略人傳 巻の一 中江藤樹 附 蕃山氏
藤樹中江氏、諱原、宇惟命、通名与右衛門、西近江高島郡小川村人なり。藤樹下に産まれ、後藤樹下に学を講じるをもて、門人此号を称す。又夢中人ありて、光嘿軒(こうもくけん)の号を授くるとみて、光の宇を謙遜し、省て嘿行と称す。僻地(かたいなか)に生るといへども、児として野鄙(やひ)のならひに染(そま)ず。九歳の時、祖父吉長嗣(よしながし)とせんと請て、その在所伯耆に伴ふ。祖父、手毎に拙(つなたき)を悔て、つとめて此子に学ばしむるに、其書人おどろくばかりなりき。十歳の時、伯耆の大守加藤侯、伊予大洲に転封せらるゝゆゑに、彼所にうつりぬ。十三歳の時、祖父賊をうつことあるに、少も恐るゝ気色なく、祖父の命をうけて賊をとらへんとす。志気幼して既にかくのごとし。
はた一物の遺愛も甚謹て羞悪(はずる)のこゝろ深く、一食を喫しても君父の恩を思惟す。十七歳のとき、京より禅僧来て論語を講ず。その地の士風、武を専にし、文学の某を弱とし、敢てきくものなし。唯先生一人往て聴受す。論語上篇を終て僧京にかへりし後、又師とすべき人のなきを憂て、四書大全を購(買い)得て熟読す。然れども他の俳論をはばかり、昼は終目語士と応接(まじわり)し、毎夜深更に及び二十枚を見るを業とす。已後も師なくして、困学年を経、ひとへに聖学をもて己が任とす。然るに其母氏老て故郷に独りあるをかなしび、再回暇を乞て帰省し、ただちに是を伴いて伊予に帰らんとせしに、はるけき波濤をしのぎ他国にうつることを欲せず。故に致仕して帰らんと乞い、且つ二君に仕へ出身の意あるにあらざることを天に誓ひけれども、其の才徳を惜しみて許されず。二十七歳の冬十月終に逃さる。その時、今年の禄米ことごとく倉に積み置き、さきに友人に仮貸し米穀あるをば器物を売て是を償ふ。江陽に至るとき銀わずか三百銭行有るとの過半なるを痛み、敢て請(うく)る志なく、只従て艱難を共にせんといへども、先生強て与えてかへせり。此後かの誓のごとく終身出仕へず、其志を高尚にす。はじめ僕に与し残の銀百銭をもて酒を買い、また農家へ売てその息をもて母氏を養う。後又刀をうりて銀十枚を得て、是をもて米を買、農家に借す。息をとること世人より其故ずる故にや、其價をせめずして皆是をかへす。三十にて初めて娶る、格法に泥(なづ)む故とて、その女容貌括醜ければ、母氏憂て出さんと欲(ほり)すれども、先生固く辞す。此婦容貌醜しといへども、性質甚窓明にして、心を用ること直し。つねに諸門入会して、夜半或は五更に及べども、終に先生に光達ていねず。居常(つねに)小事ルといへども、命をうけざればおこなはず。先生従朱子学を尊信し、門人に示すに小学の法をもてす。故に門入格套(かくとう)に落在し、拘攣(かゝはること)口々に長じ、気象潮暫く迫りて、圭角(けいかく)を持す。先生三十餘、王陽明書を見しより、その非をさとりて、門人に示て曰く、格套を受用するの志は、名利を求るの志と日を同じうして語るべからずといへども、真性活発(いきいき)の体を失ふことは均し。只吾人拘孌の心を放去し、自の本心を信じて、其跡に泥むことなかれと。門人大に触発興起す。又語て曰く、予嘗て山田氏に贈るに、三綱領の解をもてす。其至言の解曰く、事善にして心善ならざるものは至善にあらず、この時にして事善ならざるものもまた至善にあらずと。この時、子いまだ支離(はなればなれ)の病を免れず。故に誤りて如此解すと。門人問ていはく、この解、甚親切明当なるをおぼゆ、如く何ぞ支離とす。先生云、心事元是一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず、心善にして事不善ものもまた未之有、門人曰く、狂者のごときは其心高大なれども、其事破綻あることを免れず。郷原(きょうげん)のごときは、事は君子ににて、其心汚(かがれ)る。見分明に心と事と二つなるにあらずや。先生曰く、狂者未入る精微中庸、(狂者未ダ精微中庸ニ入りラズ、)故にかくのごとし。郷原は世に媚許容(こびいれらるゝこと)を求るの穢賜(けがれしこころ)より顕るゝ事為なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて言とするは功利の意也、然るに或は曰く、大哉この道、盗人も亦元を得ざれば功をなすことあたはず。入ることを先とするは勇なり、出る時後るゝは義也、分つこと均しきは仁也。この三つを得ざれば大盗を成こと不に能などいふ説は、笑ふべし、悲むべきものなり、といへり。又近年専を孝経を説明し、つねに愛敬の二字を掲出し、心体を体忍せしむ。曰く、心の本体原本愛敬的、なお水の湿(うるおい)に従ひ、火の燥(かわく)に付るがごとし。只吾人種々の回心習気に凝滞書を見しより、その非をさとりて、門人に示て曰く、格套を受用するの志は、名利を求るの志と日を同じうして語るべからずといへども、真性活発(いきいき)の体を失ふことは均し。只吾人拘攣(こうれん)の心を故去し、自の本心を信じて、武跡に泥むことなかれと。門人大に触発願起す。また語て曰く、予嘗て山田氏に贈るに、三綱領の解をもてす。その至善の解曰く、事善にして心善ならざるものは至善にあらず、心善にして事善ならざるものもまた至善にあらずと。此時、予いまだ支離(はなればなれ)の病を免れず。故に誤て顛覧に解すと。門人間ていはく、此所、甚親切明当なるをおぼゆ、如何ぞ支離とす。先生云、心事元見一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず、心善にして事不善ものもまた未之有。門人曰く、狂者のごときはその心高大なれども、その事破綻あることを免れず。郷原(きょうげん)のごときは、事は君子ににて、武心汚る。見分明に心と事と二つなるにあらずや。先生曰く、狂者未入精微中庸(狂者未ダ精微中庸ニ入ラズ、)故にかくのごとし。郷原は世に媚許容を求るの穢腸(けがれこころ)より顕るゝ事為(しわざ)なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて善とするは功利の意也、然るに或は曰く、大なる故この道、盗人も亦是を得ざれば功をなすことあたはず。入ることを先とするは勇なり、出る時後るゝは義也、分つこと均しきは仁也。此三つを得ざれば大盗を成すこと不能などいふ説は、笑ふべし、悲かべきものなり、といへり。又近年専ら孝経を説明し、つねに愛敬の二字を掲(かゝげ)出し、心体を体忍せしむ。曰く、心の本体原本愛敬的、猶水の湿(うるおい)に従ひ、火の燥(くぁく)に付るがごとし。只吾人種々の皆心習気に凝滞
らざものは、その勉(つとめ)の験(しるし)知べしと。小医南針、神方奇術等は、山田、森村雨医生のために著す処とぞ。その書伝るや否、未に知。先生四十一歳にして、慶安元年戊子八月廿五日病て卒す。
その旧居の講堂、今尚残れども、その学をつぐものなく、荒廃につくといふ。をしむべし。先生三子有、備前侯に仕ふ。熊沢氏の故を以てなり。長は宣伯、通名太右衛門、よく父の徳を嗣て、明敏豪傑、しかも温厚也。病によりて仕を返し、家にて卒す。惜しまざるものなしとぞ。仲は藤之丞、又致仕、京師に病死す。洛東黒谷に葬る。季、弥三郎、先生歿するとしに生る。是はた、侯時めかしたまひしかども、病をもて辞て江西にかへる。後又京師に寓居し、改名江西文内(えにしぶんない)といふ。病て死す。故郷にかへし葬る。常省(じょうせい)先生と諡(おくりな)す。
○藤樹先生の門人、備前に召るゝ者五六輩に及ぶ。熊沢翁は共魁也。翁は平安の人、本氏は野尻、通名次郎八といひしかども、外祖父公子として熊沢助衛門と名のらしむ。諱は伯継、致仕の後、了芥(りょうかい)と称し、息遊(そくゆう)と号す。氏も亦後に蕃山(しげやま)と称せしは、備前にして、その領地寺内といひし所を蕃山と号(なづけ)て、暫こゝに隠居す。
筑波山葉やましげ山しげけれどおもひいるにはさはらざりけり、
といふ古歌のこゝろによれるとぞ。その後京に帰り、故ありて播磨の明石侯のもとにあり。侯封をうつさるゝに従ひ、下総古河に至り、そこにて終る。時に歳七十三。元禄四年八月十七日也。その学は、藤樹に出るといへども、見所また一家をなして、ことに経済に長ず。時処位の三つをしるをもて要とし、琴柱に膠(にかは)する書生の説に異なり。其の著書、『集義和書』、『同外書』に見えたり。世に伝ふる所、この人備前にして仏寺を破壊すといへり。予其の事実をよく聞正せるに、然らず。此挙は翁致仕の後にして、しかも侯に上書してこれを諌むとなん。されどもその著す書に、仏教を謗ること大過せれば、その漸をなすとはいふべし。京にしては神縉家(しんしんけ)、関東にしては諸侯の間、名ある諸君に門人多かりしとなん。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます