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摩珂十五夜 山口黒露 附合は追結ぬか佳也 山口素堂の事

2024年07月16日 15時12分16秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

摩珂十五夜 山口黒露 附合は追結ぬか佳也

附合は追結ぬが佳也、例えば人をも追つめぬれは縛るか、たゝくか切もせねばならず、さすれば夫   
  けりにて余情なし、然は跡も附よきやうに一句をいひ詰すして渡すべくや、

馬や鉄壁へのりかけては乗かへさんとするも不自在、こゝに前方に手綱を拍てゆるやかに乗れば、

至然と非行は乗すますらん、句や全くいひつめる故に余意もなく、次句の働きもならす、

皆是知れる所也、只追詰ぬといふか工夫也、発句はいとど云いつめず、

  理屈と十露盤か合過れは発句にあらず、肋証字の余光にて考ふへくや、

或る人の芳野の雪を花か雲かと見まかふような悪しき眼力も有まし、

花や雲やと追不詰ところこそ命なれ、露のまには花や咲らん、立のほる夕霧の中には、

鹿も鳴らん物をとおしはからる幽玄躰、さる一句の高尚洒落、

そんな古いことを誰かしらさらむ、仏法も古くさく、見識かましきははやらず、

一向あなたの御すくひまします、易行の御念仏、南無妙法蓮華宗論の狂言の小舞に、

今よりしてはふたりか名を妙阿彌陀にとそもうしける。

 

 一

廿とせ余りの頃、秋に伊勢の乙由老人を尋て十夜さ斗麦林舎に泊りし折から、

ある夜話に俗談平話といふとて、たゝ言にならさるやうこそよけれといはれし、

又一巻首尾の調ふといふも、面の四句めの句によれり、いかにも安らかに軽く有たし、

さて五句めより聯句して、四折は調ふとて四句めをいかう大事かられしか、

  ことし廿余年の古ことゝなれるぞ哀なる、凡正風体は黒小袖の様なる物也、

花やかにはやりかなるもやうとおもふ衣も、間もなくすたるかとすれは、

又是のあれのゝと物十年とはつつかぬを、黒は百とせも変らぬをや、

百年にして論定る共有物也、いかに又正風駄こゝてあちら表もこちら表もなと聞るは、

歌の上にはたゝことなるへくや、一句のすかた風雅ならすしては句とはいふべからず、

只の黒色の服ほころびけツ/\しからすもや彼松躰とやらん沙汰せさせ給ふころなるへくぞ、

時代/\の姿飼はかはる共、此躰位不易。

 

九十六文を百文として通用する事は、鎌倉の長尾意元入道の工夫也と石永寺物語に見えしを、

さも能勘弁と思ひ過せしに、近比冬籠の灯下に、

『続日本記』元明帝和同四年の文を見るに銭一文に米六升と有、省栢に五石七斗六升なれは、

尚古銭の尊き事際りなし、当世俗に目をぬくと云、比通宝古代より旧き事知ぬへし

   允百にあらす九十六文を省百といふとそ。

 

 一

雅言と俗語とのあはひ六?けれと、俳諧に取ては必競一致か、俗かとすれは忽雅に変す、

史書も小説也とさへ論を立、時うつり代変して唐も倭も学文の次第かくれるやうなれと、

古学に立もとりたるをは我ら如はしらすかし、さはむかしこそしたはしけれ、

さはされは差当ては当用の得の明才か急務也、

こちらの俳諧にて云は、一句の高尚なるも高過ぬれは寄つかれす、

 百尺の竿頭に至須叟に低に来て自由自在に遊はん、雅にして能俗にいふてあし、

俗の能雅のわるき、雅俗うち込て一致の所縦?無尽、

これこそ俳諧の広大無辺の満つなれ。

桐の本に鶴なくなる塀の内、比句切字なしとそはにいふ有、

啼也とすれはきれあなれとも句位鄙也、うつら鳴なる深草の里との雅言をそこなはす、

そっくりと居たるにそ一句の地位雲泥也、又、

道の辺の木槿は馬に喰れけり

の句は、後に「道ばた」のと直されけるとそ、誠に言葉剛く披俗にしてよしと云へる詞といひ、

俳意いよ/\つよし、これらそ雅俗一致の世界ならんか、

人とはゝ見すとやいはん玉津島霞入江の春の曙、と家隆卿の詠哥心こと葉の至大至剛照互すまし。

 

京都の言水歳旦に、

初空やたは粉の輪より間の比叡、

  といふ句の拙か、初心のほと甚おもしろく思ひて素翁(素堂)へ申ければ、

しばらくして、間の富士とこそいふへけれとの給ふを尤の事とおもひ、

ある日僧専吟にかく有しと咄けれは専吟の曰く言水もさ思はめと京ゆへ也、

そこらが素堂の古き心よりの評也と云しも亦尤とおもひ、

その後又翁(素堂)へ専時評をいひけれは、

「夫々と皆趣向を借て道に深く人たらぬ故の論也、

予か句に、

地は遠し星に宿かれ夕雲雀とせし

句、地は遠しと濁りて吟する時は、一句すたるとおもひ終に披露せす捨たり、

其句も京故ならすは捨るがよし、秋風そ吹しら川の関との寄の咄しせしをは、

いかに心得たるとて示し給ふ、拙今按ずるに右の両子ともに、

句は上手にても有へく、心は下手也。

 

