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第二次世界大戦終了時 中国人・朝鮮人の「暴動」と「強制連行」

2023年09月01日 22時45分23秒 | 歴史探訪

第二次世界大戦終了時 中国人・朝鮮人の「暴動」と「強制連行」

『昭和の歴史』8 89㌻~90・91㌻

占領と民主主義 神田文人氏著 小学館 一部加筆

(終戦を迎え)、政治家は戦後いち早く行動を開始したが、一般国民の動きはにぶかった。それと対照的なのが中国人・朝鮮人の行動であった。日本の敗北は、彼らにとっての「解放」であったから、戦時中の日本・日本人による支配からの解放を求めてたち上がった。経営者も警察も、自信と進路を見失っていたときであり、その行動は効果的であった。敗戦当時、北海道には朝鮮人37,171人(全国の41%)中国人 3,079人(同30%)がおり、炭坑・鉱山・土建・港湾部門等で強制使役されていた。敗戦後彼らは、ただちに、戦時中の日本の労務管理の責任追及を開始した。
それらの戦後「暴動」事件について、桑原真人『近代北民主主義運動の開幕北海道史研究序説』が、『北海道警察史』を基礎に、その後の発掘によって補充し、45年8月15日から11月28日までの間の31件を収録している。彼らの要求は、労務管理への不満・待遇改善・送還問題等が多い。
 そのうち、9月19日から10月中旬にかけての、三井美唄・三菱美唄と三菱大夕張炭鉱の場合は、白人俘虜のイュシアチブによる中国人寮解放にはじまった。解放された三菱美唄の中国人が三井美唄を訪問したのがきっかけで、三井美唄の中国人の態度が変わり、衣服支給を要求、寮や現場の係官を襲撃した。さらに、9月24日には、両美唄から134人が大夕張に出向き、戦時中同様の待遇に激怒し、「食糧増配、衣料支給、自由外出」などを要求した。翌25日夜には、中国人約400人と警官隊の大衝突がおこり、警官一名が死亡のほか多数の重傷者も出た。このため、翌日から、「中国人にたいして白米8合の他に肉・魚などが毎日支給」されることになった。いきおいづいた大夕張の中国人は、30日、角田に出向いた。角田の中国人は賃金交渉をけじめ、会社側の一日5円案にたいして、本国から強制連行のさいの条件、一日90円を主張し、労務課長を殴打・監禁する事態にいたった。結局10月10日、占領軍の斡旋により、石山以後一か年分2500円(貸し付物品代50円をふくむ)で解決した。真谷地・大夕張・三井美唄などでも、これに準じた金額が支払われることになった。中国人の動向は朝鮮人にも波及した。7000人ちかく朝鮮人のいる夕張炭鉱では、10月5日、朝鮮人労働組合を結成し、8、9日、ストライキを決行した。占領軍は再三にわたって布告を発し、鎮静化をはかった。結局、帰国促進・食糧改善等を一括する300万円の要求にたいして、5万円で妥結したが、以後彼らの稼働率は、10月には36%、11月には19,6%と激減した。

 中国人・朝鮮人の帰国要求にたいして、10月4日、函館に上陸した米軍司令官ブルース少将は、11
月1日、「北海道の炭鉱にある華人、朝鮮人に対する布告」を出した。中国人・朝鮮人の帰国はすみやかにみとめられるべきであるが、いまは船がない、帰国までの間、米軍のため石炭増産のために働くことを要望する、というものであった。こうしたなかで、「暴動」はほぼ11月いっぱい継続する。

  労働組合の結成
 これらの「暴動」が、日本人労働者の労働組合結成を刺激した。
10月6日には、三井労働組合の芦別従業員組合が230名で組織され、10月19日には平和炭鉱、さらに同月中に明治上芦別・新夕張・豊里・空知・歌志内、11月3・4日、三井美唄・三菱美唄にそれぞれ組合が結成され、同年末までに、北海道の炭鉱労働者の58%を組織した。彼らは、解放の意気に燃えていた。平和炭鉱労働組合の結成宣言はいう。
  
我等の邁進する処解放の鐘は鳴りひびき自由の讃歌は湧き起らん。
我等を緊縛せる軍国主義、官僚主義、資本主義の暗黒支配の鉄鎖は断ち切られて、
強権の支配は転覆せん。
  征かん哉、断々乎として征かん哉。
 
北海道各地の労働組合を結集するため、11月11日、北海道鉱山労働組合連合会が結成された。
 (以下略)


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