わがうちなる漱石
森本哲郎著
夏目漱石は近代の日本を代表する作家とされているが、まことにそのとおりだと思う。「近代」をとって、日本を代表する作家だといってもいいかもしれない。
しかし、私がそう思うのは、それほど漱石は偉大な作家なのだ、ということではなく、それほど彼は日本的な作家なのだ、という意味においてである。漱石があの難解で哲学的な文体にかかわらず、いまなお大衆作家なみの読者を持っている秘密はそこにある。
ドン・キホーテは「奇想おどろくべきラ・マンチャの郷士」だが、作家セルバンテスは、たんにそのようなスペインの郷士(イダルゴ)を描いたのではない。ドン・キホーテを描くことによって人間を描いたのである。そして、人間を描きあげた作家こそが偉大な作家たというなら、漱石はけっして偉大な作家ではない。彼が描いたのは人間そのものではなく、あくまで日本人そのものだった。だから、漱石は、かくも高い日本での名声にかかわらず、世界でほとんど知られることがなかった。
それはなにも漱石にかぎったことではない、日本の作家のほとんどが世界に知られることがないのは、なによりも日本語という言葉の制約のためだ、というかもしれない。たしかにそれはあろう。しかし、かりに言葉の制約がなかったとしても、別言すれば、漱石の小説が片っぱしから自在に外国語に翻訳されたとしても、漱石の文学はけっして高い評価を受けないであろうことはたしかである。
高い評価を受ける、受けないというより以前に、彼はまず理解され得ないであろうと私は思うのだ。
たとえば『草枕』である。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ
という冒頭の文章は、日本では中学生でも日本人のだれもがあたかも″真理″のごとく受けとっているフレーズだが、これをどのように巧みに外国語に翻訳してみても、いや、うまく翻訳すればするほど、外国人にとっては理解不可能の文章となるにちがいない。
なぜなら、たいていの外国人たちは、智に働かないからこそ角が立つ、と思っているからである。十人の人間が寄れば十の考え方がある、というのが欧米人の前提である。だから、そうした人間の集まりである社会を、なんとか角を立てずに運営してゆくためには、おたがいの理解をとりつけること、すなわち論理で説得し、知的に処理する以外にない、と彼らは考えている。
ところが、日本のこの作家は、知的にものごとを処理すると、遂に角が立つという。これは、いったいどういうことなのであろう、と思わずくびをひねるにちがいないのである。
同様に、十人の人間が寄れば、十の感情があると欧米人は、いや、欧米人にかぎらず多くの異邦人は、そう思う。だから彼らにとっては、相手の感情に共感し、同情することはあっても、それといっしょに流されてしまうなどということは、とうてい考えられない語である。
さらに、第三のフレーズ、意地を通せば窮屈だ、に至っては、まるでキツネにつままれたような気がするに相違ない。「意地」という日本語は「自分の思うことを通そうとする心」(『広辞苑』)であるから、「意志」といいかえてもよかろう。つまり、意地を通すということは、意志をつらぬくと同義である。意志をつらぬくことができたとき、欧米人はそれを「自由」と感じる。ところが、この作家は、なんと反対に「窮屈」に感じるというのだ!
そこで、外国人は流石の『草枕』を読み始めるやいなや、これはまったくの誤訳、珍訳だときめつけることであろう。そうとしか考えられないのである。ということは、『草枕』は、日本の社会の性格を十分に知ったうえでなければ、とうてい理解しえない小説であるということである。知に働けば角が立ち、情に棹させば流され、意志をつらぬげば窮屈に感じられる、そのような日本の社会の特殊性を。
だが、当の漱石は、これこそが日本の社会の特殊性だとは、かならずしも考えてはいなかったようである。なぜなら、彼はすぐつづけて「兎角に人の世は住みにくい」と書き、こうした性格は、兎角に人の世につきものだ、というふうに一般化しているからだ。そして「住みにくき世」や「住みにくき煩ひ」が、他国とはちがった、まことに日本的な性質のものだとすれば、そこから出発する芸街論も、しょせん日本以外には通用しないことになってしまう。
私が漱石を、日本を代表するまことに日本的な作家だと思うのは、まず、こうした点なのである。
◇
だが、誤解しないでいただきたい。
私は、日本のこの作家が、日本的なるがゆえに世界に通用しないといっているのではない。セルバンテスはあくまでスペイン的な作家だった。おなじように、フローベルはフランス的であり、ドストエフスキーはまぎれもなくロシア的な作家だった。どんな作家でも、彼の母国の制約なしに作品を書き得るのではない。いや、いかなる人間といえども、彼の生きる社会、生きる時代を越えることはできないのである。
