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○享保年開 洛俳諧の噂『翁草』(四)御射山翁羅人

2024年07月18日 14時35分53秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

○享保年開 洛俳諧の噂『翁草』(四)御射山翁羅人

御射山翁羅人は、一且自の居を去て、他家を嗣んとして不成、再び故宅に帰り、淡に告て點者となる(享保十五年と和平以後のこと)自この先き、大奎は浪花に往く、奎が門人金桃(後號達三)鹿住(初名隣笙)稲起、統菊等、舊交を以て、皆羅に興す、また播の瓢水、洛の乙澄(春澄が兄)相倶に羅と善し、故を以て之を助く、杜口、百千(後一扇)公粥(仙鶴弟子)乙仙(上同)何狂(孟遠弟子)富鈴(巴人弟子)几圭等を先きとして、之に具する人多く、其風涜迅く洛に及ぼして、牙院(後雅因)島虎(後丸種)輝風(初回山後改宜康)射大、羅江、安楽丸、貞至、大牙(後改慶山)長牙(後改風状)蘭中、元始、朔鳥等、羅人門人にる。これは享保十八九年の事なり、其頃迄も、淡が餘風有て、一統に孕み句を並ぶる而已成しに、羅人之を嫌がりて、つけかたの事を第一に諭諭し、秀判毎に散句を出てその付けかたを評しけるにより、少しは之を辨ふる人無にしもあらねど、一旦の風俗が直りて、唯孕句を携来る事止ず、是故に、乙澄、杜口、公粥、何狂の輩、盡し俳諧(是は何にでも題を一つ立て各如是を隠すこと也)を催して、例會の後の宴に之を聯ね百順とする、是にては、孕句問に合ず自席案する様に成てやゝ孕句は止め共、亦盡し俳諧に凝て、兎に角に、付け方の事は、衆僉得意せず、されども羅人が俳諧の巧なるに愛て、世にもてはやし、己に一旦の淡が勢ひにをさ/\不劣、然るに最大は道にせちにして、好古の情け浅からず、是故に表は淡に従うと雖も裏には淡を用いず、羅人が家組、山口富長が、風観窓長鴉より禀たる處の、長頭丸和歌の正傳、且つ山本西武が弟子貞木へ譲る、俳諧の正秘、故有りて羅人へ傳来せるにもとづき、傳録に眼をさらし、一向に工夫を凝して、発明する事多し、余も亦曾祖貞宜は、備の中州にありて、長頭丸の直弟胤及が備前に住すを慕い、明暦の頃しばしば評を受し巻々今に残れるを考味して、好古の意を羅人に語り、淡より享たる奇傳の他と異なるを、羅と倶に難じて、之に因む事年有り竟に羅に属す、羅、雀躍した之をよろこび、余が篤意に愛でて、羅の蔵所の傳録を、悉く余に附与するに及ぶ、既に皆傳の日、羅も神に盟はんとす、余之を固辞する處に、羅人曰く、これ則道の敬なり、生涯未が皆傳を容す門人なし、今幸に之を獲たり、傳へ聞、昔日貞恕が春澄へ皆信の時、恕盟を以て傳ふ、春澄も叉盟を以て受之と、豈此例に倣はざらんや、余辞する事を不得、互に盟紙を取替せ、今より門弟の第一座と、盟紙に書載せ、口授秘訣を遺さず悉く傳之、余此の道に師とせる人五人あり、中にも羅人は斯まで篤き囚縁有れば、道の恩深き事この上なし、然るに宝暦二申年七月二十九日、羅翁歿す、齢五十六、「芳樹観宗茂居士」と號す、やや年波の打頻る儘に、安永元年、二回の申を迎ふるに、翁の嗣弟波光も世を去り、其の餘の業弟、追々に世を辞して、今や廣く遠忌を世に告げん人なければ、余はその業に非ずといへども、いやしくも其恩下にながらへ居て、ただに止なん事の苦しく、いさゝか追慕の意を小冊に顕しぬ、ここに我が門人分流斎牛行は、故翁の幽栖に隣て、代々家す、さちに風月の道まめやかなるをもて、絶て久しき、みさ山翁の號を、余より容して牛行に嗣がしめ、かことばかりに穂屋つくる折から、三そみ川のめぐりは今の御射山より、をちこちの舊きゆかりへも告て、にはたつ美と名付けし追慕集をいとなみぬ、猶つくばねの茂み栄え、みなの川の流れ絶せぬ事を伏て冀(こいねが)ふのみ。

 


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