戦争体験記 内地での体験
私の戦時中の体験 築田 将雄
◇この本の編著者◇浅川 保(あさかわ たもつ)
1945年、福島県生れ
1969年、東京大学文学部国史学科卒
現 在、山梨県立韮崎高校教諭、歴史教育者協議会全国委員、
歴史学研究会会員
著書、『若き日の石橋湛山』(近代文芸社)
『平和教育実践選書回』(桐書房)
『山梨郷土史研究入門』(山梨日日新聞社)
『近現代史の授業づくり日本史編』(青木書店)など
1995年8月1日
発行所 ㈱山梨ふるさと文庫
内地での体験 私の戦時中の体験 梁田将雄
昭和十六年一月八日朝、ラジオで臨時ニュースを流した。
「我が国は米英に対し戦闘状態に入れり」と。
私達一倍国民は老いも若きも戦争という渦の中に巻き込まれたのだ。
そして若いものは召集令状一枚で、お国のため戦地で尊い命を捧げ、その犠牲になった。
そしてあの苦い体験をした人は人生の後半になっている。今や戦争を知らないものが多くなり、戦争は過去の記録として残されている。
私は小さい時、山梨から東京へ移り、家族六人で生活していた。戦争が始まったのは私が小学校二年生の時だった。毎日ラジオから流れて来る戦果のニュース、まさに日本全体が戦時色で一杯であった。
若いものは皆お国のためにと小さな心を燃やしながら、少々のことは我慢に堪えてきた。戦争は日増しに激しくなり、私が国民学校(小学校)六年生になった頃から、日本はだんだん敗戦色が濃くなり、東京はじめ各地はアメリカのB29爆撃機の空襲で戦災を受け、学校にも満足に通学できなくなった。
当時、物資は全部統制され、衣食等は何でも配給制度で、食べ物も満足に食べられず、学校から給食にもらった黒いコッペパン一個、そして家に帰れば雑炊屋に並んだ。だが買えない日もあった。毎日空腹で、食べられるものは何でも食べた。食べ盛りだから無理もない。田舎へ行けば腹一杯食べられる、だから行きたいと何度も思った。
昭和二〇年に入り、本土決戦とか情報も流れ、ますます本土空襲も激しくなり、学校も学童も疎開が実施され、
そして七月六日夜、甲府の空襲であの焼い弾が雨のように降ってくる町の中を逃げ回り、生きた心地はしなかった。
朝になり、甲府の町は全部戦災で焼け野原であった。わが甲府中学校の校舎も日新鐘(にっしんしょう)のある校舎と講堂を残し全部焼失してしまった。
私達一年生は市内にある公共施設の焼け跡整理へ動員され、一か月過ぎた八月六日広島、九日に長崎に原爆が投下され、そして八月一五日終戦を迎えた。日本は敗けたのだ、日本の国はどうなるのだと誰もが思った。
それから私達は勉強する校舎をと、毎日真夏の太陽が照りつける校舎の焼け跡で、焼け跡整理を行った。仮校舎が出来たのはもう九月の第二学期に入っていた。まだ物資がなく、教科書も揃わず、先生かわら半紙にガリ刷りして配った教科書で勉強した。今、思うと考えられない……でも何時までも忘れられない、私の戦時中の体験であった。 (一九八五年度体験記)
戦時下の小学校生活
天野 栄太郎
「帝国陸軍は本八日未明……」ラジオ放送の意味もよく理解できない尋常小学校三年の私の戦争体験はここから始まった。といっても田舎育ちの少年には血生臭い空襲とか疎開といった激しいものではなかったが……。
私と同年輩、或いは興味のあった人達は覚えているかもしれない、昭和一六年一二月、大東亜戦争勃発の放送を境に軍の電波規制(後で知った事実)とかで、ラジオ放送はすっかり受信しにくくなってしまい、感度の悪いジージー雑音の多い聞きにくい(並四球国民二号型)放送の中から、戦い一色のラジオ歌謡「勝ち抜く僕等少国民」「勝利の日まで」等々を口伝えで覚えていった。
尋常小学校から国民学校初等科に変り、毎日の朝礼に、校長の戦勝の状況報告、国旗掲揚、東京の方角に向い、遥か宮城に対し奉り最敬礼……で始まる日課、毎日のように時間割にある体操の時間は武道という学科の中で木刀を振り回し、剣道の学科は竹刀を大上段に振りかがり、「お面!」「胴!」「小手!」と黄色い声を張り上げていたのは懐かしい想い出である。
そうした中で辛かったのは、「日本刀と少国民は打って叩いて鍛えるのだ」と毎日ピンタを張られない日はなく、泣かない日はない位だった。その頃思った。どうして俺は男に生まれてきたのだろうか?この戦争は長く続く、俺たちが大きくなって戦場に行き、国の為に戦死するのだ、死ぬことは恐くなかったが、女の子はいいなあ、戦地に行かなくてもいいのだから……と。
更に初等科高学年になった時は、勤労奉仕として出征兵士の留守家庭に労力の提供として畠の草取り、薪切り、学校では開墾作業に精を出さざるを得なかった。特に体躯の小さい私に一番こたえたのは炭背負い(木炭を背中で運搬)だった。一俵四貫匁(一五キロ)の重量を背負って六キロに及ぶ山路を運んだ。一〇才~一一才の少年に課せられた戦争の重荷だった。
それも一日だけでなく、午前中二枚時まで授業、そのあと校長先生を先頭に、一〇時頃から代用食の弁当を炭俵の上に縛っての作業は一週間も続いた。銃後の少国民はさぼることを許されなかった。今考えてみるとよく全員無事で、誰も怪我もせず成長したものだとつくづく感心する。
肉体の重圧に加えて頭脳労働もきびしかった。余り頭の良くない一〇才の丸坊主の少年に軍人勅諭の暗唱を命ぜられたのだ。「我が国の軍隊は……」もちろん覚えきれる訳がない。これらの腹いせか、ストレスの解消を子供心に求めたのか、よその家の果物、柿やボタンキョウ(アンズの一種)を盗んで食ったり、瓜や南瓜をむしり取ったりして怒られた。その時「こんないたずらをすると巡査に言いつけ、郵便局に訴えるぞ」とある老人にこっぴどくお説教を食ったのは、せめてもの戦時中の嬉しい思い出の一つか?