にもかかわらず、彼らは彼らの社会を越え、時代を越えることができた。どのようにして? へ-ゲル流にいうならば、それぞれの「特殊」をつらぬくことによって、である。特殊なるものは、その特殊をきわめることによって、はじめて「普遍」に達することができるのだ。
だが、漱石は、いや、漱石にかぎらず日本の近代作家たちの多くは、なんとかして日本という「特殊」から脱け出て、「普遍」へ至ろうと涙ぐましい努力をした。その結果、まことに皮肉なことに、そのこと自体が、遂に「日本」と
いう特殊な型を二重に演じることになってしまったのである。その典型的な作家が漱石だと私は思う。
つまり、彼は、特殊を描くことによって普遍に至るという文学の道筋を逆にたどり、「普遍」を描こうとすることで、反対に「特殊」へと落ちこんでしまったのだ。そして、このことは、漱石に代表される明治以降の日本文化そのものの姿なのだといってもよい。
私はかつて、ある座談会の席で、あるヨーロッパ人から「世界でいちばん反日的な国はとこか知っているか」ときかれたことがある。私がくびをかしげていると、彼は自分で即答した。「それは日本さ」。席にいた人たちはいっせいに笑ったが、私は妙に笑えなかった。これこそ、端的に日本を言い当てているような気がしたからだ。「日本」という特殊を否定し、「西欧」という普遍をつねに志向している日本の姿を。いっせいに笑った人たちも、おそらく、そう思ったからこそ笑ったのであろう。
私はそのとき、とっさに漱石を思い出した。『三四郎』に登場する″偉大な暗闇″とあだ名されているあの「広田先生」である。
三四郎は熊本から上京する汽車で広田先生と乗り合わせる。彼は水蜜桃をむやみに食べ、「散々食ひ散らした水蜜桃の核子(たね)やら皮や等を、一纏めに新聞紙に包んで、窓の外に拗(な)げ出し」たりする。西洋的な観点からすればおよそ不作法なことを平気でやりながら、汽車が浜松に着いたとき、ホームに四、五人の西洋人がいるのを見て、彼は「あゝ美し」と小声でつぶやき、そして、三四郎にこう言うのである。
「どう七西洋人は美しいですね……御互は憐れだなあ。こんな顔をして、こんなに弱ってゐては、いくら日露 戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相応の所だが……あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたもんなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」
三四郎がびっくりして、「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護すると、「亡びるね」とこたえ、「囚(とら)はれちや駄目だ。いくら日本の為を思つたって贔屓の引倒しになる許(ばかり)だ」ときめつけるのだ。
だが、三四郎はこの言葉をきいて「真実に熊本を出た」様に思う。そして熊本にいたときの自分は「非常に卑怯であつた」と悟る。
広田先生は「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……頭の中の方が広いでせう」とも言った。
「頭の中」というのは、むろん、西洋の知識をしゃにむに取り入れた頭の中ということである。『三四郎』という小説は、このように三四郎という青年が熊本という「特殊」を否定し、広田先生なる人物が日本という「特殊」を同様に否認して、ひたすら西洋という「普遍」の世界へ歩もうとする道行きの物語にほかならない。
小宮豊隆はこのくだりを「日露戦争が終って三年目、戦勝に酔っていい気になつてゐた日本人に対して、漱石が発した痛烈な警告である」と論じている。以来、多くの論者たちもそう受けとっているようだが、私にはそのようには思えない。「広田先生」の言葉をそのまま借用すれば、「囚(とら)われちや駄目だ。いくら漱石の為を思つたって贔屓の引倒しになる許だ」というような気がする。ここにあるのは「警告」などではなく、異なれる文化に対して、いつも日本人が抱いてきた「劣等感」以外の何ものでもない。かつては中国の文化に対して、そして明治からは西洋の文化に対して、日本人が常に苛まれつけてきた劣等感そのものである。
劣等感を克服する道は一つしかない。劣等感にさいまれる自分を、自分で軽蔑することだ。軽蔑することによって、劣等感を優越感に逆転させることである。だから三四郎は故郷の熊本を軽蔑することでその劣等感から逃れようとし、広田先生は日本を軽蔑することで劣等感を克服しようとする。三四郎は国元から届いた母親の手紙を見て
「何だか古ぼけた昔から届いた様な気がした。母には済まないが、こんなものを読んでゐる暇はないと迄考へた」。
それにもかかわらず、三四郎は繰り返して、二ヘんも読む。彼は母親の住む田舎を軽蔑することによって、かろうじて東京から受けつつある劣等感から脱け出ようとするのである。
