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近世俳人ノート 井原西嶋 星野 麥丘人 著

2024年07月10日 18時14分19秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

近世俳人ノート 井原西嶋

星野 麥丘人 著

   井原西鶴の墓碑(誓願寺)大阪市南区上本町西4丁目1 -21                     

 

談林の総帥西山宗因が没したのは天和二年(一六八二)であるが、西鶴はその年の秋に『好色一代男』を上梓している。天和・貞享・元禄と数えてくると、俳諧師西鶴が散文で活躍した期間は十年と少しということになる。夏目漱石が小説を書き始めて十年、その間数々の傑作を残して世を去ったことを思うと、西鶴の散文での活躍もややこれに似ているところがある。いや、西鶴を先とすれば漱石が似ているというべきか。とにかく、両者の散文世界での活躍はよく似ているのである。しかし、それはあくまでも年数的に(或いは年齢的に)であって、たとえば、その最期たるや、漱石と西鶴とでは比較にはならない。浮世草子の作者としての盛名とはうらはらに、西鶴は殆ど看とるものもなくひっそりと世を終わったといわれ

ている。死は孤独に生きる作家の常だといえばそれまでであるが、原石が多数の門弟に看とられながら逝

ったことを思えば、西端の最期はまことに淋しいものであった。

     人間三十年の究り、それさへ

     我にはあまりたるにましてや

   浮世の月見過しにけり末二年

の西鶴の辞世吟はしばしば採り上げられるところだが、いかにも俳諧師西鶴の作にふさわしい。人生五十年を、二年だけ生き延びたので、その分浮世の月を見過ぎてしまったことだ、というのである。うき世の月は、本来「憂き世」の月であろうが、それを楽しい世、つまり「浮世」としたところなど、浮世草子の作者と七ての面目も窺われる。

 この句は、西鶴の第一遺作である『西鶴置土産』の冒頭に掲げられていることでよく知られている。門人の北条団水が、遺された草稿を整理して書肆に渡したのが『西鶴置土産』であって、この書の跋ともいうべきくだりに次の一節を読むことができる。

 

嗚呼(ああ)、先生滑稽に遊んでは、住の江の松に千年の名を残す二万三千句を吐き出し、書を編綱するにお     

よんでは、ならぶ者なし。惜しいかなや、千年の鳥名はくちずして、その身は五十二とせを期として、終に仲

の秋十日の月と西の空にたちぬ。

 

署名はないけれども、恐らくこれに回米の言いたものであろう。一昼夜二万三千三百句の独吟を吐いて世人を愕かし、また小説を書いて並ぶもののなかった西鶴(千年の鳥名)ではあったが、八月十日、五十二三を二期として大阪鍋屋町の寓居で果てたのである。時に元禄六年(一六九三)である。

 松尾芭蕉が元禄七年十月、五十一歳をもって大阪で没したことは誰もが知っていよう。晩年に軽みを説いた芭蕉が、談林の牙城ともいうべき大阪で命を終わったということは、どことかく因縁めくような気がする。が、それはともかくとして、芭蕉と西鶴は二歳違いということになるから、二人は同じ世代を生きてきたことになる。西鶴の師でもあった宗因と一座したことのあった芭蕉だが、西鶴とは遂に相逢うことはなかった。後世、元禄の代表文人となる二人が、互いに面識を持たなかったということは、歴史の皮肉というほかはない。

 求道者的な芭蕉、町人生活に徹底した西鶴、といったことを考えると、仮りに二人が出逢ったとしたら求めるものが通じるだろうか。どうも合いそうな気がしないのである。西鶴は芭蕉を「只俳諧に思ひ人て心ざしふかし」と評しているが、『去来抄』のなかの芭蕉の言葉を引けば、

 

  世上の俳諧の文章を見るに、或は漢字を仮名に和らげ、或は和歌の文章に漢字を入れ、辞あらく賤しく云なし、

  或は人情を云うとても今日のさかしきくまぐまを探り求め、西鶴が浅間しく下れる姿有。吾徒の文章は慥かに

作意を立、文字はたとひ漢字をがるとも、なだらかに云ひつyけ、事は鄙俗の上に反ぶとも、懐しくいゝとる

べしとなり。

 

とあり、芭蕉は西鶴を「下れる姿」とみているのである。蕉風と談林では所詮比べることが無理だというほかはない。「懐しくいゝとるべし」は芭蕉の得意とするところだが、西鶴ならこんないい方は金輪際しないであろう。出身もイデオロギーも違えば、噛み合わぬことは、これにてもわかるような気がする。

 去来とても筆をとりながら、まさに先師のいう通りである、と思っていたに違いない。しかし、其角となると少し違うのである。其角は「句兄弟」のなかで、西隔の「鯛は花は見ぬ里もありけふの月」の句をあげて、「折にふれては顔なつかし」といっている。

  其角には、

    住吉にて西嶋が矢数俳諧せし時には後見たのみければ

   驥の歩み二万句の蝿あふぎけり

 

の句があるように、貞享元年(一六八四)住吉神社における西鶴の一昼夜二万三千五百句独吟に居合わせたのである。西鶴が其角に好意をもっていたとしてもこれは不思議ではないし、また、其角が「顔なつかし」と西鶴を思いやっても自然だと思う。後年、其角が蕉風に追随しないで自己の俳風を押し進めたからかくいうのではない。其角のもって生まれた伊達、洒落風を思えば、西鶴が手をさしのべて銀子を求めたとしても、少しも不自然なことではないであろう。

 ところで、西郷の作品(小説)は今日までたくさんの人びとに読み継がれてきているのに、西鶴そのものの出自はそれほどはっきりしているわけではない。そのことを語るものとして常に引用されるものに、

伊藤梅宇の『見聞談叢』にみる次の一節がある。

 

  貞享・元禄ノ比、摂ノ大坂淳二平山藤五卜云フ町人アリ。有徳ナルモノナレルガ、

妻モハヤク死シ、一女アレドモ盲目、ソレモ死セリ。名跡ヲ手代ニ譲リテ、

僧ニモナラズ世界ヲ目由ニ暮シ、行脚同事ニテ頭陀袋ヲカケ、

  半年程諸方ヲ巡リテハ宿へ帰リ、甚誹諧ヲコノミテー晶ヲシタヒ、

後ニハ又流義モ自己ノ流義ニナリ、名ヲ西鶴トアラタメ、

永代蔵又ハ西ノ海又ハ世上四民雛形ナド云フ書ヲ作レルモノナリ。

 

 大阪の裕福な町人の子として生まれた平山藤五が即ち西鶴ということになるが、井原姓を名乗ったのは、其角が母方の姓複本氏を名乗ったと同じように、西鶴母方の娃である井原氏を称したのであろうといわれている。西鶴は初号に鶴水を用いていたが、

 

     西山梅翁庵にて

   比度や師を笠に着て梅の花

 

延宝三年(一六七五)のこの句に四知の号を初めて用いており、西山宗因の自他の四の一宇を鶴に冠したのであろうといわれている。延宝三年は百韻の三十四歳の時で、『大坂独吟集』に彼の連句がまとまって載ったということからも記念すべき年なのである。

 しかし、また、一方において、この年は「妻ハヤク死シ」たる年でもあったのである。盲の一女とともにこのことは、西鶴の家族に触れたものとして注目すべき記事である。男性中心の封建社会では、家庭とくに妻女のことについては殆ど触れてないのが常であるが、妻に早く死なれ、そのうえ盲目の娘がいたということは、西鶴の心の負担を重くしていたに違いない。娘は三人いて、そのうちの一人が盲目であり、妻は幼なじみの愛妻(二十五歳)であったというから、その嘆きは推して知るべきものがある。

