史蹟めぐり 目蓮隠棲の地・身延の周辺
法華経宣布の根本道場身延山久遠寺を中心に
中世河内領の豪族穴山氏の遺跡を訪ねて
富士川の盛衰
甲府市を中に挾んで、東と西から甲府盆地に流れ込んだ笛吹川と釜無川は、盆地の南端鰍沢付近で合流し、以下富士川と名称を変えて南下する。
流れは赤石山脈と天子山脈との間に狭い谷を作り、縫うように走りながら、やがて岩淵(静岡県)付近で駿河湾へ注ぎ込む。
慶長十二年(一六〇七)京都の豪商角倉了以が、幕命を受けて、この川の開削工事を興し、鰍沢から岩淵の七十二頃キロの水路を開いた話は、つとに有名である。
山国の甲斐にとって、この富士川の水運が開けことは画期的なことで、これにより舟は急流を上下し、人の交通はもとより物資の移入・移出路として、沿岸の各地におおいに賑わったものだが、今ではこの水運も時代の流れに押されて、すっかり寂れ果ててしまった。
たとえば、鰍沢をはじめ青柳(増穂町)、黒沢(市川大門町)など、かつてこの川によって隆盛を訪った町々の、落魂した現在の姿がそうである。これらの町は河岸(河港)として栄え、江戸ヘの午貢米輸送の基地として大いに羽振りをきかしたものである。
特に鰍沢ここに、甲府陣屋支配下の諸村の年貢米のほか遠く信州諏訪領、松本領の米まで集まり、文化年間(一八〇一~一七)には番船一〇八隻を数えたといわれている。これら三河岸から積み出された年貢米は岩淵・蒲原・清水港を巡絡して、江戸浅草の蔵前へ回漕されたものだという。今、鰍澤の町を歩くと、その昔は仕出屋や各地の出先商店でさぞ活況を呈しただろうと思われる辻々も、その面影はとうになく、所々に土蔵造り問屋の廃屋が、むなしく残骸をさらしているだけである。
【筆註】現在は富士川町で「富士川水運史料館」が出来て、当時の様子を詳しく展示されている。
また、富士川の両岸は、その清流を利用して製紙業が賑わい、特に中心地だった市川大門町などに、江府の用をたして肌吉(はだよし)、奉書、糊入、檀紙などの御用紙を漉いたものだが、ここにもかっての隆盛の跡はなく、河岸と同じように、富士川の盛衰にその運命をゆだねている。いずれにしろ富士川の水運は、中央線の開通および甲府と富士とを結ぶ身延線の開通によって、大きく需要度を失い、往時の姿をかき消してしまったわけである。ただ、「信玄の隠し湯」(史実ではない)で知られる下部温泉だけが、時代を越えて今も湯治客で賑わっているのが、せめてもの慰めといえばいえよう。
【筆註】最近では高速道路の通過が一層過疎化を進めている。
しかし、こうした寂れゆく沿岸都邑を尻目に、ひとり歴史の威光を放っているのが、宗教の町・身延である。信者約二〇〇万、大本山四、本山三九、末寺三七〇〇を支配する日蓮宗総本山の身延山久遠寺をひかえているからである。
毎年全国から数十万人もの参詣人が杖を引き、身延線はあたかもそのための足の用を担っているようなものだ。
特に身延山の三大法会である「釈尊降誕会」(五月八日)、「宗祖御人山開闢会」(六月十三目より六日間)および「宗祖会式」(十月十一目から四日間)の時などは、身延の町はドット信者で膨れ上がれり、そのために、むしろ観光地といった感さえ呈する。これなどは富士川水運の衰微とに、いかにも対昭的か身延の隆盛ぶりであろう。
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