◇
劣等感と優越感の奇妙な、いや、奇妙ではなく当然のというべきであろう、そのような複合心理こそが漱石の作品の骨子であり、それはとりもなおさず日本人の骨子でもあった。だから漱石の小説の主人公は、きまって二人である。すなわち、「劣等感」と「優越感」だ。その二人が、きわめてはっきりと描かれている作品のひとつは『野分』であろう。
『野分』の主人公は「白井道也」 という文学者のように構成されているが、この小説のじっさいの主人公は、「高柳周作」「中野輝一」という二人の青年である。いうまでもなく、前者は劣等感の、後者は優越感の。
高柳君はロ数をきかぬ、人交りをせぬ、厭世家の皮肉屋と云はれた男である。中野君は高揚な、円満な、趣味に富んだ秀才である。比両人が卒然と交を訂してから、傍目にも不審と思はれる位昵懇な間柄となった。
しかし、二人が不審と思われるほど昵懇になったということすこしも不審なことではない。劣等感は、つねに心の奥底で優越感と手を結んでいるのだから。サディズムとマゾヒズムのように。そして、漱石はこういう二人を描き分けるときに、すばらしい描写力を発揮する。たとえば中野君という優越感が、高柳君という劣等感をむりやりに引っぱって音楽会へ連れてゆく場面などはそのいい例である。
「おい、帽子を取らなくちや、いけないよ」と、中野君が高柳君の″無知″にびっくりして注意すると、高柳君はあわてて帽子をとり、「三四人の眼が自分の頭の上に注がれて居だのを発見した時、矢っ張り包囲攻撃だなと思う」。中野君はハイカラな外套を着、それを器用に脱いで、裏を表に畳み、椅子にかげる。「下は仕立て卸しのフロックに、近頃流行る白いスリップが胴衣の胸間に沿ふて細い筋を奇麗にあらはしている」。だが、高柳君のほうは、「わが穿く袴は小倉である。羽織は染めが剥げて、濁った色の上に垢が容赦なく日光を反射する。……音楽会と自分とは到底両立するものではない。わが友と自分とは?……両立しない」と思う。ソナタ……。ベートーベン……アダジオ……みんな自分とは無縁だ。無縁の彼は、曲が始まり、満場が化石したかのように静まりかえると、窓の外の空に舞う鳶をぼんやりながめている以外にない。
拍手がさかんにおこると、彼はハツと我に返り、「異種類の勤物のなかに一人ぼっちで居った」ことに気づく。曲がまた始まる。高柳君はふたたび自由になって、音楽堂を広い寺のようにぼんやり空想し、心をひとり遊ばせる。三たび拍手がおこる。「無人の境に居った一人ぼっちが急に、霰(あられ)の如き拍手のなかに包囲された一人ぼっちになる」。
漱石は上野の音楽堂で聞かれた音楽会を描いているのではない。音楽堂を舞台にとって、「野蛮な日本」と、「ハイカラな西洋」を描いているのである。西洋文化のなかにもがいている日本の姿を。
だが、ここにくりひろげられるのは西洋文化そのものではなかった。なんとも奇妙な疑似西洋、あの″鹿鳴館″だった。休憩後の演奏の曲目は、なんと、「四葉のうまごやし」なのである…クローバーは「うまごやし(肥やし)」にはちがいないのであるが。
よせばいいのに、高柳君は中野君に招かれて彼の結婚披露の園遊会にやってくる。劣等感は優越感に、いつも抗しがたく吸い寄せられるのである。そして、思い思いに西洋人ぶっている人波のなかで、こんなささやかを耳にして、はっとする。
「妙だよ。実に」と一人が云ふ。
「珍だね。全く田舎者なんだよ」と一人が云ふ。……
高柳君は自分の事を云ふのかと思った。すると色胴衣(チョッキ)が、
「本当にさ。園遊会に燕尾服を着てくるなんて……洋行しないだつて其位な事はわかりさうなものだ」と相鎚を打つてゐる。……
ここにもまた優越感と劣等感がいるのである。 漱石の小説におけるこのような″二人の主人公″は、さまざまに形を変える。基本的な構図は「西洋」と「日本」であるが、それは同時に「都会人」と「田舎者」であり、「金持ち」と「貧乏人」でもある。また、あるときには、それが「知識人」と「無学な人間」に形を変える。「西洋」と「金持ち」とは往々にして重なるが、遂に、「貧乏人」と「西洋」が一致することもあり、その場合は「知識人」と「貧乏」と「西洋」が、奇妙な三位一体を成すのである。『野分』は、「金持ち」である中野君がハイカラな都公的な「西洋」であり、「貧乏」な高柳君が田舎者の「日本」である。そして、高柳君の劣等感を、白井進也という「貧乏」だが、「知性」 においては中野君よりもずっと進んだ「西洋」が補償するという形をとっている。
「学問をして金をとる工夫を考へるのは北極へ行って虎狩をする様なものである」といって。「拘泥するな」といって。
だが、漱石の小説は、じつは拘泥の文学なのであり、解脱を求めての作品なのである。
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