ふし山の文字ニツ三ツも有、是によれるにも有ましけれと、説苑巻七歌政理篇曰く、

文王問於呂望日、為天下若何対云王国富民覇国富士云々、

東都の御栄へ千秋万寿の南山よき富士のもしの拠とはみむ鏡村井氏玄理引出。

 

京の淡々とともなひ大坂へ下るとて、与渡を例の昼舟にてゆくに、

牡丹を真塗の黒たんすに入釣合に截切やらん結構なる覆ひかゝりかつかせ、

足軽仲間いかめしく通しを、いかなる方に行やとおもひけるを、舟頭のいふ、

九条様へ淀の御城守より遣せられける、毎年今さ比通侍ふとそ、

思はす淡々と見合て笑ふ、淀舟といふ前に牡丹箪笥とは付ぬ句なれと、

眼前かく有からに何にても附ぬ句はなき物とおもひしに、年へて思ひつづくるに、

いかにさあれはとて懸念もなき附合也、似つこらしくこそ有たけれ、

その頃、京や江戸ともに専ら附ぬ句をする市政しか一句立にてつかぬ句のみせて、

百韻とつゝけぬるも無益也、住句はかりせんと構えたるを、

喩は項羽も信玄も一戦/\に勝利得給ぬといふ事なく、

されと後度の治平の切は高祖と信長に有し也、

  一巻句々皆よき句して、前後をわきまへずして、首尾の調はさるは巻中の乱也、

他句を出来るやうに、自句はさのみ出来さず、相手を育て仕よきやうにすれば百韻は満尾す、

巻つら拍子よく我は出来さす、他句を出来させんとする心がけ、竝々の人情にては中々、

  十が十どうしてもてかし度なる所、作故に上手も稀々也、

木の道の工みなとも、のみ込のわるきは下大工なり、そのくせじやうも壊し、

じやうのこはきは不成就のもと。

 

宗祇は飯尾氏、南紀の産とそ、

其のむかし越の後州に行給ひて、久しく駿河の方へきませさりしを、

今川家より慕い給ふけれは、奈良法師を迎のためにかしこへとすゝめやり給ふ、

かへさ(帰り)の道のほと日をかさねつゝ、また越の地にやある日にひたるきに物せん、

いつこかさるへき方や有、求め給へとの給ふに、やがて長師そこと見巡りて、

立戻りくつきやう一のやとり見出しさふろ、この草堂に連歌の席有、酒肴もうけたると見ゆ、

食はん便よしと打悦ひて云、祇翁聞給ひ其句やきき給うかとの給うふに、

されて花の句をし侍ふに、古郷の使り嬉しき花の比、といふを祇ほゝゑみて是はよき句也、

これつらの句作するほとの連衆ならば、喰物よろしかるましと狂して笑ひ給ふと、

なら荼煮豆の貧交合、けに道に志て悪衣悪食をはちさるとの聖教もさること、

今連俳共に其目の料理美味結構とやいはん、奢とやせんとて有志法師の閑話。

 

尚古の遊女の名に江口に観音・中の君・小馬・白女・蟹島に宮城・如意

・香炉・神崎ハ阿蘇姫・孤蘇・宮子。などを祖宗とす、今は太夫と云う。

此所は娼家也、船を旅泊によせきて枕をかはす、こゝをふる程の人々家を忘るとそ、

貴賤群来るにそ、天下第一の楽ム所とす、

禅定大相国は小観音を寵し給い、また上東門院墨古天王寺へ御幸の時、

宇治の大相国は中の君を賞したまう、三善為康の題し給う遊女の記を茲に略す。

昔の遊女はかく貴族の寵も有し、家持卿の任に越へ下給ふ時も遊女を愛し、

互に和歌を詠し給ひ贈答の事も見えたり、されど旅泊の契りのみにして、後世の体とは甚違せり、

或る日美濃の支老か出せる物を見るに、治郎傾城と斗は恋に不用と有、

また異所に昔は清水むすぶとして季とす、今いふ結ふとせずとも、

清水の文字の清涼なるによれはしミつとはかりにて夏也、

結ぶの三字を外詞に作せは、一句の働きも勝らんと、さ程清き水と書るか浄く涼しくは、

城を傾けるほどとの女色冶なる郎といふ、

もしか恋に成ましかとはいかが、上に引家を忘れたり、貴人の寵し給ふ事跡も有をや、

当世都鄙の遊女やほつの類ひに揉まれ、男女の中々に自然と恋路の情はあるべし、

かれに料やりて買ふて慰む故に恋に不用といわる、

舟車馬駕は乗物也、富る人貴介の家には所持して乗はのり物にて、

賃銭やって乗類ひは乗物にせましや、随筆して書る物ゆへ鹿末も有へし、

されとさし当て不自由の方か。

 

