日蓮の隠棲地
目指す身延山久遠寺は、身延駅の西方約四キロの身延山の中腹にある。身延山とは、正しくは山梨県南巨摩郡にある標高一、一四八メートルの、富士川西岸に沿う身延山嶺の峯である。駅からは身延出行きのバスがあり、二十五分を要する。
バスが終点で行きつく途中、一つの大きな門をくぐる。総門と呼ばれる門である、これは寛文元年(一六六五)三河国刈谷城主、三浦志摩守安次の母・寿応院殿妙相日覚大姉なる人が日蓮宗に深く帰依したことから、身延二十八代法主日尊がその志を汲んで建立したものである。二間と三間半の門で、表柱には
三浦家の定紋を現出し、「開会関」という三十六代目日潮の筆になる大額が褐けられてある。この門をくぐると寂光の浄土、つまり一切衆生を成仏に導くという意味だそうである。また、この総門のあるあたりは逢島(あいじま)と呼ばれ、文永十一年(一二七四)五月十七日、宗祖日蓮が鎌倉からこの地に着いた時、波木井実長がここで出迎え、対面したことから名づけられたという。今、総門のすぐ裏手に日蓮が腰かけたと伝える平らな自然石が、フ麗々しく石垣で囲まれている。この総門から三門までの一キロ半の町並みが、いわゆる門前町である。富士川の支流波木井川に沿って、道の両側には門前町特有の土産物店、旅館、食堂などが整然と軒を列ねている。シーズンともなると白衣の信者でごった返すが、普段は静かで、琴平や成田山に見られるような混雑やざわめき
はない。比較的落ち着いた、たたずまいである。
さて、佐渡での流滴生活を終えた日蓮が、その余生を送るべく、信者波木井太郎実長の招聘によって身延に入山したのは五十三歳の夏である。
鎌倉から身延にはいった道筋は
「五月十二日さかわ(小田原に近い酒匂)、
十三日たけのした(足柄山中の古宿竹の下)、
十四日くるまかへし (車返しは沼津)、
十五日ををみや(大宮)
十六日なんぶ(南部)、
十七日みのぶ
となっている。また日蓮の眺めた当時の身延山は、その『御遺文集』によると
「此の山の為体(ていたらく)日本国中には七道あり、七道の内に東海道十五箇国、其内に、甲州飯野、御牧、波木井の三箇郷の内、波木井と申す。比郷の内戊亥の方に入りて、二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山なり、板を附枚ついたてたるが如し。此外を回りて四つの河あり、北より南へ富士川、西より東へ早河、これは後なり、前に西より東へ波木井川の中に一つの滝あり、身延河と名付けたり」
とあって、地形的にもほぼ今と変りがない。また
「……宿々のいふせき、嶺に昇れば日月をいただき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し、大石流れて人馬向ひ難し。船あやうくして底を水にひたせるが如し。男は山かつ、女は山母の如し。道は縄の如く細く、水は草の如くしげし」とも語っている。
日蓮は身延に着いた一カ月後の六月十七日庇護者実長が寄進した西谷の庵室にはいった。この日をもって身延山開創の日とされ、今、この珠は御草庵跡と呼ぱれて、最も神聖視されている。
日蓮はこの草庵にあって、日八々の読経、門下の教育や著述および自身滅罪
の隠棲生活を九ヵ年送ることになる。
その間弘安四年(一二八一)には十間四面の一宇を建て、これを身延山久遠寺と称したという。
ところで、日蓮が余生を送るためとはいえ雲深き身延の山を選んだ理由は、なんだっただろう。一つには領主波木井実長より広大な山林を含む土地を寄進されたこともあるが、それ以上に日蓮自身が政治的才腕にたけていたことがあげられよう。宗門の隆盛をはかる場合、幽谷の深山と河川が必要条件であることはもちろんだが、かといって荘園や寺社号が確かな根を張っている先進地では好ましくない。当時の日蓮に帰依した檀越を地域的にみると、両総、安房、武蔵、相模、伊豆、駿河それに甲斐の国が散在していた程度だった。この中から中央の鎌倉から近く、しかも宣布の条件にかなり地域を探すとなるとむずかしい。
甲斐国の場合でも、国の中央はすでに甲斐源氏一族による統制が行きとどい
ており、四囲の山岳も天台、真言の寺院で占領されていて、筒単に入りこむ予地はなかった。そこへいくと、当時河内と呼ばれた身延の山岳地帯は、未開のわりには鎌倉にも近く天台、真言の大寺もなく、また波木井氏が幸にも日運信者という恰好の揚所だったから、実長の請を入れて身延入りを決意したのだと
思われる。
波井実長は甲斐源氏の一族につながる河内頷の豪族である。新羅三郎の裔であるず加賀美遠光の子光行が波木井(南部町)にあって南部氏を名乗ったが、実行の子の実長、が波木井(身延町)に館して波木井氏を名乗り、富士川西域の波木井郷、飯野郷、南部郷など河内一円の地頭頭として権勢を振るっていたのである。光行は、すでに頼朝によって奥州移封となっていたから、河内領は事実上、実長の手に渡っていたのだった。
今、総門へ行く途中の身延町梅平にある鏡円坊が、この放木井実長の居館跡で、実長の墓はこの坊の草所に祀られている。
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