江戸隅田川界隈 石川島
『江戸名所図会』に、
鎧島 佃島の北に並べり。今石川島と号く。
(俗にハ左衛門殿島ともいえり。
昔大猷公の御時、石川氏の先代、
この島を拝領するよりかく唱うるとなり。
寛政四年石川氏、永田町へ屋敷替えありしより、
炭置き場・人足寄場等になれり。)
旧名を森島と言う由、江戸の古図に見えたり。
とあり、鎧島と名付けたことについてはハ幡太郎義家が鎧を納めて八幡宮を勧請したからという説と、異国から献上した鎧が重くて誰も持てなかったが、石川氏の祖が片手で持って天賦公(徳川家光)の御前に披露したため、勧賞のあまりこの島を宅地として賜ったと大猷公いう説とを挙げている。
しかし石川八左衛門がこの島を拝領したについてあまねく伝わっている説は、寛永元年(1624)、宇都宮城主本多上野介正純が、将軍家光が日光参拝の帰途自城に立ち寄るのを機に、その寝所に釣天井を仕掛けて圧殺しようとしたが、事が露顕し、八左衛門は家光を駕籠に乗せ、ただ一人でこれを担いで夜とともに宇都宮を発ち、翌夕江戸城へ着いたが、門は既に閉ざされていたので、やむを得ず門を破って城内へ入り、家光の急を救った功によりこの島を拝領したという説である。
棒組のない忠臣は八左衛門
忠臣の古蹟は島の名に残り
八左衛門とは申さぬと渡し守
快き配所の月はハ左衛門
住吉の隣の国は四千石
一、二句目は、説話が広く知られていたことを示している。
三句目は、島の名は八左衛門殿島といい、呼び捨てにはせぬ。
四句目は、八左衛門は一説によると江戸城の城門を破ったという咎で、禄は四百石加増になったが、石川島へ流されたという。
五句目は、住古社のある佃島の隣はもと四千石の旗本石川八友衛門の屋敷跡。
『江戸名所図会』の引用文中に、
寛政四年(1792)の屋敷替えの後に人足寄場になったとあるが、天明の大飢饉による無宿者・浮浪人の激増は、江戸の人目に異常に影響を及ぼし、老中松平定信は適切な対策を求めて苦慮したが、火付盗賊改の長谷川平蔵宣以(のぶため)の建議により寛政三年、石川氏の隣地を埋め立て長谷川平蔵の管理の下、府内の無宿、乞食の徒、軽犯罪者をここに収容して手工業を授けた。
これが「人足寄場」と称されて幕末に及んだ。寄場には常に百数十人ほど収容され、川浚いなどの人足に出るほか、手に職のある者は大工、建具、指物、塗師などの仕事をさせ、手に職のない者は米とぎ、油絞り、炭団造り、藁細工などをさせた。毎日煙草銭十四文を与え、改悛の情が明らかになると道具と生業の元手五貫文ないし七貫文を持たせて釈放するという仕組みであった。
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