堀川の御所へ土佐坊夜討に人ける、身内にはかく共おほさねと事急也けれは、

静御ぎせなか取て打かけ奉り、御はかせ参らせなとす、

そも何ものゝ夜打には入けると問給へは、静とく見て参り打笑、

宵の起請法師めにて侍ふとて、昼のほとに正俊を召され、

汝義経か討手に上らすとならは起請を書せよとの給ふに、土佐坊畏て認て出すを、

物かけより見たるため頓に狂名して急敷中にさし慟名つけたるそよき俳諧の働、

又論語ニ、子之武誠、聞ク絃歌之声ヲ、夫子莞爾トシテ笑いて曰く、

割ニ鶏焉用牛刀とは、孔子の俳諧なりと素堂翁の閑話。

 

むかし芭蕉庵と素堂の隠密は遠くへだてぬ中垣から、常に問つ尋つせられし、

或時蕉翁のもとより、

…衰虫の音を聞にこよ艸の庵…

かくいひ贈られけれは、やをら行て素堂、

…みの虫や思ひしほとの板間より…、

 

比贈答のころにや衰むしの賦をつづり給ふ(風俗文選に出)

かゝるおもむきなとかがなべ見るに、老屋の蕉もおもひやらるを、

その後にや庵室の取つくろひ有しを、素堂建立の旨を述て

人々を寄進せし草稿とおほしき物取もとめ與に写す、

しかしながら旧かをおもひしたふ事の寸志か

 

芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。

めぐみを数十生に待たんや。広く求むるは却って其おもひ安からんと也。

甲をこのまず、乙を恥づる事なかれ。各志の有る所に任すとしかいふ。

これを清貧とせんや。はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧也と。

貧のまたひん、許子の貧。それすら一瓢一軒のもとめあり。

雨をささへ、風をふせぐ備へなくば、鳥にだも及ばず、誰かしのびざるの心なからん。

是草堂建立のより出づる所也。

 天和三年秋九月 竊汲願主之旨     濺筆於敗荷之下     

 

去りし宝暦たつの年六月、上野の館株にまかりて松倉九皐子に相見し、

はからずも右の小序ならびに名誌をうつし得侍る、

皐子ハ往昔風聞と聞えし松倉又五郎の姪孫とそ、蘭子武勇の士なりとて、

素翁の常談無二の交り契り深き物から比等の草も伝来して、

其真跡皐子の許に有しを、虫はみし処々のまゝにしき寫す、

けふ亜父の恩報セんに、はし立て及ふべからす、

山高く海潔し、千峰と柳色、直下と見おろす其の写し奉る事は、

暫く置て、世に言傅ふ恩を仇にて報ニハ、今一個の身の上に、せめ来れり、

詩名を穢す事、あまた度なれど、生涯露ほども、腹たち給ふ機をたに不見、

我が舅ながら、実に温柔和客の翁也し、学は林春斎先生の高弟、

和歌は持明院殿の御門人なと、和温の方に富とやいはん、

折にふれて、花のもと、月の前に扇とって、一さしをかなてつ、

舞曲は宝生良将監秘蔵せし弟子、入木道の趣、

茶子の気味は、葛天氏の代のすき者也と、拝し給ひし、

あるは又、算術にあく迄長し給ひけるも、隠者にはおかし、

閉なる秋の夕には琵琶を弾し、平家なと懇におもむかれたるは、寂しかりし、

一生飯たくすへをしらす、老後至て貧に、

又極て簾、如月大の頃のほう鱈を堅手の蛸と自称して賞味せられし、

あるは古硯を愛し、蓮池を慰す、折にふれたる遊び、

あまた有へけれと、何ひとつ是をと甚し色事はせさる人也、

ある高貴の御家より、高禄をもて、召れけれども不出して、処子の操をとして終りぬ、

いひつづくるほど、事々をかさり立たるやうに成り行や、

ゆき/\て五十過る秋迄に、生てけふにあへるをは、

苔の下にもさそ浅ましういふかゐなくおほすらん、

住所さへ定め得す、水無月のなかれて、行年の有明もありとたに、

人にしられぬ身のほどよ、今月今日比夕部、古塚の苔をあらひて、

かく新たに尺にさえたらはぬ石を積て、しるしを建て、

野花一江の細き心さしをいとなむまなひをす、

誰かいふ無名は天地の始めとや、被夫無何有の郷にいまそかりけるもしらすかし、

今やただこの谷中の感応寺の片かけにとばかり、

知る人もなく、名さかもたゝぬ葛飾の、其まゝの素堂のおきつき所か。


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