長篠の戦いで有名な設楽原は今は「かつて湿地帯であった」説が当たり前になっている。
しかし、わたしにはどうしてもそうは思えない。
まあ、しろうとの根拠のない考えだけども、作家の新田次郎氏も現地を取材し
当時長篠戦の資料を編纂していた長篠城史跡保存館の館長丸山氏の説明もうけている。
「採草地」
ではなかったのかと、私も思う。
その理由は、第一に湿地ならば”沼”とか”湿原”に関係する言葉が地名に残っている筈で
”設楽原”とはいわないのではないか。
自分の地元でも明治まで広大な原っぱが広がっていた地域は
(処刑場があったということは別として)今でも住所とは別に○○原とか○○原台地とか
地図に載っている。明治から大平洋戦争が終わるまで陸軍の演習場となっていた。
第二に、丸山館長が調査を始めた頃はまだ当時の面影や地形が残っていたと思うから。
現実に写真などを見ると明治の初めまでは日本全国の田舎の風景や地形、風俗などは
ほとんど江戸時代から変わっていないと思われる。
風景が極端に変わり始めたのは明治の終わり頃と
戦後ではないかと思っている。(あくまでも思い込み)
「地質調査の結果」と言われるかもしれないが
やはり採草地としか思えない。
また地元に伝わる口伝も侮れないものがあり、意外と知られていないこともある。
勝頼の本陣が誰の軍に攻められたかなんて、どの歴史書にも載ってない。
でも、勝頼の前備えをしていた武将が落ち延びて行くときに通っていった土地の古老から
私は直接聞いている。そういう土地の方々はつい最近まで落武者たちの墓を古の街道筋に点々とあることを知っていたし、供養していたし、その時代(戦国時代)の街道を生活の道にもしていた。
この40年ほどでそれらも草や木に覆われ、すっかりわからなくなってしまったけれども
それまでの人たちには昔々からの言い伝えが生々しく生きていたと思う。
だから「採草地」であったと思っている。
興味のない方にはどーでもいいお話でした。
しかし、わたしにはどうしてもそうは思えない。
まあ、しろうとの根拠のない考えだけども、作家の新田次郎氏も現地を取材し
当時長篠戦の資料を編纂していた長篠城史跡保存館の館長丸山氏の説明もうけている。
「採草地」
ではなかったのかと、私も思う。
その理由は、第一に湿地ならば”沼”とか”湿原”に関係する言葉が地名に残っている筈で
”設楽原”とはいわないのではないか。
自分の地元でも明治まで広大な原っぱが広がっていた地域は
(処刑場があったということは別として)今でも住所とは別に○○原とか○○原台地とか
地図に載っている。明治から大平洋戦争が終わるまで陸軍の演習場となっていた。
第二に、丸山館長が調査を始めた頃はまだ当時の面影や地形が残っていたと思うから。
現実に写真などを見ると明治の初めまでは日本全国の田舎の風景や地形、風俗などは
ほとんど江戸時代から変わっていないと思われる。
風景が極端に変わり始めたのは明治の終わり頃と
戦後ではないかと思っている。(あくまでも思い込み)
「地質調査の結果」と言われるかもしれないが
やはり採草地としか思えない。
また地元に伝わる口伝も侮れないものがあり、意外と知られていないこともある。
勝頼の本陣が誰の軍に攻められたかなんて、どの歴史書にも載ってない。
でも、勝頼の前備えをしていた武将が落ち延びて行くときに通っていった土地の古老から
私は直接聞いている。そういう土地の方々はつい最近まで落武者たちの墓を古の街道筋に点々とあることを知っていたし、供養していたし、その時代(戦国時代)の街道を生活の道にもしていた。
この40年ほどでそれらも草や木に覆われ、すっかりわからなくなってしまったけれども
それまでの人たちには昔々からの言い伝えが生々しく生きていたと思う。
だから「採草地」であったと思っている。
興味のない方にはどーでもいいお話でした。
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