比べると塗膜は脆い。

 リンシード・オイルはポピーに比べて乾きやすく扱い易く堅牢であるが時と共に黄変するというから濃色を中心に使用すれば良いとのことである。
 でもそんな微妙なことを考えてオイルを使い分けている画家は殆どいないのが現状ではないだろうか。
 ポピーとリンシードを混ぜてそれにテレピン油で薄める人もいる。
 ポピーやリンシードなど関係なく「油彩の溶き油」として混ぜられて売られているものもある。僕は使ったことはないが…。

 チューブに入った油絵の具は既にその様な使い分けがなされているらしい。
 明色や透明色はポピーで、濃色や不透明色はリンシードで練られている場合が多いらしい。だから色によって乾き易かったり乾きにくかったりするのだろう。
 そのあたりはメーカーによっても違うだろうし、或いは企業秘密な面もあるかも知れない。
 同じ色名でもメーカーによって随分違った色もあるし、乾き方もかなり違う。日本製とヨーロッパ製でも、又、かなり違う。

 そしてキャンバス地は白の顔料をリンシード・オイルで練ったもので地塗りされている。
 昔の画家は自分で地塗りをしていた。それによって独自のマティエールを作り出す。佐伯祐三もそうだった。
 僕も絵を描き始めのころ、本町の生地問屋で亜麻地を買ってきて、フランス製で粉末の<カゼ・アルテ>と言うのを画材店で買って、練って地塗りしたこともある。安上がりに出来たのだ。

 何れにしろ僕は油彩画を何十年も描いてきて、この歳になって初めてリンシード・オイルの原料であるリネンの花を…。キャンバス地になるリネンの花を…。偶然に発見することができて感動したこの春の出来事であった。

 僕が見た上記写真は天然のリネンの花だが、勿論、栽培され商業生産されているのは品種改良種の筈でその違いはあろうと思う。

 来春はちょうど下記個展のため帰国中で無理かも知れないが、再来年にはまたひそっと咲くリネンの花に出会えるのを楽しみにしたいと思う。
VIT

 

(この文は2010年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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081. マリアのビスケット -Biscoito-

2018-12-11 | 独言(ひとりごと)

 今、宮崎県では口蹄疫で大騒ぎの様子。
 数年前、僕たちが宮崎に滞在中にも口蹄疫で宮崎空港の入り口マットに消毒液が浸され、じゅくじゅくしていて、それを跨いで3階のギャラリーに通っていたのが思い出される。
 今回はその時どころではない。せっかく新たな宮崎名物になった<肉巻きおにぎり>もどこかへ吹っ飛んでしまったのではないだろうか。

 昨年は世界中で新型インフルエンザ。
 その前にもノロウイルスや鯉ヘルペス、豚コレラ、狂牛病などなどこのところ変なウイルス騒ぎが多い。お陰でポルトガルの我が家では牛肉はすっかり食べなくなったし、刺身や寿司など生魚を食べる回数がめっきり減った。パリに行っても生牡蠣は控える様になった。ウイルスだけではなく残留農薬問題、偽装表示などと食に関する心配は尽きない。

 数年前、カミュ全集を読破したのだが、その中に当然代表作「ペスト」も含まれていて、その小説の壮絶さに衝撃を受けたこともあってか、昨年の新型インフルエンザの時には、小説「ペスト」がオーバーラップして人一倍、用心深くなったのかも知れない。
 特に海外に住んでいると<自分の身は自分で守るしかない>という意識が強い。

 ウイルスが蔓延している半年間は一切外出をしなくても持ちこたえる食料などを備蓄することにした。これは常日頃必要不可欠なことの様にも思える。

 先ずは米。これは常に以前からある程度の買いだめはあった。勿論、水も5リッタータンクに15~6杯。それにスパゲッティ。インスタントラーメン。水道や電気、ガスなどが止まっても食べられる、クラッカーやビスケットも蓋付きの発泡スティロールにぎっしりと満杯。
 徐々に買い足したので、使う順番を間違えないようにマジックインクで日付を入れておいた。
 オイルサージンとツナの缶詰。それに桃の缶詰。これは体力が衰えた時、元気を回復するのに有効らしい。

 どうやら新型インフルエンザもカミュの「ペスト」程にはならなくて良かった。

 備蓄食料は順繰り少しずつ消化しなければならない。
 米は、やはりだいぶ味が落ちているが何とか食欲はあるのでそれをいま美味しく頂いている。5袋(2,5キロ)のスパゲッティの内、2袋のスパゲッティには穀虫が付いてしまった。虫を払い落として瓶に詰め替えたが、味に問題はない。
 大量のビスケットやクラッカーは少しずつ毎朝の朝食にしているのだがこれも味に問題はない。
 でもせっかくパンの美味しいセトゥーバルに住んでいるのだから、焼きたてのパンも食べたい。ビスケットとクラッカーの消費はほんの少しずつ徐々にである。

 思えばビスケットなどは久しぶりに食べている。
 僕が子供の頃、生まれ育った家から直線距離にして2~300メートルのところにビスケット工場があった。今川の漆堤まで歩いて川下に3ブロックほど行くとその角にビスケット工場があった。

 その前を通るとミルクと粉の混ざった甘い香りがいつも漂っていた。
 小学校からも課外授業として見学に行ったこともある。型に抜かれた生のビスケットがベルトコンベアを流れていくに従って美味しそうなビスケット色に焼かれていく。工場にはあまり人は居なくて全くのオートメーションの清潔な工場であった。

 中国人の経営で小学校の1学年上級生にその工場の1人娘が居た。美人で背がすらりと高くいかにも金持ちの娘らしくお上品な物腰で僕には近寄りがたい存在であった。
 その工場のあたりは僕の遊びのテリトリーでもあった。ある日、一人で今川沿いを歩いていると工場の入り口の前にその娘が一人で居て、ブドウの実に手をのばそうとしているところであった。工場の入り口にぶどう棚が作られていてちょうど美味しそうに色づいていた。僕がそこに通りかかったのだ。娘は僕を見て「このブドウ食べられるかしら」と僕にむかって言った。
 今まで話したこともない女子の上級生から話しかけられた僕は戸惑ってしまって、どう応えたのか。何かを言ったのか。何も言わなかったのか、忘れてしまったが、そんな思い出だけが鮮明に残っている。

 子供の頃、雷は全く怖くはなかった。
 父は「うちはビスケット工場の避雷針に守られてるから大丈夫や」と言っていたからだ。ビスケット工場には煉瓦造りの高い煙突が聳えていてそのてっぺんに避雷針があった。

 <てなもんや三度笠>の頃だったと思う。「あたり前田のクラッカー」が流行りだした頃、そのビスケット工場はクラッカー工場に変身した。クラッカーの少し欠けたアウトレット品などが近所の人は安く買えた。

 その後、日清のチキンラーメンが流行りだすとラーメン工場へと変った。同級生の母親たちが大勢パートタイム従業員として働きだした。やはり欠けたインスタント麺が安く買えた。

 そしていつの間にか工場は跡かたなく姿を消し、今は小さく分譲され住宅になっていて当時の面影はない。

 今、ポルトガルで食べているビスケットもクラッカーも当時のままの昔懐かしい味がする。

 ポルトガルの人たちはティラミスの材料として使うことも多いのだろう。32枚入りが4本入ったのが1パック。かなりの量である。一番安価で基本的な素朴な丸いビスケット。
 そういったビスケットにはメーカーが違っても何故か必ず<MARIA>と書かれている。MARIAと刻印された回りには歯車の様な模様が施されている。
 ポルトガルではマリア[MARIA]。そしてフランスではマリー[MARIE]。

 マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮殿で女官たちにビスケットを作らせたとか。

 その歯車の様な模様は何でもマリー・アントワネットのハプスブルク家の紋章だそうだ。フランス名、マリー・アントワネットのハプスブルク家での名前はマリア・アントーニアと言った。

 マリー・アントワネットの有名な言葉「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない!」"Qu'ils mangent de la brioche."

 いかにも貴族育ちの世間知らずで高慢な感じがしないでもない、がそうではない。
 食糧難の時代。当時パンにならない質の悪い小麦粉がたくさん採れた。それを何とか食料にするために卵やミルク、砂糖それに時にはドライ・フルーツなどを加えお菓子にしたと言う。それがブリオッシュなのだ。

 お菓子と訳されているがフランス語のブリオッシュ。それはビスケットではなく、ポルトガルのボーロ・デ・レイの様な物なのかも知れないが。

 マリア・アントーニアのビスケット。MUZは「美味しくない」と言うが、僕にとっては申し分のない味がする。

VIT

 

(この文は2010年6月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

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080. 桜 -Flor de cerejeira-

2018-12-10 | 独言(ひとりごと)

 毎年桜の時期に合せたかのように日本での個展があります。
 昨年は岡山で滞在したホテルの前の西川沿い図書館公園の枝垂桜が部屋の窓から眺めることができましたし、横浜でも運河沿いの桜並木を通って高島屋まで通いました。

 でも今年ほど日本の桜を満喫した年はいまだかつてなかった様にも思います。


01.
 宮崎空港ギャラリーでの個展が1ヶ月早い3月にあったこともあるし、その前に高校美術部OB展NACK展が40周年を迎えたのですが、それが1月下旬に展覧会があって、それに会わせての例年より随分早い1月中旬の帰国でした。

 40回NACK展も終えて宮崎に入ったのが2月初旬。あちこちの庭先では梅がまさしく満開でありました。高岡「月知梅」の花見に行ったのが2月21日。


02.「月知梅」の梅。
 個展が始まる前、霧島神宮の温泉地に向う途中、山之口あたりでの山桜もちらほら花を咲かせ始めていました。
 個展が始まってすぐの3月3日。堀切峠の山桜が見事に満開を迎えたのを義妹の運転するクルマで出掛けました。


03.「堀切峠」の山桜。
 宮崎空港ギャラリーでの個展が始まってからも、温かくなったり、異常に寒かったりでソメイヨシノはなかなか開花しなかったのです。
 自転車で空港までの間の公園や庭先にもたくさんソメイヨシノが植えられていますが、1分、2分咲きのまま、なかなか満開にはならなかった様です。
 宮崎空港横の特攻基地記念碑脇にも20本ほどの桜が植えられていまして、それを横目で見ながら自転車を漕いでいたのですが、やはりなかなか満開にはなりませんでした。それが個展の終盤に差し掛かる頃、あちらこちらで満開を迎えたのです。

 個展が終わった翌日の3月31日、友人の能面展が西都でありました。それを観に行ったのですが、そのついでに西都原古墳群の桜祭りに出掛けました。そこの桜と菜の花のコントラストも噂に違わず実に見事なものでした。女狭穂塚の前に特設された屋台の手打ちそばと草饅頭で桜祭りの雰囲気を堪能することもできました。


04.西都原。
 4月3日、今まで見たいと思っていた、宮崎神宮の流鏑馬(やぶさめ)にも出掛けました。流鏑馬会場にも桜がたくさん植えられているのは以前から知っていましたが、その時は既に満開は過ぎていて、花吹雪がそよ風に舞い散る様は息を呑む見事なものでした。


05.宮崎神宮の「流鏑馬」
 宮崎県立美術館前の公園の桜も満開を迎えていて、家族連れなどがお弁当を広げていたのをほほえましく眺めながら美術館の企画展を鑑賞しました。


06.「宮崎文化公園」
 宮崎駅裏、科学技術館横の公園では桜の下で焼肉パーティーの若者たちでぎっしり満員でありました。そこでは桜の花よりも焼肉の匂いが勝ち誇っていましたが、それも日本的で良いもんだと思いましたが、あのブルーシートは興ざめで、何とかならないものか?と思いました。せめて昔ながらのゴザ(畳表)を使うとか。芝生色のシートを売り出すとか…。

 大阪に向った飛行機から見下ろす大阪城公園の桜もランダムで見事でありました。
 大阪の実家の近くには今川という大和川からの支流が流れています。
 僕の子供の頃はメタンガスが噴出すドブ川でありましたが、最近は少し水も綺麗になっている様で、暇人たちが釣り糸を垂らしています。
 万葉の時代にはカイツブリが生息する美しい川だった様で万葉歌にも唄われている川なのです。
 その中洲は漆堤(うるしづつみ)という公園に整備されていて区民の憩いの場になっています。今、漆はありませんが、その代りたくさんの桜が植えられ現在では桜の名所になっている様です。
 殆どのソメイヨシノや枝垂桜は盛りを過ぎていましたが、2~3本のソメイヨシノは満開を少し過ぎたばかりで桜吹雪を惜しみなく散らして川面を桜色に染めていました。
 漆堤公園の一角には八重桜ばかりが植えられたところもあり、いろんな色の八重桜がどっぷり今が盛りと満開を迎えていました。


07.漆堤の「緑の八重桜」
 そしてニュースでは今日から造幣局の通り抜けが始まります。と流れていました。
 そんな中、ポルトガルへと戻る日になりました。
 関空へ向う車窓からも未だ名残桜がちらほらと咲いていたほどです。3ヶ月弱の日本滞在、本当にこれ程長い間桜を楽しんだ年はなかったと思います。


08.
 ポルトガルには桜はないのですが、1月下旬には桜にそっくりのアーモンドの花が楽しめますし、今年はもう過ぎてしまったのですが、ベイラ地方に行けば一面のサクランボの花を見ることができます。
 もう暫くすると街中を紫色に染めるジャカランダの季節がやってきます。そしてまさしく今、アレンテージョのお花畑が満開の時を迎えています。パソコンの前はこの位にして早く郊外へ出かけなければ…。
VIT

(この文は2010年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

 

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078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(下)-Troyes-

2018-12-09 | 旅日記

078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(上)-Troyes- へ

 

2009/11/13(金) 晴れ / Paris


 今回の旅でのもう一つの楽しみはロダン美術館での「マチス、ロダン2人の出会い」という企画展だ。

 アンヴァリッドまでバスで行きロダン美術館に入った。
 もしかしたら入り口で行列しているかも知れないと心配していたが全く行列はなかった。

 タイトルを見ただけで、面白い企画だと思っていたが、観てみると想像を遥かに超えて面白い企画であった。


25.ロダン美術館


26.マチスとロダンのカタログ


 マチスはドランと一緒にフォーヴをやっていたと思うと、ほぼ同時期、ロダンと一緒に彫刻も作っていたのだ。
 勿論、今までもマチスのブロンズ彫刻は数多く観ている。でも案外とロダンとは結びつかなかった。
 同じポーズのクロッキーが何枚も並べて展示されているし、同じポーズのブロンズ像がある。
 彫刻はロダンの専門だからマチスはロダンの手ほどきを受けたのかとも思ったが、それだけではない。むしろロダンもマチスに引っ張られる様なクロッキーやブロンズ像を残している。ここでもお互いに影響しあっていたのが伺える。僕には想像のつかない発見であった。

 先月、僕が書いた「モントーバン旅日記」の中に『マチスはドランと共にコリウールに滞在し、地中海の輝く太陽の下でフォーヴをやっていた同じ年、パリに戻ってアングルの「黄金世代」からヒントを得てフォーヴの実験的な絵を描いている。それはやがてマチス生涯のテーマとなった「ダンス」へと繋がっている。』と書いたが、何とロダンはそれよりも10年以上も前にその同じアングルの「黄金世代」からのダンスのスケッチを描いていた。
 会場でロダンのクロッキーを観てスケッチしている人がいた。


27.ロダン美術館展示室、絵画はゴッホ{タンギー親父」とルノワール


28.ロダンの「バルザック」とアンヴァリッド


 トロワの2日間はものすごく寒かったがパリに来てからは暖かい。
 ロダン美術館の庭にあるカフェテラスで昼食。屋外のマロニエ並木の下なのに全く寒くはない。スープが旨かった。

 常設会場もひと通りじっくりと観た。
 思えばロダン美術館に来たのは実に久しぶりだ。パリには行きたい美術館が多すぎて毎年来るたびに複数の美術館を訪れるがロダン美術館はすぐ側を通ってもなかなか入らなかった。
 全集のバルザックを2年間もかかって先日読み終えたばかりなので、ロダンのバルザック像の前で記念撮影。

 再び82番のバスに乗り予定はしていなかったパリ市立近代美術館に昨年に引き続いて行った。ここのアンドレ・ドランをもう一度観たかったのだ。

 先月に行った「コリウールの鐘楼」の絵がここにある。
 ドランは作品傾向が様々なので展示はまとまってではなく、散り散りに掛けられている。別々の部屋であるがある程度の点数が展示されていた。


29.ドランの「コリウールの鐘楼」の前で子供たちの課外授業


30.パリ市立近代美術館カタログ

 

2009/11/14(土) 曇り時々雨 / Paris


 インターネットで検索すると、今、パリでは「マチスとロダン2人の出会い」以外にグランパレで「後期ルノワール展」と、ルーブルで「ヴェネチア絵画展」が開催されている。でも今回、その2つは観ないことにした。

 朝からモンパルナスに行き、露天のマルシェ(市場)を見る。
 フランスのマルシェは飾りつけが素晴らしくて見ているだけで楽しい。
 八百屋でゴボウを見つけた。ポルトガルでは見たことがない。

 このゴボウはミレーを多く所蔵するシェルブールのトマ・アンリ美術館で展示されていたGuillaume FOUACE(1837-1895)の静物画にも描かれていて「おやっ!」と思ったことがある。だから昔からあったのだろう。

 フランス人はゴボウをどのようにして食べるのだろうか?
 以前にもリヨンのマルシェで同じものを見つけたが旅の前半で買えなかった。今回は明日ポルトガルに戻る。絶好のチャンス。1束が1キロ、8本ほどが縛られて5ユーロ。それを買ってしまった。


31.ゴボウもどきとカボチャ


32.モンパルナス露店市のパン屋


 昨日、ロダン美術館が良かったので、今日はブールデル美術館に入るつもりでモンパルナスに来たのだ。
 ブールデルはロダンの弟子というか、15年程、ロダンの下で荒彫りなどの制作にあたっていた。

 先日アングルを観にモントーバンまで行ったが、ブールデルもモントーバンの生まれで、モントーバンのアングル美術館1階第1室はブールデルの展示室になっていた。そこには「弓を引くヘラクレス」もあったし、ファサードにはブールデルの巨大なブロンズ像が建っていた。

 「弓を引くヘラクレス」を完成させた1909年頃よりブールデルはパリのグランド・シュミエールで彫刻指導も始めるが、その生徒にジャコメッティとヴィエラ・ダ・シルヴァが居た。
 フランスに於ける近代美術ではおおよその芸術家たちがどこかで繋がっているというのも興味深い。

 ゴボウを下げてブールデル美術館に入るのも気が引ける。
 モノプリがあったので折りたたみバッグでもあれば買おうと思ったが適当な物が見つからなかった。C&Aの袋を提げた人とすれ違ったのでそちらに行ってみた。折りたたみではないが、ズック生地で男性用の使い良さそうなメッセンジャーバッグがあったのでそれを買ってゴボウと傘を入れた。中にはいかにもノートかスケッチブックでも入っていそうで誰もゴボウが入っているとは想像もつくまい。

 ブールデル美術館は入場無料である。
 庭には大小たくさんのブロンズ像、それにアトリエも見学する事ができる。展示室には大理石彫像、デッサン、油彩。ロダンともブールデルとも交流が盛んだったというカリエールの油彩なども展示されていた。

 ブールデルの作品にはロダンやカミーユ・クローデルの影響を感じる作品も無きにしも非ずだが、むしろロダンからの流れを極力避け、古代ギリシャ彫刻や神話、或いはセザンヌの造形理論、そしてジャポニズムなどから多くを学ぼうとしたと言われている。
 それがアール・ヌーボーにも少なからず繋がっていく。
 美術大学の学生たちだろうか?数人の若者がスケッチブックを広げて彫刻のスケッチを始めた。


33.「自由」「勝利」「力」「雄弁」ブールデル美術館前庭


34.ブールデルのアトリエ


 初めて来たがモンパルナス駅からも歩いてすぐだし、結構見応えのある充実した美術館である。日本語のカタログがあったので買った。それもメッセンジャーバッグにすっぽり入った。


35.ブールデル美術館カタログ


36.「瀕死のケンタウロス」のある美術館中庭とアトリエ


 夜7時を過ぎてからIKUOさんの自宅に向った。歩いて10分もかからない。
 買ったゴボウに鼻を近づけてもゴボウの香りがしないので、IKUOさん家に持って行き、パリ在住の方たちにゴボウを見てもらったが、どうやらゴボウではないらしい。「瓶詰めも売られています。」とのことだった。
 IKUOさんの家では日本語での会話がはずみ、いつも時間があっという間に経ってしまう。12時近くにホテルに戻る。

 

2009/11/15(日) 曇り /Paris - Lisbon – Setubal


 今回のパリはバスばかりを利用して一度もメトロは使わなかった。いや、着いた時、北駅からサンミッシェル・ノートルダムまでだけ使った。バスとメトロ両方に使える切符カルネ(回数券)をいつも無くなった時点で最寄の駅で買う。今回はイエナ駅のメトロ切符売り場で買った。切符売り場には人がいたが案内だけで売ることはしない。
 「私は売ることが出来ないので自動販売機で買って下さい。」とのことだ。日本の地下鉄の自動販売機の様に簡単ではないがいろいろやってみてようやく何とか買うことが出来た。「意外と便利じゃん」などと高をくくっていた。

 ドゴール空港まで行くのにリュクサンブール駅で切符を買おうとするともう既に全くの無人駅になっていた。先日と同じ自動販売機だが、カルネなら買えたがドゴール行きがどうしても判らない。仕方がないのでパリ市内切符を2枚だけ買った。
 RERの中で車掌が来れば精算すればよいと思ってドゴール行きのRERに乗った。ストが回避されていて良かった。ドゴール空港駅まで車掌は一回も来なかった。アコーデオン弾きや寄付金集めはひっきりなしに来たが…。出口に精算機があるだろうと思っていたが、それもなかった。
 自動改札口の横の扉が大きく開放されていた。観光客たちは少し後ろめたそうな表情でその開放されたところを通過していた。それも何十人も。
 そう言えばリュクサンブール駅も開放されていた。
 僕たちはまじめに切符を使って自動改札口を使ったが…。僕たちと同じように切符が買えなくて、同じような気持ちでこのRERを利用していた人が殆どだったのではないだろうか?

 空港のセキュリティーの列に並んでいるところに[100cc以上の液体は持ち込めない]と書いてある。僕はうっかりメッセンジャーバッグの中に1リッターの水が入っているのを忘れていた。メッセンジャーバッグには何でもすっぽりと入ってしまう。まあ、言われてから捨てればいいかと思っていたら、モニターを監視している女性は他の係官とお喋りに夢中でモニターに眼は行っていなかった。1リッターの水はそのまま持ち込んだ。
 ゴボウもどきも土が付いているので引っかかるかな?と心配していたがそれも大丈夫だった。

 リスボンのオリエンテ駅でセトゥーバル行きのバスを待っている時に少し雨が降り始めた。旅行中は1度も傘を開くことはなくラッキーであった。A型インフルエンザも僕たちにはどうやら近寄って来なかった様だ。一応マスクは用意していたが旅行中マスクをしている人は一人も見なかった。

 家に帰ってゴボウもどきを早速料理してみた。処理をするのに松脂の様なものがべたついて大変な作業になった。キンピラにしてみたがやはりゴボウの香りはなく、それでもしゃきしゃき感がありそれはそれで美味しかった。搔き揚げテンプラにしたらしゃきしゃき感もなくなり、もうそれはじゃがいもと変らない。次にパリで見かけても2度と買っては帰らないだろう。

VIT

 

(この文は2009年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(上)-Troyes-

2018-12-09 | 旅日記

 今回のパリ旅行は昨年行き逃したトロワに行くことにした。
 昨年はランスからトロワ行きのバスの便がちょうど悪くてランスで1泊、トロワで1泊のつもりがランスだけで2泊にしてしまったのだが、それが返って良かった。ランスを十二分に堪能することができた。

 今回、トロワでは見る物が少なくて退屈するかも知れないとも思ったが、昨年の経験があったので初めからトロワを2泊とした。パリ4泊、トロワ2泊、6泊7日の旅である。

 イージージェットの往復航空券、パリからトロワの往復列車乗車券、それにトロワのホテル、パリのホテルと全てインターネットで予約、もしくは買ってしまっていたので便利といえば便利だが変更は難しい。


2009/11/09(月) 晴れたり曇ったり / Setubal - Lisbon - Paris

 

 きょうの出発は比較的ゆっくり。
 朝9時45分セトゥーバル・バスターミナル発ヴァスコダガマ経由の高速バスでオリエント駅まで。2階建てバスの2階先頭に座ったのでヴァスコダガマ橋を渡るときなど迫力満点である。
 いつもなら自分で運転だから前をしっかり見ていなければならないが、きょうはよそ見ができる。塩田にフラミンゴの群れも見ることができた。しかも高い位置から。
 リスボン空港でもゆっくりと時間をもてあますほどであった。

 イージージェットの出発は少し遅れた。
 到着便に病人が出たらしくて、医療チームが慌しく機内に入っていった。若い青年だったが青白い顔をしてよろよろしながらも自力で歩いて出てきた。
 イージージェットは自由席だが比較的後ろの方に座った。僕たちの席も、通路を挟んで隣の席も3人掛けに2人だけでゆっくり。ゆっくり出来たと言っても、映画も音楽も食事も何もないのでパリまでの3時間が退屈だ。
 出発した飛行機の中ほどにも気分が悪くなった人が居て、客室乗務員たち3~4人が集まって手当てをしていた。A型インフルでなければよいが…。これくらいの出発遅れなら取り戻せると思ったがパリ到着も少し遅れた。

 ドゴール空港のいつもの場所にムッシュ・Mは待っていてくれた。サロン・ドートンヌに出品の100号の作品を預け手続きをお願いする。
 「パリのホテルまで送っていきます。」と言って頂いたが、今回は辞退した。パリ市内はそろそろ夕方のラッシュ時で、ムッシュ・Mの自宅からホテルまではパリ市内を縦断しなければならない。かえってドゴール空港駅から直接RER(パリ高速郊外鉄道)で行ったほうが早いし簡単だ。

 ところがプラットホームに下りてみると、電光掲示板では全て北駅止まりになっている。きょうRERはホテルのあるリュクサンブール駅までは行かないらしい。RERがストライキ中とのことである。
 サルコジ政権に変ってもフランスのストライキは相変わらずの様だ。

 北駅からメトロに乗り換えだが、ホテル最寄のクリュニュに行くにはオデオンまで行って乗り換え。ところがそのオデオンが工事中。
 仕方がないので手前のサンミッシェル・ノートルダムで降りて歩くことにした。パリのメトロ2駅分だが散歩と思って歩けばほんの僅かだ。寒いのにサンミッシェル大通りの歩道には人が溢れている。ポルトガルから来ればやはり人の多さを感じる。気温は10度以上低い。

 ホテルの部屋は良かったが暖房が入っていない。最初はそれほど思わなかったが、真夜中にありったけの毛布3枚をかけパジャマの下に肌着を重ね着。


2009/11/10(火) 晴れ / Paris – Troyes

 

 フロントに「暖房が効かなかった」とひと通り文句を言って出発。
 列車の切符はインターネットで買って自分でプリントした物だから、そのままで乗ることが出来るのか少し不安だったので早めに東駅に行く。
 インフォメーションで聞くとあっさり「そのままで良いです。20分前から列車に入れます。」とのこと。またもや時間をもてあます。

 東駅も以前に比べると随分とすっきりとなって、ブランド品のブティックなどのショーウインドウを見て歩くが、見るものもないし、お客もあまり入っていない。
 リュックを担いだままあちこちのベンチに場所を変えて座る。近くに咳をする人がいたり、プラットホームからの風が吹き抜けて寒かったり…。

 例によって駅地下にあるPAULのサンドウィッチを買って列車に乗り込む。
 時刻通りに発車。パリを出たあたりでサンドウィッチの包みを広げたが、すぐに検札が来た。車掌はプリントした切符にパンチを入れてくれた。そして「ボナ・プティ」と言って立ち去った。インターネットの切符は通常運賃の半額くらいで買えた上に慣れれば随分と楽だ。


1.トロワのホテル


2.ホテルのロビーもコロンバージュ


 トロワまでは1時間半。
 ホテルに着き名前を告げようとすると、ホテルのマダムが「マダム&ムッシュ・タケモト~?」と先に言った。「地球の歩き方」に載っているホテルだから日本人がよく利用するのだろう。
 日本語で「シャシン・オ・イッショニ・トリマショ~」などと明るい声で言う。
 部屋もコロンバージュで広いがバスタブはなく、シャワーのみ。でも暖房は良く効いている。荷物を部屋に下ろし、早速トロワ近代美術館へ。明日は祝日で休館なので今日中に観なければならない。

 美術館入り口には「ルオー展」の表示があった。
 昨年、パリのピナコテカで観た展覧会が巡回して来ているのであろうか?と思ったが観ると全く違う作品ばかりでサン・トロペ美術館からの巡回で、これはついていた。


3.ルオー展カタログ


4.トロワ近代美術館カタログ


 この美術館にはアンドレ・ドランがたくさんあるというので今回はそれを楽しみに観に来た。
 先月、モントーバンにアングルを観に行ったが近くのコリウールでアンドレ・ドランとマチスのフォーヴ運動の息吹を感じたので今回はこの美術館でドランを観るのを楽しみにしていたのだ。アンドレ・ドランについては最大のコレクションかもしれない。

 


5.トロワ近代美術館入り口


6.アンドレ・ドランの「ビッグ・ベン」のある展示室

 最初期から晩年まで、それに最盛期ロンドン時代の「ビッグ・ベン」など実に多くが所蔵されていた。
 ドランはフォーヴィズムの先駆者としてフォーヴ時代の絵の評価は高いが、その後は比較的暗い沈んだ絵になったためか、もう一つ評価は低い。
 でもこうして生涯の作品を通して鑑賞してみると実にいろんなスタイルに挑戦していることが判る。そしてその作品どれもが、ある意味で実験的で革新的なのだ。それが時代の流れとはただ単にかけ離れていたに過ぎなかっただけの様な気もする。


7.トロワ近代美術館の庭


8.トロワ近代美術館裏とカテドラル鐘楼が少し見える


 この美術館にはドランの他にミレーの肖像画、クールベの雪景色、描き潰したドガ、点描以前のスーラ、フォーヴのブラック、抽象画家ドローニーの具象画など珍しい作品と、ゴーガン、ヴィヤール、ボナール、マルケ、デュフィ、モジリアニ、マチス、ドンゲン、ヴィエラ・ダ・シルヴァそれにビュッフェなどあまり今まで観た事のない作品が多く展示されていた。

 夕食にはメインストリートの観光客が一番多く入っているレストランにした。
 町に観光客はあまり見かけなかったのだが、この店に集中している様に思う。
 トロワ名物の「アンドゥイエット」を食べるのも楽しみにしていた。臓物のソーセージだが、ガイドブックには少々臭いと書いてある。殆どの人がアンドゥイエットを注文している。
 ナイフとフォークを使って切る時に強烈な臭いが鼻をかすめた。息をしないで口に入れたが、歯ざわりは悪くない。
 隣の席の人は殆どを残して皿を遠くへ押しやっている。早く下げてくれ~と言いたげだ。
 僕は一応一皿は全部平らげたが2度と食べたいとは思わない。せっかくこの地に来て、この地の名物なのだから1度は試してみなければならないのだとは思うが、しばらくその臭いが脳天から離れなかった。


09.トロワ名物「アンドゥイエット」


10.トロワのメインストリート

 

2009/11/11(水) 晴れ /Troyes


 昨日より増して寒い一日。そして祝日なので殆どの店が閉まっている。
 ホテルで貰ったトロワの地図には観光ルートが示されていた。一日それに従って歩くことにした。思っていた以上にコロンバージュ(木骨レンガ造り)の家が多いのに驚く。


11.写真以上に歪んでいたコロンバージュの家


12.今にも崩れ落ちそうなコロンバージュの古い家並


 20世紀半ばからしだいに昔の家並が失われていたところ、当時の文化相アンドレ・マルローの提唱により再びコロンバージュの家並が取り戻されたのだそうだ。
 そんな情報もあって、もっと新しいコロンバージュだろうと思っていたが古いものが多く残されている。ブルターニュでもノルマンディーでも多くのコロンバージュの家並を見たがここのが一番古い様な気もする。


13.マンホールの蓋までもがコロンバージュ


14.2階がせり出した典型的なコロンバージュの家


 途中、ポルトガルのフランゴ料理の店を見つけたがあいにく祝日で休み。
 サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂のステンドグラスは美しく見事であった。正面のバラ窓の黄色いステンドグラスはさすがであったが、遠くてデジカメでは色が出ていないのが残念。


15.サン・ピエール・エ・サン・ポール大聖堂


16.黄色が美しいバラ窓


17.側面のステンドグラス


18.正面のステンドグラス


 道具博物館が開いていたので入った。
 コロンバージュの町にふさわしい博物館だが、展示のセンスが実に素晴らしい。古い道具を使ってのまるで現代美術を観ている様で感動さえ覚えた。入る時は入場料が少し高いと思ったが、出る時には安いと感じた程だ。


19.道具博物館入り口


20.道具博物館の展示

 

 

 

2009/11/12(木) 晴れ /Troyes – Paris


 マルシェ(市場)の肉屋にもアンドゥイエットは売られていた。店によっても味に違いがあるのだろう。地元のおじさんが品定めをして買っていたが、こういった癖のある物ほど慣れればやみつきになるのかも知れない。


21.マルシェのアンドゥイエット


22.トロワの街並


 ポルトガルに戻る前夜にIKUOさんの自宅にお招ばれしている。その時に持っていこうとシャンペンを専門店で調達。パリでも勿論買えるが、トロワ産のトロワでしか買えないシャンペンを買いたかったが、店の親父にはそれが通じたのか通じなかったのか「これだ」と言ったのでそれにした。

 画集やシャンペンでリュックが重くなったので、列車内で食べるサンドウィッチは駅のキオスクで買った。これが不味かった。フランスのサンドウィッチはたいてい旨いが、今までフランスで食べたサンドウィッチの中で最悪だった。

 パリのホテルのフロントには従業員ではなく経営者のマダムが居た。僕たちの名前と顔は良く覚えてくれていていつも歓迎してくれる。

 荷物を下ろしムッシュ・Mに電話。
 「ドートンヌに搬入するとカタログを渡されたのでどうしましょう?」と言う。いつもなら会場で直接貰うのだが今回から搬入時に配布する様になったらしい。ムッシュ・Mの自宅まで取りに行くことにした。
 85番のバスで1本だが道が混んでいて小一時間もかかってしまった。でもこのバスは名所や下町の猥雑なところなども縫って走るので楽しい。カルネたった1枚で随分値打ちがある。

 ドートンヌは今回初めての会場でエスペス・シャンペレという今まで行った事がないところ。
 ホテル近くのパンテオンからポルト・シャンペレまで84番のバス1本で行く。始点から終点までだ。
 ムッシュ・Mの自宅のあるジュール・ジョフリン往復とドートンヌのあるシャンペレ往復でパリ市内観光を全てしてしまった感覚だ。

 今年も目立つ良い場所に僕の絵が掛けられていて満足であった。


23.正面の100号が僕の出品作(サロン・ドートンヌ2009)


24.サロン・ドートンヌ2009カタログ

 

078. マチスとロダンそしてドラン -パリ・トロワ旅日記-(下)-Troyes-へつづく。

 

(この文は2009年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- (下) -Montauban-

2018-12-08 | 旅日記

2009/10/04(日)晴れ/Albi-Castres-Toulouse-Castelnaudary

 ホテル・エタップのバイキング朝食もそこそこに良かった。普段は無人でもその時間帯だけは従業員がいる。朝食の用意と掃除、シーツの替えなどだけをして昼過ぎに帰ってしまう。
 チェックイン、チェックアウトはお構いない、料金などは全て自動販売機方式だからお金は一切扱わない。
 意外と初老の宿泊客が多いのに驚いた。七面倒なのより合理性を好むのだろう。

 ロートレック美術館は10時からなのでその前にロートレックの生家を探すことにした。
 初めはあいにく見つからなかった。
 カテドラル内部を見学し裏庭とタルン川の風景を見ていた。
 横浜からという同世代か少し僕たちより若いご夫婦と少し話をした。
 僕たちは今からロートレック美術館を観てゴヤ美術館のあるカストルに行く。
 横浜のご夫妻は昨日既にロートレック美術館は観ていて、今からカルカッソンヌに行かれるらしい。
 「列車やバスを乗り継いでの旅だから時間がかかります。」と言われていた。出来るものなら旅は時間をかけるほうが楽しいし値打ちがある。


15.アルビのタルン川風景


16.ロートレック美術館カタログ


17.ロートレック美術館とツーリストインフォメーション


18.ロートレック美術館

 ロートレック美術館にも膨大な作品が展示されていた。
 今までパステルだろうと思っていた作品の殆どが油彩であったのには驚いた。その多くは紙やボードに描かれた油彩だ。それにロートレックと交友関係にあった、ナビ派やポンタヴァン派などの作品も展示されていた。
 ホテルに帰る途中に今度はロートレックの生家だというプレートを見つけた。


19.ロートレックの生家プレート


 朝はたっぷり食べたし、夕食もいつもたっぷりなので、昼くらいは軽くと思って、出発前にスーパーでサンドイッチとサラダを買った。
 サラダを食べるのにプラスティックのフォークが必要だと探していたら、レジの女性が「サラダにフォークが付いていますよ。ぷちっちゃいけどね。」と教えてくれた。
 いかにも日曜だけ働いている学生アルバイトという感じの良い女性。

 カストルに行く途中の景色の良い田舎道のPでサンドイッチとサラダ、ヨーグルトを食べた。

 カストルは田舎町という感じでどこにでも駐車はできた。しかも日曜日だ。
 町の中心方面に向って歩き運河沿いに少し下った所にカテドラル。その裏手に古い司教館を利用したという立派な建物、ゴヤ美術館があった。


20.ゴヤ美術館入り口


21.ゴヤ美術館の庭


 そしてヴェルサイユ風の庭が美しい。いろいろと珍しい花も植栽されていて、イチイの木には真っ赤な実がなっていた。
 ゴヤ美術館で入場料を払おうとすると「きょうは日曜日なので無料です。」


22.ゴヤ美術館展示室

 カストルのゴヤ美術館はフランスにあるにもかかわらず何故かスペイン系の画家の作品が多い。
 ゴヤは勿論のこと、ヴェラスケス、リベラ、スルバラン、ムリーリョ、そしてピカソとクラーヴェの作品も一点ずつ。
 名前の知らない画家の作品もその殆どがスペイン生れの画家であった。


23.ゴヤの自画像

 フランスのファンタン・ラトゥールの作品もあったがムリーリョの「乞食の少年」の模写である。
 そしてゴヤの膨大な数のエッチング。一人のコレクターの蒐集品であったそうだ。


24.ゴヤ美術館カタログ


 カストルはアルビとトゥールーズの中間の閑静な田舎町。サンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道にもあたる。

 ゴヤ美術館を後にトゥールーズまで一走りだ。

 トゥールーズ美術館も見逃せない。
 明日は休館日だから今日中に観なければならない。あまり時間がない。
 大都会なのでなかなか駐車スペースが見つからない。
 美術館の方向にはクルマは曲がれない。反対側に曲がってみたが川沿いもクルマで溢れている。ロータリーをUターンして一つ中の道へ。随分走ってようやく一台分の駐車スペースを見つける。でもかえって美術館に近い場所まで戻れた。

 どんどん人が入っていくので美術館だと思って入った。
 人を惑わせる迷路の様な現代作品ばかりで、おまけに暗い。観たい近代の作品には行きつかない。本当に館内で迷ってしまった。観覧者は迷路に喜んでいる。大騒ぎだ。
 観覧者に「ここは美術館ですか」と尋ねると「違います」という。「ここは美術大学の学生の実験場です」との答えだった。
 地図を良く見てみると一筋違っていた。急いでトゥールーズ美術館に入った。

 ボナールの良い作品がたくさんある。
 黒っぽい作品、例のパステル調の絵。実に美しくてうっとりするほどだ。でもこの美術館で僕が最も良いと思ったのはブラックのフォーヴの絵。「窓からの眺め」だ。


25.ブラックの「窓からの眺め」

以前にもポンピドーでフォーヴのブラックを観たが、それも良かった。


26.トゥールーズ美術館カタログ

 黒いキュビズムのブラックも素晴らしいがフォーヴのブラックは又素晴らしい。どうしてあんな色が出せるのか、そのセンスに感動してしまう。閉館と共に美術館を出る。


27.トゥールーズ美術館カタログ

 今から宿探しだ。
 ありそうな道を歩いてみたが一軒の四星ホテル以外二つ星程度のホテルは一軒もない。くるっと回ってクルマの所に出てしまった。

 美術館も観てしまったし、大都会に用はない。今日も郊外でホテルを探そうと走り出した。

 カルカッソンヌに行く途中、高速沿いにホテルのマークを見つけた。サーヴィスエリア内のホテルだが高速道路から随分と入り込んだところにそのホテルはあった。
 森の中の静かな佇まいでリゾートホテル並みの設備。
 とてもサーヴィスエリア内とは思えない。レストランは別棟。
 レストランは船のドックの前にあり、これらの設備一帯が、高速道路のサーヴィスエリアと、カナル運河のドックが両方利用できる様になっているのだ。
 レストランではクルマで来た人と船で来た人が同じ場所で食事を楽しむ。
 ガチョウの生ハムサラダの前菜とガチョウ肉のステーキ。デザートにはフロマージ・ブラン。
 喉が渇いていたので良く冷えた地元の白ワイン。でもここではロゼにするべきだった。

 ホテルの前の駐車場は殆どがフランスナンバーのクルマだったが、僕たちのクルマ以外にポルトガルナンバーのクルマがもう一台停まっていた。

2009/10/05(月)晴れ/ Castelnaudary - Celet- Cllioure - Barcelona

 カルカッソンヌは素通り、セレに向う。
 セレにはキュビズムのメッカ的な美術館があるという。
 ピカソやブラック、グリス、マチスなどの作品があるとのことで楽しみにしていた美術館だ。
 町の入り口の広い駐車場にクルマを止めて美術館へ向う。
 町にクルマを乗り入れることはできない。
 町の雰囲気は以前訪れた、ブルターニュのポンタヴァンにどこか似ている。全く違う地方で全く違う光の筈なのに、何か漂う空気が似ている。プラタナス並木の大きさだろうか?

 美術館には小学生の団体が見学に来ていて少々騒がしかった。
 第一室に一歩足を踏み入れて金縛りにあってしまった。僕の好きなスーティンだ。一部屋全部がスーティンの風景画だ。全部で23点。どれもこれも素晴らしい。素晴らしすぎる。果たしてどう表現してよいか言葉を失ってしまった。


28.セレ美術館入り口

 これほど多くのスーティンを一度に観たのは恐らく初めての経験だ。
 スーティンの息遣い、鋭い眼光で観る者を金縛りにしてしまう。実際に観た人でないとあの素晴らしさは判らない、画集などでは判らないのだと思う。何れもここセレの風景だ。
 展示は23点だったが、カタログにはセレの風景ばかり50点が載せられている。
 スーティンはこの地に留まってこんな素晴らしい仕事をしていたのだと思うと僕には鳥肌が立ち寒気さえ覚えてしまっていた。
 キュビズムのメッカと同時にスーティンのメッカだ。


29.セレ美術館カタログ

 美術館を出て更に寒気は続いていた。
 天気が良いのでクルマを出る時に薄着のままで出たが、町の木々が大きく日陰ばかりなので、実際少し肌寒い。
 或いは館内で小学生高学年の女の子が僕の目の前でくしゃみをしたが、それがうつったのだろうか?新型インフルでなかれば良いが…


30.スーティンの複製パネルとセレの街並

 セレの町を歩く。
 スーティンがイーゼルを立てた場所に複製画のパネルが飾られている。
 身体が冷えてきたので、急いでクルマに戻って、港町コリウールまで走り、そこで昼食の予定。
 コリウールはかつてマチスやアンドレ・ドランが滞在して絵を描いたところだ。

31.キュビズムのパネルとスーティンのパネル(右)

 スペイン国境に近い地中海の輝く太陽の下で原色を用いて描いた絵は「まるで野獣(フォーヴ)の様だ」と言われたことからフォーヴィズムという言葉が生れた。
 フォーヴィズムはコリウールが発生の地と言われている。
 ここでも画家がイーゼルを立てた場所に複製パネルが飾られている。
 マチスが滞在して窓からの眺めを描いた住宅の前にも2枚の複製画が飾られていた。


32.マチスが滞在した家


33.マチスがこの家で描いた室内風景のパネル

 海に突き出た鐘楼をアンドレ・ドランが黄色と赤を多様した原色で描いている。そのイーゼルを立てた場所に食堂のテラスがあった。そのテラスで少し遅い昼食を取った。
 僕はそれほど暖かいとも思わなかったが、海に入って泳いでいる人が何人もいる。


34.コリウールのビーチ


35.アンドレ・ドランとマチスのパネル

 マチスもこの同じ鐘楼を同じような色彩、同じような構図で描いている。たぶん一緒にイーゼルを並べて描いたのかも知れない。

 マチスとドランがコリウールに滞在して新しい潮流、フォーヴで競い合っていたその同じ年の1905年から翌年にかけて、マチスはアングルの「黄金世代」という絵をモティーフにフォーヴ的実験作品を制作している。
 その絵はマチスにとって生涯のテーマとなった「ダンス」へと繋がっていく。
 その後にも、アングルの「オダリスク」や「M婦人像」。ヴェラスケスの「マリアとマルタの厨房」などマチスは数多くの先人の作品をテーマとして取りあげている。
 コリウールはアングルが生れたモントーバンのすぐ近くだし、ヴェラスケスのスペインとの国境まで僅かと言う地が何らかの影響を与えたのかも知れない。

 このコリウールで一泊、とも考えていたが、実はセトゥーバルでちょっとした用事があって、一週間で戻ることが出来れば好都合なのだ。
 一応の見学予定も全て完了して、後はひたすら帰るのみ。

 今日もどこまで走れるかが勝負だ。でも当初思っていたよりは楽勝気分。再び高速道路に乗り、バルセロナを目指す。
 しかしセレで引いた風邪が少し悪化した模様。早い目にホテルを確保した方が良さそうだ。ちょっと早いと思ったがバルセロナの外環道沿いのパーキングエリアにホテルがあったので泊ることにした。
 今回の旅で泊ったホテルの中では一番高い料金。
 設備はまあまあだったが、高速の騒音が低周波音として神経に響きMUZは良く眠れなかったらしい。僕は風邪薬を飲みぐっすりと寝た。

 

2009/10/06(火)晴れ/ Barcelona-Valencia-Villarrobledo

 ポルトガル、スペイン、フランス三国の中ではスペインのガソリンが一番安い。フランスでは少ししか入れなかったガソリンを満タンにして出発。

 往きはスペインの中央部を走ったので距離的には短い。帰りは地中海沿いに走っているので距離は長い。
 往路で使った道、つまりサラゴーサまで戻って、マドリッド経由で帰るか、バレンシアまで地中海沿いを走ってそれから内陸に入り、高速道のないルートを取るか、走りながら迷っていた。
 濃い緑色のオレンジ畑が続き、同じ緑色のオレンジがたくさん実っているのが高速道からでも良く見えた。

 バレンシアから内陸に入ってシウダード・レアル経由が近道に思うが、シウダード・レアルまでの道路が整備されていなくて迷うかも知れない。
 でもそのルートに挑戦することにしたが、それが正解だった。クルマもトラックも少なくて本当に走りやすかった。でも一般道だからスピードはだせず距離は稼げない。

 今夜はシウダード・レアル泊りかなと思っていたがそれより100キロほども手前で泊ることになった。
 国道沿いのドライヴインで、部屋は広く、床には桃色大理石を敷き詰めて豪華、バスタブも大きく立派だがあまり客はいないらしく割安であった。
 風邪は未だ良くはならず早めに軽く夕食を済ませて早々に寝る。

 

2009/10/07(水)曇りのち洪水のち晴れ/Villarrobledo -Merida-Badajoz-Elvas - Setubal

 天気は下り坂らしく、出かけるときから霧雨が降り始めていた。
 シウダード・レアルからメリダの間も交通量が少なくまっすぐの道で走りやすかった。
 ブドウ畑の紅葉が美しい。雨こそ降らないが前方には真っ黒な空。そしてバダホスを過ぎたところから、大雨。

 バダホスのガソリンスタンドで古くなっていたワイパーを替えて貰う。替えてすぐにワイパーも利かないほどどしゃ降り。
 国境手前のガソリンスタンドでガソリンを満タンにしたが、スタンドを出るところの道が洪水で大きく水を跳ね上げる。国境までどしゃ降り。以前スペインを旅行した帰りにも同じ場所で全く同じことを経験したが、その辺りが雨が多いと言う事は決してない。どちらかと言うと乾燥地帯だから、単なる偶然だろうが不思議だ。

 以前にはクルマの屋根にこびりついたコウノトリの糞がその雨で綺麗に洗い流されて良かったが。今回も高速を走ってフロントに付いた虫の痕が洗い流された。
 エルヴァスを抜ける頃には明るく晴れ始めていた。セトゥーバルの我が家に戻ったのも未だ明るいうちだった。

 ちょうど一週間の今回のクルマでの旅。メーターを見ると3,385キロを走破したことになる。
VIT

(この文は2009年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- (上) -Montauban-

2018-12-08 | 旅日記

 今年のパリ行きは「クルマで行ってみよう」と考えていた。でも地図を見るとパリは遠い。僕の体力で可能なのだろうかと思ってしまう。

 昔、ストックホルムに住んでいた頃はそれこそピレネーであろうが、アルプスであろうが、東欧、トルコ、モロッコまでもクルマで走っていった。スカンジナビア最北端ノード・カップにも。フォルクスワーゲンのマイクロバスを改造して、クルマに寝泊り、どこに行くにもお構いなしだった。僕たちも若かったのだ。

 今のクルマ、シトロエンを新車で買ってまもなく十年になる。日々の買い物とポルトガル国内旅行が殆どでスペインに入ってもポルトガル国境付近。遠出という遠出ではない。

 今年の車検ではタイヤも四本新しく替えたし、クルマも適度に古くなって絶好のチャンスかも知れない。

 クルマでパリまで行くのだったら、パリからは遠くて行きにくいミディ・トゥールーズあたりを途中見学もできる。スペインからピレネーを越えフランスに入ってすぐのあたりだ。

 その周辺の美術館を検索してみると、モントーバンのアングル美術館で「アングルと現代作家たち」という企画展が行われていて、期間は10月4日(日曜日)までとあった。
 モントーバンのアングル美術館には前々から絶対に行きたいと思っていたのだが、これは又とないチャンス。
 パリにはサロン・ドートンヌの期間中ではなくても前もって作品を預けることもできる。

 半月ほどは迷いに迷った。
 世界中クルマは増えてどこもここも街なかは駐車禁止。それに犯罪に会った話もよく聞く。バスクのテロに巻き込まれる危険も無きにしも非ず。スペインは広い。スペインは広いし、フランスも大きい。パリはフランスの北の端っこだ。途中の宿代、ガソリン代、食事代、おおまかに見積もっても飛行機で行くほうが遥かに安上がりだ。

 同時にイージージェットのパリ行きを検索してみると、これがまた安い。往復二人で188ユーロ。早いし、自分で運転することはない。
 モントーバンは諦めざるを得ない。
 サロン・ドートンヌの時期(11月中旬)に合せてイージージェットの航空券をネットで買ってしまった。

 でも先月のサイト更新を済ませて一気に気持ちが動いたのだ。やはりモントーバンは諦めきれない。パリと切り離して考えることも可能だ。


2009/10/01(木)晴れたり曇ったり/ Setubal - Elvas - Badajos - Madrid - Triueque

 走ってみることにした。今日の出発を逃せばそのチャンスは二度とない。幸い週間予報でトゥールーズあたりの天気はおおむね晴れ。セトゥーバルを朝8時に出発。きょうはどこまで走れるかが勝負だ。エルヴァスから無料の高速に乗り国境の手前で初めて休憩。コーヒーを飲む。ポルトガルとしばしの別れ。国境を通過。

 バダホスを過ぎたドライヴインの駐車場で朝出かけに作ってきたおにぎりで昼食。ドライヴインで食後のコーヒー。
 メリダ、トルヒーヨと町には入らずに外環高速で通過。そこまでは以前にもこのクルマで来た地域だ。やがてトレドの標識。そしてもうすぐマドリッド。

 マドリッドには五重の外環道がありM5に入れば簡単に目的のサラゴーサ方面に入ることが出来る筈。
 ところがM5を逃してしまった。M4は見つからず、M3もうっかり逃してしまう。道と標識は複雑でとにかくクルマが多い。そして最悪のマドリッドの街なかへ。右も左も判らない。でも少し迷っただけで<トゥート・ディレクション>(全ての行き先)の標識を見つけてM3へ。
 少し時間のロスはあったが巧くサラゴーサ方面行きの高速に再び乗ることが出来た。お陰で大都市を走る自信が少し付いた。

 グアダラハラあたりを過ぎたころから今日の宿探し。目的地フランスまでは高速から離れずに高速沿いのホテルに泊るつもり。ホテルの看板を辿ってそこまで行くが「今はやっていない。」というのが三軒。四軒目でようやくホテルにありつく。120キロ以上のスピードを出しきょう一日で750キロを走った計算になる。

 未だ明るかったので村まで歩く。古い石造りのアーケードの広場があり趣のある村。ベンシャーンの絵にある様なコンクリート壁の運動場で少年たちがサッカーに興じていた。それを写真に撮ろうとすると同時に、その中でも年少の少年がけんかを始めた。写真を撮っているのを見て、年長組少年にからかわれて、恥かしそうに照れたのが可笑しかった。


01.トリウエクのマヨール広場


02.少年たちがサッカーに興じていた


 宿は44ユーロというのを40ユーロに値切ったところ「42ユーロならいい」と言うことになった。
 夕食はワイン一本。前菜、主菜、デザートまで付いて一人10ユーロ。安いけれどそれなりの内容。でも地元ワインは旨かった。旨かったけれど一本は呑みきれずに三分の一は残した。

2009/10/02(金)晴れ/ Triueque - Serra Pirenees – Pau


 朝はトラック野郎たちで店は満杯だった。
 部屋は取らずに前の駐車場のトラックの中で一夜を明かした様だ。カウンターに寄りかかって早々から強い酒を引っ掛けている運転手もいる。

 朝食を頼むとカフェ・コン・レーチェと焼いてバターを塗ったクロワッサンを手際よく作ってくれた。それに手作りジャムも添えられていた。
 カウンターの中ではおかみさんが一人で大忙し。常連客が僕たちの席まで朝食を運んでくれた。

 昨日は予定より距離が稼げたので今日中にピレネーを越えることができそうだ。
 サラゴーサは巧くすり抜け、やがて高速道も終り一般国道へ。対面交通になるが道は良い。前方にピレネーの山々が立ちはだかる。


03.前方にピレネーの山々が立ちはだかる


04.ピレネーの山はすぐそこまで


 1972年、ポンコツVWマイクロバスでアンドラをまたいでピレネー越えをしたのを思い出す。ピレネーを越えたスペイン側の登り坂でトラックを追い越そうと、対向車線に入って加速したところ、前のトラックが更に前のトラックの追い越しにかかった。トラックは尻を振って僕のクルマのバックミラーを壊した。バックミラーだけで済んで良かったものの一歩間違えば僕たちは谷底だった。

 きょうはトラックが少ない。このルートはあまりトラックは走らないのかもしれない。
 立ちはだかるあの高い山を越えるのかと覚悟を決めていたが、七キロもある立派なトンネルが出来ていて難なくピレネーを越えることができた。

 紅葉を期待していたが、そのあたりは針葉樹ばかりであまり紅葉はなかった。時々、蔦が紅く色づいている程度だった。
 フランスへの国境を越えると風景は一変していた。緑が豊富なのだ。
 スペインの荒涼とした茶褐色の世界に対して本当にフランスは緑豊かだ。
 フランス側からピレネーを越えると確かに「そこはもうアフリカ」という言葉がうなずける。

 それと同時にフランスに入れば道は狭くなる。
 道のど真ん中で国境警察に停止を命じられる。パスポートの検査だ。
 事務所に持って行って検査をしたのだろう。スタンプを押してくれたのかなと思ったが、新たなスタンプはなかった。
 たまにしか走らないクルマを止めて、暇で暇でしょうがない。といった感じの警官たち。
 「バカンスですか?ビジネスですか?バカンス。いいな~。楽しんで下さいね。」などと言ってくれる。その間、後ろからは一台のクルマも来ない。

 山道なのであまり距離は稼げない。
 ポウの町でホテルの看板を見つけたので聞いてみると「今はやっていない」とのこと。
 もう少し走った町外れの国道沿いに広い駐車場のある平屋のホテルを見つける。立派なレストランも併設されていて、夕食はお勧め定食にした。街からも常連客が食事に来ていた。
 ダイニングの大型モニターに厨房の様子が映し出されていたが、その夜のお客は僕たちを含めて三組五人だけで暇そうであった。


05.鴨の生ハムサラダ


06.子羊のステーキ


07.木の実のクレープ


08.オーヴェルニュ・フロマージと杏ジャム

 

2009/10/03(土)晴れ/Pau - Montauban - Albi

 朝食を済ませひたすら田舎道をモントーバンへ。
 モントーバンの街なかに入り、判らないまま徐行していたが、巧くアングル美術館の真後ろの駐車場にクルマを入れることができた。しかも土曜日なので駐車料金は無料。
 早速ホテルを探すがなかなか見つからない。仕方がないので先にアングル美術館を観ることにする。


09.アングル美術館入り口


10.アングル美術館カタログ


 ここモントーバンのアングル美術館にも、もともとアングルの代表作が数点はある。
 企画はアングルの作品をヒントに或いはモティーフにしてピカソ、ピカビア、マチス、グリス、ラウル・デュフィ、マルセル・デュシャン、ダリ、キリコ、アンドレ・マッソン、ミロ、アンドレ・ロート、フランシス・ベーコン、デイヴィッド・ホックニー、ラウシェンバーグ、などの作家が作品を作っていてそれらがオリジナルのアングルと一緒に並べられている。贅沢な企画だ。


11.モントーバンの「オダリスク」と現代作家の作品


12.アングルの「泉」とその部屋


 アングルの「泉」の部屋には色んな画家の「泉」が。
 「泉」はこの企画の為にパリのオルセーからモントーバンまで運ばれてきていた。
 その他にルーブルの「オダリスク」とは違うモントーバンの「オダリスク」がある。
 勿論モントーバンでしか観る事が出来ないアングルは全て展示されていて満足であったが、何か、もう一つ、すっきりしない企画でもあった。
 アングル自身がこの企画を見たらどう思うだろうか?などと思った。やはりアングルはアングルだけで観たほうが良いような気もする。



13.アングルの作品と奥のマルシャル・レイスの1964年の作品

 午前中に入場した時は空いていた会場も出る時には入場券売り場から表の門まで長い行列が出来ていた。


14.アングル美術館切符売り場は長い行列

 たまたまか?僕たちが観ていた時は空いていて良かった。
 スペインを走りに走ったので予定より一日早い最終日前日に観ることができたわけだ。明日、日曜の最終日にはもっと長い行列が出来るのかも知れない。


 ホテルを探したが手ごろなのが見つからないし、アングル美術館も観てしまったので、少し走って駐車場の心配のいらない昨夜の様な郊外のホテルで泊るのも悪くない。
 ゆっくり走ったが、あいにく次の目的地アルビまでの途中にホテルは見当たらなかった。

 アルビにはホテル・イビスがあるのでそこでも良いと思っていた。
 ホテル・イビスの前の道路にちょうど一台分の駐車スペースがあった。
 ホテル・イビスはあいにく満室だが、ホテル・エタップなら空いているとのこと。イビスとエタップは同列のホテルだが、イビスはちゃんとフロントがあって従業員も居るのに対して、エタップは自動販売機の無人ホテル。そして少し安い。
 フランスにはあちこちにあり、以前から存在は知っていたが無人では不安だし、どのようにして泊るのか判らない。
 でもここでは二軒が併設されているから、イビスの従業員が手続きを全てやってくれた。

 初めて利用したがなかなか機能的で使いやすい。部屋はロフト風の作りになっていて、子供のいる家族連れなら特に便利だろう。路上駐車は土曜日なので明後日朝まで無料。

 街では「EKIDEN」が行われていた。
 ゆっくりカフェに座ってビール。アルビではやたらピッザレストランが目に付いたので、今夜はピッザ。


077. アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記-(下) -Montauban-へつづく。

 

(この文は2009年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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076. アトリエの椅子 -Cadeira-

2018-12-07 | 独言(ひとりごと)

 ゴッホは黄色い家に移ったとき、実に12脚もの椅子を買い揃えた。

 それまで、賄いつきの安宿に投宿していたゴッホは、ラ・マルティーヌ広場に面した黄色い家が貸しに出されていたのを見つけた。長く誰も住んでいなかったとみえて住むまでには多少の手直しが必要だった。家具は何もなかった。なけなしの金をはたいて、或いは弟テオの援助によって、先ずベッド2つと、上等の鏡、それに12脚の椅子を買い入れた。

 ベッドはゴッホ自身が使うものと、やがてやってくるゴーギャンの為にもう一つ。鏡は自画像を描くのに必需品だ。
 しかし、それ程広くもない家に椅子が12脚も…。何故だろうと疑問に思ってしまう。

 古道具屋から「12脚セットだから」と無理やり売りつけられたのだろうか?いや、そうではない。
 ゴッホの絵に残されている「ゴーギャンの椅子」と「ゴッホの椅子」はデザインも素材も何もかも違うのだから、別にセットという訳ではないだろう。
 恐らく、お客がたくさん集まる場所になるのだから…とゴッホは夢みて買い揃えたのかも知れない。

 日本人で椅子にこだわる人は少ないのではないだろうか。絨毯に寝転がったり、フローリングの上にあぐらをかいたり。別に椅子などなくても何とか暮せる。もちろん畳ならまったく必要はない。

 欧米ではそうはいかない。外出から帰ってもそのままの靴で家の中を歩く。日本人が考える以上に椅子は必要な道具なのだ。

 僕はポルトガルに移り住んで20年になるが、アトリエに椅子はない。椅子に座って絵を描くことはしない。
 イーゼルも使わない。キャンバスは空き缶を並べた上に置いて壁に立てかけて、立って或いは床に座って描く。立てかけたり、床に寝かせたり、色んな手法を駆使して描くので、イーゼルを使うより、使い勝手が良い。イーゼルはあるのだが…。

 とにかく、床に座ったり、立ち上がったり、腹ばいになったりと、みっともなくて描いている姿はとてもお見せできるものではないが…。そうやって20年、描いてきた。

 それがこのところ、その方法のせいかどうか、夜寝るときにふくらはぎがこる様になった。年齢のせいかも知れない。
 先日から、試しに椅子を使うようにしている。
 最初はキャンプ用の小さな折りたたみ椅子を使ったが、それでも高すぎるので、チタニューム・ホワイトの5キロ入り空き缶に座ってみた。高さは良いが、お尻がはみ出してしまう。それで小さなダンボール箱に詰め物をして使い始めた。これは縦、横、高さが異なるので、3種類の高さで使える。
 でもあまり安定が良くはないので、描いているあいだの半分以上は無意識だが中腰か何かだ。ダンボール椅子は気が付けば遠くに追いやられていることもある。
 それでもふくらはぎのこりはなくなった様に思う。

 家に椅子がないわけではない。
 台所用の椅子が4脚。ダイニング用が6脚。これは革張りだ。寝室用が1脚。これは寝台の後背と同じ木彫デザインで赤いベッチン張り。それにロッキング・チェアーが1脚。読書にはこれが按配が良い。その他に3人がけのソファー一つと1人掛けソファーが二つ。これも革張り。それだけが引っ越してきた当初からあった。

 それ以上は買う必要はないが、我が家にはそれ以外に背もたれの付いた屋外用折りたたみ椅子を2脚と、ビーチ用の寝椅子なども買った。時たま、ベランダに出してコーヒーを飲んだり、本を読んだり。

 他人が見たら首をかしげるかも知れないが、テレビを観る時はその屋外用折りたたみ椅子をソファーの前に置いて使っている。ソファーに座ってテレビを観ると寝てしまうからだ。

 椅子としては使っていないが、台所の高い戸棚の踏み台用に、露店市で子供用の手作り木製椅子を買った。もう随分昔に買った物だが頑丈で永年愛用している。

 ゴッホの黄色い家ではないが家中椅子だらけの様相。
 椅子といえるかどうか判らないが、ヴィアナ・デ・カステロのロマリオ祭りで場所取り用に、2脚5ユーロで買った折りたたみ椅子もクルマのトランクに入ったままだ。
 たくさんの椅子があるにもかかわらず「帯に短し襷に長し」アトリエでは使えない代物ばかり。

 実はパソコンをするのに台所用の椅子を使っている。古いパソコンMEの時は屋外用折りたたみ椅子。2台を使うときは高さの違う2脚の椅子を移動する。
 5つクルマの付いたパソコン用の椅子を使えばもっと快適だろな~。などと思いながら、電気量販店のカタログを恨めしく眺めている。安いのだ。
 何でも安いからと言ってすぐに買い込むと家は荷物に占拠されてしまう。チラシとカタログは危険だ。

 デザインの優れた、座り心地の良い椅子をたくさん配置できる、広~い家などに住むのは、欧米人にとっては憧れなのかも知れない。僕も広~いアトリエは憧れだ。

 ポルトガルに移り住んだ20年くらい前には家具屋の店頭に素晴らしい家具がたくさん並んでいたのを懐かしく思う。
 それが最近は<IKEA>や家具スーパーなどが流行り始めて、安価で機能的、北欧的だがポルトガルらしさがなくなって、趣のない家具が占めるようになってきている。
 それに連れて露店市の家具も随分様変わりした。

 オルセー美術館には美術品としてたくさんの椅子が展示されている。
 アールヌーボーの時代のものだ。
 それまではバロック風やロココ風の一点ずつ手作りの家具から、ある程度大量生産できる家具がデザインされる様になった。
 アールヌーボーのデザイナーは曲線が持ち味の椅子に腕を発揮した。

 ポンピドーセンターの監視人が座る椅子はジャコメッティの彫刻がそのまま椅子になった様なデザインでさすがだ。

 それやこれや関係のないはなしが続いたが、さて、アトリエの椅子、どうしたものかと考えながら、きょうも絵を描いている。VIT

 

 

(この文は2009年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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075. グルベンキャン美術館のアンリ・ファンタン・ラトゥール展 -Henri Fantin-Latour-

2018-12-06 | 独言(ひとりごと)

 先日、リスボンのグルベンキャン美術館で「アンリ・ファンタン・ラトゥール(1836-1904)」の展覧会を観た。
 以前から常設展で静物画を中心に2~3点は観ていた。その時には、このグルベンキャンで初めて観た画家だと思っていた。

01.グルベンキャン財団、7~8月号のパンフレットの表紙にファンタン・ラトゥールの静物画の一部


 今回はオルセー美術館やフランス各地、それにロンドンやアメリカなどからも集められた代表作60点の見応えのある充実した企画展である。

 最近は保守傾向と言うか、ウェイデン(1399/40-1464)ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール(1593-1652)フェルメール(1632-1675)シャルダン(1699-1779)など古典的だが宗教臭さがあまりないもの。そういった絵が好まれている傾向にある様に思うし、昨年はパリのオルセー美術館でウイリアム・ホガース(1697-1764)の企画展が催されていた。

 その前にはエミル・フリアン(1863-1935)を観た。こういった、印象派前夜の官展派なども見直されている様に思う。

 アンリ・ファンタン・ラトゥールが活躍した時代はテオドール・ルソーのバルビゾン派とドラクロアのロマン派、それにクールベの写実派。それらに続くマネモネブーダンピサなどが印象派を確立し始めていた時代だ。

 印象派の流れがあっても印象派には移行しなかった画家はたくさんいた。と言うより、印象派に移行した画家は少数派だった筈である。その当時、官展派が主流派で印象派はアウトローなのである。

 そして美術の流れはやがて印象派、後期印象派、ナビ派、野獣派、立体派、そして抽象絵画へと進んでいき、いわゆる当時の主流派は美術史から忘れ去られた存在になっていったのだ。
 それがこのところの保守傾向で見直され始めているのではないだろうか。

 ピカソ以降の現代美術の流れには凄まじいものがある。
 デュビュッフェ、ニキ・ド・サンファール、ポロック、ロスコやラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホル更にはイヴ・クラインや日本の具体。
 そして最近の映像芸術や人形、マンガ。
 美術の流れは行き着くところまで行ってしまった感がある。と思っている人も多いのではないだろうか?
 現代美術館などへ行くと、テーマパークの様で楽しめる作品もたくさんあるが、目を背けたくなる作品も少なくない。

 その反動なのか?
 それがかつての忘れ去られた官展派などへと目が向いているのか。などと思ってしまう。

 近代美術史の流れの観点から行くと確かに本流ではない。
 だがかつての官展派を、今、改めて観てみると決して古臭くはないし、技術的には勿論、素晴らしいものがある。むしろ新しく感じてしまう程だ。
 古い伝統的なものを踏襲しているだけではなく、微妙に画家なりの新しさが加わっている。
 しかし当時の流行ではない。美術に流行はいらないと思ってしまう。

 アンリ・ファンタン・ラトゥールはクールベの弟子である。そしてマネとも友人関係にあったらしい。それでも印象派に移行はしなかった。なぜかと思うに、技術的に素晴らしいものを持っていたし、器用な画家だったから、の様な気がする。

 アンリ・ファンタン・ラトゥールには幾つかのジャンルがある。
 肖像画。集合肖像画。自画像。花を中心とした静物画。そして歴史画。
 肖像画にはミレーの深みがある。集合肖像画にはジョーダンの趣が、自画像にはフラゴナールの激しさ。静物画はシャルダンにも劣らない。そして心憎いセンス。歴史画、これはドラクロアには及ばないけれど。そこそこにはこなしている。

 その他、随所にモロードーミエ的な箇所も伺える。
 それに何と言っても写実派のクールベの影響があるのだろう。何しろクールベの弟子なのだから。でも印象派には半歩も足を踏み込まなかった。師匠のクールベは半歩、印象派に足を踏み込んでいる作品が存在するにも拘らず。

 ドラクロアもモローも違う形で後の野獣派に影響を与えている。
 アンリ・ファンタン・ラトゥールにはドラクロアやモローの影響が見られるといっても、そんな新しいところではなく、むしろ古典的な手法のみを取り入れているかの様にみえる。

 この展覧会を観て初めて知ったのだが、今までパリのオルセー美術館で観ていた、印象派前夜、記念碑的集合肖像画「マネのアトリエ」。
 これを描いたのが、アンリ・ファンタン・ラトゥールだったのだ。僕はこの作品は観ていたが作者の名前は知らなかったし、気にもしていなかった。
 グルベンキャンの常設で飾られていた静物画と「マネのアトリエ」が結びつかなかったのだ。今回、その作品だけはグルベンキャンには来ていなかったのだが…

 それには絵筆とパレットを持ってイーゼルの前に座ったマネの他、それを取り巻くルノワール、バージル、モネ、そしてエミル・ゾラなどが描かれている。
 新しい印象派、それを引っ張った人々。その集合肖像画である。でもその絵の手法は決して印象派のものではない。

 アンリ・ファンタン・ラトゥール。又今後、パリでフランスの地方美術館で観る楽しみがひとつ増えた。

 

02.左からオットー・シュルドゥラー(画家)、マネ(画家)、ルノアール(画家)、ザシャリ・アストリュック(文学者、画家、彫刻家)、エミル・ゾラ(文学者)、エドモン・メートル(美術愛好家)、バージル(画家)、モネ(画家)、オルセー美術館所蔵のファンタン・ラトゥールの作品「マネのアトリエ」

VIT

 

(この文は2009年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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074. サクランボの種枕 -Travesseiro-

2018-12-05 | 独言(ひとりごと)

 数年前、何かの情報で「サクランボの種枕」のことを知った。
 それにはヨーロッパでは古くから伝わる安眠枕と書いてあった。
 種の大きさといい、硬さといい、何となくイメージとしても甘酸っぱい香りが醸しだされて安眠出来そうに思える。
 実際にサクランボの種は乾かすと中が空洞になり、保温、保冷に優れていて、お腹が痛いときには電子レンジで暖めてカイロ代わりに、熱が出たなら冷凍庫で冷やして氷枕としても使えるらしい。

 ポルトガルに住んでいるお陰でセレージャ(サクランボ)は安く買えるので、毎年我が家ではけっこうの量を食べる。

 でもセレージャの季節はほんの少しに限られているし、一度に食べ過ぎるとお腹をこわしてしまいそうだ。
 それにセレージャの季節の半分くらいは日本で個展をしている時期と重なっていて…
 それでもポルトガルに戻ってから毎年4~5キロは食べているのだろうと思う。

 しかし枕にするには大量の種が必要、たぶん少なくても10年はかかるだろうから、まあ無理。

 と言いながらも、食べ終わった後、その都度、丁寧に洗って乾燥させ、せっせとアスパラガスの空き瓶に保存しておいた。無理と思いつつも何となく…。それがこれまでに5本にも6本にもなった。

 今年はポルトガルに戻ってくるのが遅かったのだが、セレージャが豊作だったのか、いつまでも安く出回っていて例年にも増してよく食べた。恐らく10キロ以上は食べたかも知れない。

 でも食べた後の種は1キロ分でもようやく僕の手のひらに乗る程度にしかならない。それだけ果肉のほうが大きいのだから文句を言う筋合いではないが…。

 昔、ストックホルムで下宿していたノレエン家の前庭にはサクランボの大木があって、その木の下に落ちた実だけ拾い集めても枕の一個や二個はすぐに出来ただろうに…。

 今年はまだまだ無理だとは思ったが、6本ばかりのアスパラガスの瓶のセレージャの種で枕に仕立ててみることにした。
 見切り発車とでも言おうか。
 使わなくなったストレートジーンズの裾を使った。ぺったんこではあるが一応、枕は出来た。来年からの分も追加できるようにファスナーもつけた。単独ではいまいち厚みが足りないので、今までの普通の枕の上に重ねて置いて使ってみた。しっかりと頭が納まって冷いやりと、なかなか寝心地は良いではないか。

 生成りのコットン地と、縁には露店市で買って余っていたレース飾りもほどこして枕カバーもできた。

 枕は人間にとって大切な物だ。安眠は健康のバロメーター。ぐっすり眠り、目覚めが良いと一日の活力がみなぎる。
 大事な物事を決める場合「枕と相談する」などとも言う。-take counsel of one's pillow-寝ながら一晩じっくり考えるのだ。場合によっては枕に話しかける人も居るかもしれない。

 よく「枕が代ると眠れない」という人がいる。旅行にでもMy枕を持参する人も居るくらいだと聞いた。幸い僕はどんな枕でも安眠できる。仮に枕がなくても平気だ。下手な枕だと頭痛、肩こりの原因になるとも言う。それを防止する様々な枕がテレビ・ショッピングなどで売り出されては消える。

 日本では昔から蕎麦殻の枕が一般的だが僕も日本に帰った時、宮崎ではそれを使っている。適度に固くて、どっしりと重く安定感があるところが好きだ。小豆(あずき)も枕には良いらしいが、何だか勿体ない。その点、セレージャの種はどうせ捨てるもの、廃棄物利用。製作途上のセレージャの枕、当然その蕎麦殻枕とはまた少し違う感触。でも今のところ良い。

 かつて、ゴッホはサン・レミ・ド・プロバンスの精神病院で気を静めるために樟脳入りの枕を使っていた。樟脳は確か楠から摂れる。天然素材に勝るものはない。

 クルマを運転していて楠の並木道などに差しかかるとのんびり走らせたくなる。照葉樹やブナ林などの森に入れば森林浴として、気持ちが落ち着く。ユーカリ林の傍を通っただけで、独特の香りが鼻腔をくすぐり気持ちを爽やかにさせる。
 ユーカリ林にハンモックを架けて本でも読めば、サラマゴの様な難解な内容でもすっきりと頭に入り込みそうに思う。いやその前に、すぐに眠ってしまうかも知れない。

 さて、天然素材セレージャ(さくらんぼ)の種枕、僕の安眠枕となりうるのか。せいぜい楽しい夢でも見ることができれば…。

VIT

01.

02.

03.

 最初の記述に<何かの情報で>と書いたが、それは全日空の機内誌「翼の王国」(2005年7月号・15~25ページに記載されてあった)の特集記事「たねの力」であった。つまり4~5年でひとまず(写真状)は完成したことになる。

 

(この文は2009年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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073. 一礼 -Agradecimento-

2018-12-04 | 独言(ひとりごと)

 今年は2年ぶりに髙島屋の3箇所で巡回個展を催らせていただいた。横浜、岡山そして少し間を於いて大阪。

 2年前と少し様子が変わっていることがあった。それは「礼」である。
 髙島屋の社員が売り場に入る時、そして出る時にも、その場所に向って一礼をする。これは傍から見ていて気持ちが良い。

 よく日本の野球選手がグランドに入る時、帽子を脱いで軽く一礼をする。アメリカの選手にはないことだと思うが、日本人選手の真剣さが伝わってきて気持ちが良い。

 相撲取りが土俵脇に入場してきた時にも一礼をしてから控え場の座布団に座る。
 柔道や空手、弓道など日本の武道は必ずやる。「礼に始まり礼に終わる。」と言われるくらい礼は大切なものだ。
 武道に限らずたいていの日本人スポーツ選手は礼をする。
 マラソンで走ってきたコースに向って礼をする選手もいる。死ぬほど疲れていて倒れこみたいところを先ず礼をする。あれと同じ感じなのだろう。

 誰に向ってではなく。誰に見られているかではなく。自分にとって神聖な仕事場に向って一礼するのである。

 髙島屋の誰が決めたのかは知らないが、髙島屋の社員全員が、決められたからではなく、納得して自らの意思で実行しているのが良く分かる。
 横浜髙島屋では実に徹底していたので、聞いてみると「いついつから始まったのです」との答えだった。岡山髙島屋でもそれは徹底されていた。

 可笑しかったのはいらなくなった段ボール箱などの入った大きな紙屑カゴを抱えて、どこかに捨てに行く時も、持ち場から退出する際に礼をする。自分の胸ほどもある大きな屑入れを持ったままの礼は何となくユーモラスであった。

 大阪ではオープンな会場なのであまり出入りする場面を目撃する機会は少なかった。でも会場の隣に扉があり茶道具売り場の社員が時たま出入りする。
 岡山と同様いらないダンボールを捨てに行く場面があったが、その社員は礼をしなかった。昔からよく知っているベテランの女性社員だ。
 後で冗談半分にそれを指摘すると「そやけど、センセが見てはんのに恥かしやんか~」。
 センセとは僕のことだ。
 社員同士とか一元のお客さんには見られてもどうってこともないが、昔なじみの人に見られるのは照れくさいのだ。いかにも大阪人的だ。

 ポルトガルで神聖な職場に入る時に礼などしない。
 レストランやメルカドでそんな場面をみたことがない。タバコとマッチを手に持ち急いでメルカドの出口に走るが礼などしない。

 ただ、教会に入る時には帽子をとって、十字を切る。

 ポルトガルのサッカー選手がグランドに入る時、芝に手をつけ、それを天に向け、そして唇にあてキスをする。
 「マリア様、イエス様のご加護を」と願うのだ。これも気持ちの良い所作法だ。

 闘牛士も同じことをやる。
 神聖な仕事場と言う以上に、万が一、本当に死ぬかもしれない真剣勝負の場所なのだ。

 さて僕も今日からアトリエに入る時、先ず一礼をしてから入ることにしようかと思う。VIT

 

(この文は2009年7月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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072. アカデミー賞映画作品 -Cinema-

2018-12-03 | 独言(ひとりごと)

 先日アカデミー賞が発表され、「スラムドッグ・ミリオネア」というインドを舞台にしたイギリス映画が獲った。
 タイトルのとおり、ムンバイのスラム街で育った若者がテレビのクイズ番組に挑戦。最後の一問を残しそれまでの全てを解答。スラムで育った無知な少年が何故解答を知りえたのか?と懸賞金を払いたくないスポンサー側は疑念を持ち上げる。なかなか面白そうで是非観てみたい。

 そう言えば僕たちのポルトガル語の先生、マリア・ルイスもポルトガルテレビのクイズ番組に出た。テレビの懸賞金の大きさには驚かされるがこの不況で少しは小さくなるのかも。

 また、外国語映画賞に日本の「おくりびと」。そして短編アニメ賞がやはり日本人の「つみきのいえ」。
 これもフランスの映画賞を獲ったときから是非観てみたいと思っていた作品だ。

 最近はコンピュータ・グラフィックスや特殊効果を駆使した映画が多い中で、今回の受賞作はどれも従来のアナログ的手法が目立つ。
 特に「つみきのいえ」などは作者の加藤久仁生さんがこつこつ1枚ずつ鉛筆で描きあげたものらしい。そんな温かみは映画本来、必要不可欠なもののように感じる。

 アカデミー賞といえば、一昨日の夜、ポルトガルの深夜テレビでジーン・ケリーの「パリのアメリカ人」を演った。
 これは映画史に残るハリウッド・ミュージカルの名画中の名画のひとつ。勿論、以前に複数回観ている映画だ。
 「雨に唄えば」などは複数回と言っても、それこそ場面場面全て覚えているくらい繰り返し演る映画だが、この「パリのアメリカ人」はそれ程でもないし、観るのも全く久しぶりだ。

 ポルトガルのテレビは吹き替えはしない。ポルトガル語の字幕スーパーがでる。ハリウッド映画ならもちろん英語のそのままだ。たまにスウェーデン映画なども映るが懐かしいスウェーデン語のまま。ポルトガル映画はもちろんポルトガル語のままだが字幕スーパーは出ない。日本映画も日本語のままで、ポルトガル語の字幕スーパーが付く。
 狎れとは恐ろしいもので、日本語が耳に届いている筈なのに、必死でポルトガル語の字幕スーパーを目で追っていたりする。

 さて先日観たジーン・ケリーの「パリのアメリカ人」。監督はライザ・ミネリの父、ビンセント・ミネリ。1951年の作品でアカデミー作品賞など7部門を獲得している。何といってもジーン・ケリーとレスリー・キャロンのダンスは見応えがある。

 パリに住むアメリカ人画家ジェリー(ジーン・ケリー)と香水店の店員リサ(レスリー・キャロン)の恋の物語。
 ジェリーが狭い安アパートを出て、町角の壁に張り付ける絵はユトリロのそのままだ。壁に掛けている絵を金持ちでアメリカ婦人のコレクターが見初め、付き合いが始まる。ジェリーはレストランで別の席で食事をしていた女性リサに一目ぼれ。職場の香水店にもジェリーは押しかけ、やがてリサも心動いてゆく。

 アメリカ婦人に誘われて訪れた仮装パーティー。会場はゴッホも描いたあのムーラン・ド・ラ・ギャレット。仮装パーティーには偶然、リサもボーイフレンドと来ていた。その最後のシーン。ベランダで二人で踊る場面。

 二人でと言っても、実はリサ(レスリー・キャロン)はボーイフレンドと先に帰ってしまう。
 クルマに乗り込んで帰ってしまうリサをジェリーはベランダから見送りながら、その場に落ちていた紙に鉛筆で落書きをする。
 その落書きがラウル・デュフィの「チュイルリー公園の門」の絵なのだ。
 その絵がカラーになり、舞台装置になり、二人のダンスが始まる。勿論、ジェリー(ジーン・ケリー)が夢想しているのだ。ジョージ・ガーシュインの名曲にのせて、まさにハリウッド・ミュージカル黄金時代のダンスだ。
 やがてデュフィの絵からアンリ・ルソーの「アンデパンダン展に画家たちを導く自由の女神」の絵に代る。
 そしてトゥールーズ・ロートレックの「ムーラン・ルージュ」。舞台装置が替わりながら見応えのあるダンスが続くこの映画のハイライト。

 ジーン・ケリーもさることながらレスリー・キャロンが最も輝いた場面だ。
 最後に破り裂いた自分の落書き(デュフィのスケッチ)に戻って夢想から醒める。醒めたところにリサが戻って来てハッピー・エンド。

 このダンスシーンの舞台装置。以前にはそんな絵が使われていたとは僕は気が付いていなかった。
 何の気なしに観ている映画も再度観ると新たな発見がある。映画とはホント面白いものである。

 レスリー・キャロンは実はフランス人でパリでバレーをしている姿を見たジーン・ケリーにスカウトされ、アメリカに移り住んだ女優だ。そしてこの「パリのアメリカ人」がデビュー作。
 その後、やはりビンセント・ミネリ監督の「リリー」でアカデミー主演女優賞にノミネートされている。
 一方、ビンセント・ミネリ監督は1958年、レスリー・キャロン主演の「恋の手ほどき」でアカデミー作品賞と監督賞を獲得している。

 夜のテレビ「パリのアメリカ人」はなんとか眠らないで最後まで楽しむことができたが、その後深夜、続けて「風と共に去りぬ」が始まった。
 僕は絶対無理だと思ったので寝てしまったが、「パリのアメリカ人」の時はすっかり眠っていたMUZがむっくと目を覚まし、なんと「風と共に去りぬ」を最後まで観たらしい。終わったのは朝方の4時半。いやはやお疲れ様でした。

 ちなみにこの「風と共に去りぬ」は1939年アカデミー作品賞他、監督賞(ヴィクター・フレミング)、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)など9部門に輝いている。
VIT

 さて、この3月14日から日本に一時帰国します。ポルトガルに戻ってくるのは6月中旬になりますので、このコーナーはしばらくお休みです。次回はたぶん7月1日になります。
 個展のための帰国です。お近くにお起しの際は是非お立ち寄り下さい。
 また、横浜、岡山、大阪高島屋以外では個展はありませんが宮崎にも滞在しますし、どこか旅行にも出かけるかも知れません。町角を歩いているのを、或いは走っているのを、又或いは自転車を漕いでいる姿を見かけたら、お声をかけてください。VITこと武本比登志

(この文は2009年3月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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071. バードストライク -Acertar Aves-

2018-12-02 | 独言(ひとりごと)

 先日のUSエアウェイズがハドソン河に不時着水したニュースには釘付けになった。我々にとっては他人事とは思えない。毎年、かなりの回数飛行機を利用するからだ。

 氷点下8度にもなる寒さの中、乗客、乗員合わせて155人全員が無事救出されたのはまさに奇跡。ニューヨーク知事が「ハドソン河の奇跡」と讃えたのにもうなずける。機長の英断と高い操縦技術、それに一般フェリー会社などの迅速な救助。

 事故の発端はエンジンが鳥を吸い込んだ為による。片方なら片肺飛行で飛行場に引き返すことが可能らしいが、この事故の場合、両方のエンジンに鳥が吸い込まれエンジンが停止したとのこと。鳥は群れで飛ぶことが多いので、そういったことはありうるのだろう。

 鳥の種類は未だ明らかにされていないが、恐らくカモメなどの水鳥との見方が多い。
 元々、飛行場は水鳥が生息する、干潟などを埋め立てて作ったところも多く、いわば水鳥のテリトリーに飛行場が進出したのだ。或いは内陸部に飛行場がある場合でも比較的早い段階で海上に出て飛行ルートを取ることが多い。

 飛行機が鳥に衝突したり吸い込んだりすることを、この程初めて耳にしたが、バードストライクと言うらしい。
 ストライクと言うより鳥にしてみればむしろデッドボールではないのか?
 そのバードストライクがアメリカで1990年から2003年までの間に51,000件も起きている。ポルトガルでは2008年1年間で126件。日本は2007年1年間だけで1320件と多い。

 干潟だけではなく、大空は元々鳥のテリトリーだ。そこに人類が進出したのだ。
地球は人類だけの星ではない。
 地球上に現在人類は70億。鳥は恐らくそれを遥かにしのぐ。鳥類は約1万種いると言われている。それが毎年1,1パーセントずつ減少している。3日に1種ずつ希少種が姿を消している勘定だ。

 鳥の希少種の減少。これは人類の身勝手によるところも大いにある。
 農薬や化学肥料による昆虫など餌の減少は勿論のこと、例えばあの可愛らしいツノメドリ。ツノメドリの生息地、カナダ沖などで獲れる子持ちシシャモを好んで食べるのは日本人だ。僕も大好物だが、子持ちでないと売り物にならないらしい。漁船は網ですくって子持ちでないオスはすぐ海に捨てる。それを目がけてカモメが安直に餌にありつく。カモメは増える。増えたカモメはツノメドリの卵も狙う。希少種のツノメドリの数は減少する。

 昔、南米を旅行中に「インコを買わないか?」と声をかけられたことがある。
 男の肩には鮮やかな色彩のインコが乗っていた。
 インドネシアでは鳥市を見学に行ったことがあるが、珍しい鳥がたくさんいたので、熱心に見ていると、「こっちにもっと珍しいのがいるよ」と少年から声をかけられた。少年が鳥かごの覆いを外すと希少種のサイチョウがいて驚いたことがある。
 両方とも勿論、ワシントン条約に違反する行為だろう。

 昔、ニューヨークに住んでいる時、「街に増えすぎた鳩は汚らしくて病原菌を運ぶドブネズミと同じだ」と言った人がいる。
 マンハッタンは鳩の天国だ。その豊富な鳩を餌にハヤブサなどの猛禽類が住み着いている。ハヤブサにしてみればマンハッタンの摩天楼は断崖絶壁の岩場同様なのだ。

 我が家の周りでも鳩に毎日餌をやる人がいる。
 鳩が増える。そうすると元々居た、或いは毎年渡って来ていた野鳥のテリトリーを脅かし、野鳥は減少する。
 以前はセトゥーバルの中心ボカージュ広場のキオスクで鳩の餌を売っていたが、最近は売られていない。
 鳩は人に狎れ、キオスクの売り手の目を盗んで売り物の餌の袋を突っつく。増えすぎると手がつけられない。
 それに鳩が増えすぎると自然の生態系を崩す。と理解が深まったためだろうか。
 という僕自身も以前、ストックホルムでは船着場まで行ってカモメに餌をやったり、セトゥーバルのルイサ・トディ大通り公園の鳩にパンくずをやったりもした。

 以前、宮崎では山の中に住んでいたので、いろんな野鳥を楽しむことができた。
 庭の鯉の池にはその稚魚を狙ってゴイサギだけでなく、カワセミなども姿を見せていたし、壊れた雨どいにはシジュウカラが巣を作って子育てをしていた。
 庭で椿の移植をしていると、堀りあげた土にルリビタキが乗っかって首をかしげ不思議そうな目でこちらを見ていたこともある。
 ピヨロロ~と鳴き声と共に真っ赤なアカショウビンが庭の上空を横切る。キビタキ、ジョウビタキ、数種類のセキレイそれに冬には野雁など、野鳥は本当に可愛いものだ。

 人というものを見たことがなくて怖がらない鳥は可愛いが、人の存在を知っていて怖がらない団体の鳥は恐ろしくて厄介だ。
 カラス、鳩、カモメなどがそれだ。
 オーストラリアでは何百羽もの群れになったインコがトウモロコシ畑やピーナッツ畑を襲う。

 ポルトガルでは、最近はフラミンゴの観察に行ったり、コウノトリを見たり、メルロや黄色い斑の野鳥の歌声などは我が家に居ながらにして楽しむことができる。

 今も我が家の前の広間の空間を5羽のカモメが飛び交い、電線には19羽もの鳩が1列に並び、筋向いのおばさんがパンくずを放り投げるのを待っている。
 メルカドの上空あたりには100羽ほどの鳩の群れが旋回している。

 我が家の東南側は松林になっていて、昨年は数十本の松の木が伐られたがまだ5本の大木が残っている。
 その松林は毎年、野鳥の繁殖地になって、たくさんの新しい生命が巣立っていく。
 松林の中では今もシラコバトやメルロなどの野鳥がたぶんカモメなどの大型鳥を恐れてひっそりとしているのだろう。



我が家の前の松林に住み着いている白子鳩(ベランダから撮影)

 幸いセトゥーバルにはカラスは居ない。郊外には少しは居ても群れになることはない。

 冬場の今の時期、アレンテージョでは狩猟期だ。
 メルカドの鶏肉屋の店先に毛皮が付いたままの野ウサギと共に、美しい羽根、羽毛のキジなどの野鳥も売られている。

 何でも過剰な保護をすると生態系を壊す。可愛がったり食べたり、難しいところだ。
 干潟近くの飛行場では野鳥を追い払う為に空砲を撃つのにかなりの人手と経費を使うと言う。
 それでも年間1,320件ものバードストライクが日本国内だけで起こっている。
 これだけバードストライクが多いのであれば大惨事が起る前にその対策は急がれてしかるべきだ。

 ジープがヘッドライトの前に付けている金網のプロテクターの様なものを、航空機のエンジンの前に取り付けるというアイデアはどうだろう。鳥を吸い込むのではなく、跳ね飛ばすということになるだろう。何れにしろ鳥には気の毒な話には違いないのだが…。

 寒さに弱い僕などは氷点下8度のハドソン河に不時着水したエアバスの、テレビ画像を見ただけで全身が凍りついてしまった。
VIT

 オバマ大統領の就任式に当のチェスリー・B・サレンバーガー三世機長が招待されたことはニュースでも伝えられた。

 その後のインターネットでのニュース [iza] にこんな見出しの記事が

<鳥に復讐!奇跡の機長「チキン」ガブリ!>

 =就任式の前日、ワシントンのレストランで一緒に乗り合わせていた一部の乗客や乗務員と食事を共にしたらしい。
 居合わせた他の客たちはサレンバーガー機長に握手を求めたりしたが、サレンバーガー機長は目の仇の如く料理された鳥にかぶりついていたとのこと。
 そのレストランの名前が<ハドソン>・・・「ほんまかいな!」=

 とコメントも付けられていた。

(この文は2009年2月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)

 

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159.  突然のジオシティーズ閉鎖という通達。

2018-12-01 | 独言(ひとりごと)

 

 いや、突然と言うこともない。半年間の猶予期間はある。

 それは2018年10月1日12:53のメールである。『Yahoo!ジオシティーズ サービス終了のご案内』というもので、2019年3月末日でジオシティーズが終了し、我が家で作っているホームページが見られなくなるのである。

 でも主要なところは既にブログに移っていて、ホームページには表紙、サムネイル画像目次、古い記事などが残されているだけで、それらをブログに移す作業に取り掛かっているところだ。

 大体が自分ではアナログ人間であると思っている。元来が機械に弱く、故障などは直すよりも壊してしまうのが落ちである。だから最初から触らない。

 触らないに越したことはない。パソコンも機械である。

 パソコンをようやく始めたのはポルトガルに来て10年経った頃であったと思う。

 ポルトガルに来る前でも友人の中にはパソコンなどをやっている人は複数いた。でも絵を描く仲間には居なかった。絵を描く人間は元々アナログ人間が多い様な気もする。グラフィックデザイナーの友人も多い。グラフィックデザイナーにとってパソコンは必需品であった筈なのだが、それでもパソコンを触ろうとしなかった友人も居た。

 ポルトガルに来てからも暫くはパソコンなどのことは考えも及ばなかった。

 宮崎に住んでいた頃から毎月、紙のプリントでミニコミ新聞の様なもの『山あいVOICE』というのを作っていた。手書きした紙をコピー屋さんに持って行って100枚ほどコピーしてもらうものであった。それは朝日新聞地方版でも紹介されたこともある。

 その続きでポルトガルに来てからも『ポルトガルのえんとつ』という名前で手書きしてコピーのプリントを作り始めた。友人知人に手紙の返事替わりに、生活の報告代わりに郵送していた。そのプリントが10年は続いたのだったと思う。

 10年くらい経った頃に知り合った隣町に住んでおられた日本人で絵を描かれる10歳ほど先輩の方からパソコンを勧められたのがきっかけだった。「面白いわよ、始めなさいよ」と、女性である。

 一気にパソコンでは自信がなかったので、先ずはワープロから始めた。ワープロも当時としては便利な機械に感じられた。いや、コピーでさえも便利な物だった。

 昔は鉄筆で方眼の蝋紙に書き、謄写版で印刷をしたものである。それも手書き文字である。自分の文章が活字になるなどとは夢にも考えられない時代であったのだ。

 パソコンを始めたのはポルトガルに来て10年目、2000年だったと思う。ノートパソコン『ウインドウズME』を一時帰国した日本で買って持ってきた。個展のための一時帰国で、僕は毎日、展覧会場に詰めなければならなかったが、その個展の期間中にMUZが宮崎市で1週間のパソコン教室に通った。

 ポルトガルに持って帰って、苦労の末インターネットに繋ぐことが出来た。僕はMUZが使うのを後ろから眺めていた。

 次の年の一時帰国で『ホームページビルダー』のソフトを買って来た。何も判らないまま、試行錯誤の末ホームページを立ち上げた。YAHOOジオシティーズに作った。そうしてそれまでは紙のプリントで作っていたミニコミ誌をホームページ上に掲載したのは更に1年後の2002年6月22日であった。最初の文章は2002年7月1日となっている。毎月1回1日掲載で帰国時以外にはずっと続けてきた。それは2012年9月までとなっているからホームページ上での掲載は10年間ということになる。

 この程、連番を打ってみて判ったことだが、ホームページ上に100もの文章を書いたことになる。その後、2012年10月号からはgooブログに移った。ホームページは重さなどの制限があるので、制限のないブログの方が良いのかな、と思ったまでである。写真は大きなサイズを掲載することが出来た。そしてサイトよりブログに移ってからの方が遥かにアクセスは多い。

 ブログに移ってからも6年が過ぎた、そして6年間に58の文章を書いた。合計、実に158個の文章である。その中には1万字を超える長文なども含まれている。旅日記などは挿入写真も多い。我ながらよく書いてきたものだと思う。

 サイトからブログに転載するにあたって、形式が違うのでそのままコピーとはならない。ひととおりは読んでゆく必要がある。これには膨大な時間がかかる。旅日記などはその当時が思い出されてしみじみ良かったな。などと感慨に耽りながら読み進むことになる。

 そう言った意味ではちょうどよい機会を与えられたものだな、などと思う。

 勿論、文章以外にも油彩のページ、画歴のページ、展覧会(個展)のスナップ写真のページなど取り留めもなく広がっている。

 MUZは別にホームページを立ち上げ同じだけのエッセイのページ、それ以外に『ポルトガルの野の花』『コレクション』『セトゥーバル探検』『ポルトガルのキノコ』『ポルトガルの鉄道駅』と膨大に広がっている。

 例えば『ポルトガルの野の花』だけを取ってみても800ページを超えていて1ページに10枚ずつの写真を挿入しているので、単純に計算しても8000枚の写真が掲載されている。

 Yahoo!ジオシティーズに作ったサイトは

2002年6月22日『武本比登志ポルトガルの仕ゴト場』

2003年12月18日『武本睦子ポルトガルのえんとつ』

2004年1月08日『NACK』

2004年8月1日『武本比登志ポルトガルの画帖』

2010年8月15日『ポルトガルの野の花』これは『ポルトガルのえんとつ』の中に作っていたものを独立させたサイトであった。

 この間、膨大なページを作ってきたことになる。

 そして順次ブログに移って行って、野の花などは既に100%ブログに移っている。

 ブログは掲載したのがどんどん奥へ奥へ仕舞われて行って再び見ることが難しくなってくる。それでサムネイル目次のページをホームページに残し、そこからリンクで繋ぐようにしていた。そのサムネイル目次がなくなるのは惜しい。

 そのサムネイル目次をブログに作られないものかと試行錯誤を重ねている。元々、ブログには自然に目次なるものが備わっている。だから必要はないのかも知れないが、自分自身の便宜上ということもある。

 取り敢えずは『エッセイ』の目次。これは文字だけなので簡単であるが、サイトに掲載した100もの文章を移動するのはやはり大変な作業である。毎日ひとつを転載するとしても3か月以上がかかってしまう。

 来年の帰国は2月19日だからぎりぎりだ。戻って来るのは5月15日。その時にはジオシティーズは終わってしまっていて、サイトは見られない。

 それまでには『ポルトガルの野の花』のサムネイル目次は作ってしまいたいと思っている。約800ページ分のサムネイル目次である。

 パソコンも今、主として使っている『ウインドウズ10』で4台目である。それにスマホが加わる。最初の『ウインドウズME』も写真の補正などで毎日の様に未だに使っている。

 インターネットも時代とともに変化をみせている。企業ではなく、個人でのホームページの時代は終わったのかも知れない。ブログよりも既にフェイスブックなどを利用している人の方が多いのだろうか?ブログの時代がいつまで続くのか判らないが、僕にとっては今のやり方が気に入っている。

 数年前からブログに1日1景『ポルトガル淡彩スケッチ』を始めて2018年11月30日現在、1640景。下手くそながら楽しんでいる。そしてこの文章が159話目ということになる。VIT

 

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