 西鶴が江戸の芭蕉庵で死んだのは元禄七年六月、その時芭蕉は落柿舎にいたが、

「数ならぬ身となおひそ玉祭り」の句を詠んでおり、「奇貨無仕合もの、まさ・おふう同じく寿貞不仕合」と涙をこらえて手紙を認めたが、若妻を喪った三十四歳の西鶴はこうはいかなかったであろう。

 

 芭蕉が涙をこらえてというのは、ぼくの創造だが芭蕉は俳諧以外のものはこれを同列としない、といった風がみえるのである。もちろんこれは厳しい芭蕉流の一つの生き方であるが、同じ俳諧師ではあっても西鶴は手放しで泣いたに違いない。

 妻の病気に疱瘡であったというが、西鶴は初七日の四月八日に、

  

脈のあがる手を合してよ無常鳥(ほととぎす) 

次第に息はみじか夜十念

   泳浴を四月の三日坊主にて

 

に始まる愛妻追悼独吟千句を試みるのである。これが「俳諧独吟一日干句」といわれるものであるが、その自序に「明るより暮るゝまでに独吟に一日千句、干肉にも成なんと執筆も一人して」とあるように、すべて一人で成したのである。西鶴がいかに妻を愛していたかということは、これで明白であるが、そのことを含めて、西鶴の人間像がわかるような気がするのである。

 さて、そろそろ西鶴の発句に触れなければならないのだが、西鶴の得意とするところは連句であって、彼の旺盛な創性欲を満たすには、十七字完結の発句では十分でなかったのである。三十三間堂の通し矢にならっての俳諧大矢数にこそ、その手腕を自由奔放に発揮できたのである。連吟連想の妙には、後年の小説家としての西鶴の姿が窺われるといってよかろう。

 藤井紫影博士は『名家俳句集』のなかの西鶴句集に触れて、「西郷は宗因門下の暁将なれども、其句の伝けるもの多からず、諸種の句集短冊等より拾集して、漸く七八十句を得たり而して其句の俊秀なるもの亦少し」と述べている。「俊秀なるもの亦少し」はおくとしても、その俊の百韻研究によって、発句の数にもっと増えているはずであるが、いまは『名家作句集』を中心にその句の二、三を採り上げてみることにする。

 

     むかし男の眺めすてし片野の花にゆきて

なんと世に櫻も咲かず下戸ならば

 

 花を見、花見酒を飲む、それは楽しいことに違いないが、慌しく散っていく桜も咲かず、酒も飲めないほうが、いっそ穏やかでいいのではないか、という句意であることはすぐにわかろう。それにこの句には、「かかし男の眺めすてし片野の花にゆきて」という前言が付いているから、『伊勢物語』がすぐに浮んでくるし、同時に業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の歌にも思いが至るはずである。

「下戸ならば」に俳諧的味わいありともいえるが、「南都諸白(もろはく 清酒のこと)と言付けたる一樽、はるばるおくられけれども、我下戸なればさのみ嬉しからず」と、いっていることからみれば、西鶴自身は酒を嗜またがったのであろう。

 

春遅し山田につづく茱(ぐみ)はやし

   本丸の古うづむ馬酔木かな

五月雨や淀の小橋の水行燈

月夜のあとや見あぐる高やぐら

こういう句は比較的好もしいと思うのだが、西鶴作品のなかでは西鶴らしくない作なのである。前にも述べたように、遠吟縦横、才気喚発に付ける連句が得意であったから、おとなしい写生句といったものには、西鶴はあまり興味をもっていなかったのであろう。「本丸」の句について内藤吐天氏は、西鶴らしくない佳句と認めながら「たまたま自然を静観した時に出来た句であろう」と述べている。

 では西鶴らしい句とはどんな句であろうか。次にあげてみることにする。

 

しれぬ世や釈迦の死跡にかねがある

 

 世の中の明日のことは誰にもわからない。人の行く末のわからぬのも常だが、お釈迦様が死んでみると、その跡にたくさんの金が残されていた。いったいこれはどういうことだ。悟りをひらいた聖者であるはずなのに。というわけだが、これは釈迦の説法が八干巻の経巻に当たるということから、八千巻を銭のハ干貫に置き換えているのである。何だつまらぬと思うのは、ぼくらが蕉風的な発句になじんでいるからであって、この句は談林の発句として味わうべきなのである。

 

盗人と思ひながらもそら寝入り

    親子の中へあしをさしこみ

胸の火やすこし心を置き炬燵

    揚屋ながらには始めての宿

  なんと亭主替った恋は御ざらぬか

    きのふもたはけが死んだと申す

 

 これは西鶴の「大矢数」のなかの作品で、よく引き合いに出される一連であるが、その付けの新鮮で、奔放なること、まことに談林の特色を生かしているとともに、西鶴の持ち味を十二分に発揮しているといってよかろう。しかしいうまでもなく、かかる味わいは一句独立の発句では不可能なのである。

 

  軽口にまかせてなけよほとゝぎす

 

 この句には次のような前言がついているが、それを読めばこの句の意味はおのずから通ずるといってよかろう。

「伏見の里に日高につき、下り舟待ついとまありければ、西岸珊のもとへ尋ねげるに、

折ふし淀の人所望にて任口、鳴きますかよゝ/\よどのほとゝぎす、

めづらしき句を聞き、我もあいさつに此句を言捨て、其のよも七すがら、

ひとりねられぬまゝに、言いつゞけ行くに、あかつきのかね、

八軒屋の庭鳥におどろき侍る。」

 

とは、いかにも長いが、西岸寺の住職任口上人の詠んだ調子のよい句のよように、ほととぎすよ、鳴きなさい、と詠んだのである。いうまでもなく、「口にまかせて」は任口にひっかけているのである。ちなみに、任口上人も談林の俳人である。

   大晦日定めなき世の定め哉

 

 当時の社会における大晦日は、一年の決算日である。越すに越されず越されずに越す、などといわれる通りだが、その大晦日は、世の中がどんなに定めなくとも必ずやってくる。それがまた定めなき世の定めだというのである。西鶴四十一歳の作。

 この句には、「吉田の主人つれづれ草に書出し世間は典侍も今も」という前書もあるのであるが、『徒然草』の第十九段の一節をここにあげるまでもなく、西鶴後年の『世間胸算用』の作品などが思い合わされることから、散文への前兆的作品とみられなくもないのである。

  

桔野哉つばなの時の女櫛

 

 小説的な句といっていいかと思う。冬枯れの野に女櫛なみつけたのである。そして、それは茅花を摘みにきた特に若い女が落としていったものだろう、というのが句意である。

 もとよりこの句に写生的な句ではない。それだけに、枯野の淋しい景とともに、そこに落ちていた櫛を通して、西鶴はあれこれともの思いに耽ったことであろう。晩年の西鶴の句としては健康すぐれぬわりに艶なる味わいうぃ含んでいる作でもある。

 

   蝉きいて夫婦いさかひはつる哉    (五十歳)

   玉笹や不断時雨るゝ元箱哉        々

   山茶花を旅人に見する伏見哉       々

   世に住まば聞けと師走の碪(きぬた)哉  々

   里人は突臼かやす花野哉       (五十一歳)

   海士の子の足袋履く姿見る世哉      々

 

 これらはいずれも晩年の作であるが、

ここには「世こぞって濁れり、我ひとり清(すめ)り」「朝干夕聞(あしたにゆうにきく)」は、耳の底にかびはへて口に苔を生じ、いつきくも老いのくりごと益なし」(生玉万句)と、貞門派の罵声を受けて立った百韻の、このような言葉を通しての闘志満々たる新人意識は影をひそめてしまっている。

 談林の闘将、阿弥陀西鶴と騒がれた面影はもはやない。人生の枯れにそのまま順応しているともいえるような作品となっている。

’「思ふに西鶴がもう少し長生きして、且つ更に句作の方面に帰って来たなら、一種の渋い俳諧を作り出したのではなからうか」とは潁原退蔵博士の言であるが、それは叶わぬことであった。


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