爾来、巡査と郵便局は恐いものという観念は永いこと変らず、その故か今もってお巡りさんと郵便局(手紙も出さず預金もなく)も縁がなく今日に及んでいる。そんなこんなの生活を経て終戦、食料難の戦後に……。
学徒勤労動員の記録
石川房蔵
夢も希望も思い通りにならなかった青春時代、不平不満の言えない時代、ただ戦争に勝つことだけを強いられ、人命を国の為にという大義名分だけで、天皇の為に死ぬ事が最高の名誉だと思わされて生きた時代、今にして思えば暗く悲しいあの頃でした。
昭和一九年七月、サイパン島の玉砕により本土への空襲も始まり、敗戦への遊を急速に進んでいた頃、中等学校以上の生徒に学徒動員令が下り、大学生は学業半ばに軍に召集され、多くの優秀な人々が特攻隊という名の下に、若い命を散らしてしまいました。
私も当時甲府中学校(現甲府一高)三年生の一〇月一日深夜、甲府駅から神奈川県の大船にある第一海軍燃料廠に勤労学徒として動員され、その頃実際に使用されたか否か今もって不明ですが、航空機の燃料を松の木の根から採る仕事をしておりました。一五歳の、今ならば遊びたい盛りの年齢で親から離れ、きびしい食糧事情の下で、朝五時半に起きて夜暗くなるまでの仕事はつらいものでした。
今も残っている当時の日記帳には食べることが最も多く書いてあります。のりのような雑炊に鰯一匹、米少々に豆粕を入れ味付をした飯、握り飯にしたら一個強くらいの量しかありませんでした。甘いものなど皆無といっても良い位でした。不平不満のはけ口もなく、遊び盛力の若者でも何の楽しみもなく、悪い事とは知りながら寮の近くの畑へ行って、ねぎを盗んでは焼いて食べたり、さつま芋を掘ってきて焼芋にしたり、あげくの果ては農家の庭先から鶏を
つかまえてきてむし焼きにして、空服を満たすよりも心が満たされない不満をこんな行為に走ったものでした。悪い事をしてもだんだんと罪の意識がなくなってきます。これも戦争という行為から生まれる罪悪かもしれません。
とにかく自由のない時代、この日記帳にも戦争批判等一言も書いてありません。書けない時代でした。勉強したくても出来ない、食べる物がない、着る物も履く靴も自由に手に入らない、自分の考えるように行動出来ない、国の一部の指導者の考えや思想に反対も出来ず、その流れにただ流されていったみじめな青春時代でした。何でも欲しい物が手に入り、誰に気がねすることもなく何でも言える時代、自由自在に行動出来る現在、こんなすばらしい今を大切に、甘えることなく多くの尊い犠牲者が残してくれた平和の時代をいつまでも続けさせたいものです。
〔戦時中の日記より〕
昭和二〇年 一月一日 月曜日 晴
五時半起床。今日は昭和二〇年の元旦だ。すぐ顔を洗い朝礼を行い、其の後春日神社へ参拝した。今年こそ決戦の年だ。一同しっかりやることを誓った。其の後寮へ帰り朝食をとる。雑煮で餅が四切入っていた。汁と菜ばかりであった。八時五〇分に出廠。廠舎前にて九時半より拝賀式を行い、其の御真影奉拝有資格者の中へ学徒も入り、御真影の奉拝を行った。一〇時一五分に帰寮、一部外出したものもあったが寮に残った。午後からは正月の感じも出ないの
で部屋で寝た。夜は別に変った事もなかった。今日出勤前、家や知人へ手紙(年賀状)を出した。これで通年動員先て迎えた一月一日も無事に終った。
八月一五日 水曜日 晴後曇
空襲警報の為、総員朝礼なし。すぐに現場に行き、又ケーブル線作業を行った。昼食を寮で食べた。一二時迄に防空整備班の所へ集合し、重大発表を聞いた。
天皇陛下御みずからマイクの前に立たせられ、詔書を御読みになられたのだ。遂に帝国政府は米・英・支・ソ四国の共同宣言を受諾することに決定したのだ。聖断の下、大東亜戦争は終局した。全く、惜しみても、惜しみても足らぬ。我等は勝利の日を目指して、只管努力して来たのだ。事此処に至ってはしかたがない。我等はあくまでも国体護持、民族自存の為、帝国の再建をはかり生きてゆかねばならぬのだ。
畏くも天皇陛下には敵の新型爆弾の残虐、民族滅亡を御懸念あそばされ、神州不滅、総力建設を御垂示あらせられたのである。最後の御前会議において
「朕は国が焼土と化することを思えば、たとえ朕の一身は如何になろうとも、
これ以上民草の戦火に斃れるを見るに忍びない」
との畏くもおそれ多い有難い御言葉を承ったのである。
(一九八五年度体験記)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます