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素堂と蕉門俳論 1、芭蕉と素堂の俳論

2023年08月03日 14時26分42秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

素堂と蕉門俳論

1、芭蕉と素堂の俳論

 芭蕉の俳論と素堂のそれとは、付かず離れずの関係であったことは、これまで述べて来たところであるが、芭蕉には自ら著した『俳論』は無い。何れも門人たちの「芭蕉翁聞き書き」(蕉翁語録で、芭蕉自身での俳論にふれているのは手紙の中だけである。従って前にも記した通り、多くの研究論文が成されているから個々では一々掲出せず、素堂との対比に比重を置いて述べたい。

 

 芭蕉の正風(蕉風)俳諧から発句へ

 芭蕉の正風(蕉風)と云う新風を、確実に出して来るのは元禄時代に入ってからで、それまでは模索の時代であろう。確かに天和年以降になると、後年の蕉風らしさが出て来るが、芭蕉の本質は発句(俳句)にあり、門弟たちを嘆かせるほど、延宝・天和期の句が変貌する。つまり発表・未発表の句にかゝわらず、推敲が上で蕉風として出て来るからで、これを看過すると、芭蕉自体の蕉風確立への形態が見えて来ない。芭蕉は俳諧から発句主体の、今日で云う俳句へと主眼を変えたのである。

 延宝八年初夏「桃青の園には一流探し」(嵐蘭歌仙挙句)の自賛句もある「桃青門弟独吟二十歌仙』に続き仲秋目付けで嵐亭治助(嵐雪)序の『桃翁、羽々斎にゐまして、為に俳諧無儘経を説く。東坡が風情、杜子がしゃれ、で知られる其角の二十番自句合「田舎の句合」など、宗因流(談林風)の付句法によるものだが、芭蕉も句作法の模索の時期であった。この様な時に素堂序の「誹枕」が板行され、素堂が序文で「漢詩も和歌・連歌・俳諧も、その文芸性は根底では一つ、旅により受けるこの道の情と生き方は風雅」に触発されたものであろう、翌九年七月「俳諧次韻」をして、新風追求への意欲を示した。

                        

 これより前の五月十五日付け(翌年との鋭もある)で高山伝右衛門(麋塒・ビジ)宛てで

 (前文略)京大坂江戸共に俳諧の外古く成り候ひて、皆同じ事のみに成り候折りふし、所々思ひ入れ替り候を、宗匠たる者もいまだ三四年已然の俳諧になづみ、大かたは古めきたるやうに御坐候へば、学者猶俳諧にまよひ、爰元にても多くは風情あしき作者共見え申し候。(中略)玉句の内三四句も加筆仕り候。句作のいきやうあらまし、此の如くに御坐候。

   一、 一句前句に全体はまる事、古風中興とも申すべき哉。

   一、 俗語の遣ひやう、風流なくて又古風にまぎれ候事。

   一、 一句細工に仕立て候事、不用に候事。

   一、 古人の名を取り出でて、何々の白雲などと云ひ捨つる事、第一古

風にて候事。

  • 二文字あまり、三四字、五七字あまり候ひても、句のひびき能候

へばよろしく、

一字にても口にたまり候を、御吟味有るべき事。(以下略)

 

芭蕉は俳風の変革期に処して、最新の風だと自負する、句作の狙いと付句の例を示している。解説の必要はなかろう。

延宝八年の七月二十五日付け木因宛の手紙では

   (前略)昨日終日御草臥なさるべく候、されど玉句殊の外出来候ひて、

拙者に於いて大慶に存じ候。それに就き「香箸」の五文字、いかにも御

尤もに存ぜられ候間「かれ枝」と御直し成さるペく候。愚句も「鳥の句」

「猿の句」皆しそこなひ、残念に存じ候。

「寝に行く蝿の鳥つるらん」といふ句にて御重有るべきを、急なる席故

矢ごろをはやくはなち、面目もなき仕合はせにて御坐候。以下略

 

この後は素堂訪問の打ち合わせなどである。また日付は欠けているが素堂訪問後の手紙で

  

今朝は御意を得珍重、今少々に罷り成り、汲々御残り多く存じ奉り候。

且つ文、第三致し候、河豚ノ子とありて秋めかしく候故、秋季□□置き

候。むつかしく思召し候はば御かへし菅成さる可く候。五文字〔上五の

こと〕蛤ともこちのこにも□候へ共、清書之致様あしく候はゞ、是又可

被仰聞候。(以下略)

 

素堂亭での三物をしたが、清書して木因に与える際のもので、第三の芭蕉の句は

    河豚ノ子は酒乞ひ蟹は月を見て

とあったものを手直しした事が判る。木因添状によると

     木因大雅のおとづれを得て

    秋とはゞよ詞はなくて江戸の隠   素堂

鯔鈎の賦に筆を棹(サヲサス)   木因

鯒鴻の子は酒乞ヒ蟹は月を見て   芭蕉

と清書した事が記されている。翌天和二年三月二十日付木因宛で、大垣俳人の後見指導すゝめ、木因の句の評をしている。

 

  (前文略)

且つ貴翁御発句感心仕候。猫を釣夜〔柳ざれてあらしに猪ヲ釣ル夜哉-虚

  哉 「虚栗」所載)其気色眼前に覚候。土筆をしぞ〔不明〕是猶妙、御作

意次第改るに被覚珍重、兎角日々月々に改る心之れ無く候らはでは、聞く人

もあぐみ作者も泥付く事に御坐候へば、随分御心ヲ被賭留められ、人々〔大

垣俳人〕御いさめ可被候。

 

天和二年暮の大火で焼け出され、翌三年五月に流寓先から江戸に戻った芭蕉は、其角撰の「虚栗」に鼓舞書を著した事は前出の通りである。こゝで素堂の「誹枕序」を自分成りに消化した芭蕉は、李・杜・白氏・西行らの風流を追う新風を宣示し、貞享元年(天和四年)「甲子吟行」(野ざらし紀行)の旅に上ったのである。この旅の途中、名古屋で「尾張五歌仙」を行い『冬の日』として板行し、天和の漢詩文詞を脱して蕉風樹立を示し、翌二年正月廿八日付半残宛で

 

  • 江戸句帳等、なまぎたへなる句、或は云たらぬ句共多見え申候ヲ、

若し手本と思し召し御句作成され候らはゞ、聊かちがいも御坐有る可く候。みなし栗なども、さたのかぎりなる句共多く見え申候。唯李・杜・定家・西行等の御作等、御手本と御心得成さる可く候。先此度之御句以下略

 

と、虚栗鼓舞書の新風をすゝめている。

 

貞享四年秋、素望との蓑虫贈答で素堂の「蓑虫記」に跋文を書いたが、素堂は「みのむし記」で芭蕉の才気ばしることを戒めているが、その冬十月廿五日帰郷の旅びと「卯辰紀行」(笈の小文)に出発した。その直後の十一月、素堂の序文を得た其角撰「続虚栗」が板行された。芭蕉が素堂の序文をつぶさに見ていることは「笈の小文」にある。

 

   見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像

花にあらざる時は戎狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄

を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

 

これが後に「不易流行論」に発展するのである。また芭蕉の俳諧思想と云う「虚実論」もこの辺りから盛んにされる。尚、虚実の初出は「常盤屋句合」(延宝八年)中の芭蕉の句評で、

勝ち句 だいだいを蜜柑と金柑の笑て曰

で「橙を蜜柑金柑の論は、作のうちに作者て、虚の中に実をふくめり。数句の中の秀逸、此句に於て荘周が心凍らむ。尤玩味すべし云々」とある。

貞享四年十一月け四日付寂照(知足)宛で

 

    風俗そろそろ改り候はゞ、猶露命しばらくの形見共思召被下候。云々

 

つまり、現実を仮象と見る無常観によった語だが、「虚に居て実を行う、実に居て虚を行うには非ず」である。言わば「虚に入りて実に至り、虚に居て実に遊ぶ」と云うことである。

素堂は『続虚栗』序で「漆園の書いふものはものはしらずと、我しらざるによ巧いふならく」と皮肉っているのである。

 芭蕉の俳諧感を見ると、修辞上の滑稽は造化の秘を発く事によって帰趣とした。従ってその詠は人事よりも自然が多かった。つまり、現実の生活を肯定して、その中で風雅の世界を求めることで、生活そのものには立ち入らずに、現実と永遠、いわゆる虚と実の中に道を求める処世の態度を維持する。また古人の心をもとめて幽玄体を追求する、よって逃避的な物の哀れに走ると云う。つまり、道に対して継承すべき伝統の発見と自覚により、幽玄・清淡・風雅を生じる。〔風雅の誠を勧め、心身を苦しめて絶す〕新しい表現をしようとする態度だと云うのである。

 

物の辞典には蕉風(正風)について

 松尾芭蕉の始めた俳諧の作風。その精神は寂(サビ)侘(シヲリ)細みを重んじ、連句の付様に、うつり・ひびき・匂・位を重んじ云々

と云う。連句の付様は、貞徳期の物付では前の句の意味を取り、新しい事柄を加えて行くのであるが、宗因の談林風は心付で、前の句の意味を取り、新しい事柄を加えて行くと云う斬新奇抜な俳諧を興し、蕉風では心付を土台にして、前の句にある余情を汲んで付ける匂付とした。つまり貞門俳諧の流れを汲んで、匂・響き・俤・移り・位の各付を勧め、発句の美的理念に、さび・しをり・ほそみを重視したのである。

 

蕉風の理念が確立する経過

 さて、蕉風の理念が確立するには、如何なる過程を経ているいるのであろうか、素堂と芭蕉の親密関係の成立に関しての一例として、『俳諧芭蕉談・乾之巻』に

 

素堂云、

我翁にはじめて対面せし時、俳諧と連歌と心得いかゞすべきと間しに、

翁云、連歌はやさしく歌の上下を分てり、一句一句にこととゝのひたる

をもつて、百韻千句も心をつらぬるなり。故に聯の字義なり。俳諧は俚言

たはむれて、たゞに今日世俗の上なり。

 

とあり、続いて後年の素堂の芭蕉感を述べている。〔恐らく貞享年間のこと〕

 

此一言にて我、翁の俳諧を思ふに、翁の俳諧は心を用ゆる所、さらにひ

としからず。

是を以一家の躰とす。格はともにひとし。連歌をかろめて去嫌やすくす。其心連歌は前句を放たずその理にこたへ、そのものにこたへてさらに離れず。

はせをの俳諧は、前句の心を知てねばりを放つ、一句の物に感合す。

ものゝ情をさぐり知て附ければ、これを魂ともいわんか。

 

 芭蕉は季吟門であるから、季吟との応答は判るが、素堂が季吟門でないことは、季吟撰の「続連珠」(延宝四年)に入集が無い事から証明できるが、唯し、潮春が「信章興行に」(『二十回集』)の詞書で附句をしているから、延宝二年の『廿全集』興行以外季吟七の関係は判らない。

しかし、前掲書に古今・万葉にふれて

 

古今集の序に六義を説く、季吟俳諧に六義を分つ、其義あたれる事にや。 

翁云、

凡六義は詩の事なるを、和歌の義にしたるは、詩歌一徹の道理なれば尤なれども、いまだ六義経緯の説にあたらず。我、季吟に此事を間しに、

季吟云、

道を述べるための儲けなりと。

 去々年の頃、素堂に季吟の答えを語りしに、

  素堂云、

儲けなり、凡そ六義を皆格別なりとおのへり。風雅の頌の内に(中略)

わきて風雅のたつは、歌にては得分がたかるべし。

素堂云、

今の人歌よむに、万葉躰て詰屈なる事をよむ人あり。万葉は詩の三百編

ごとし。後世の体裁自ら別なり。詩に古今の躰り、詩経の體又作る事も

有べし。…中略…時世の風俗をしらずとやいはん。古今集は、今躰に比

すれば盛唐の風ありといへり。此躰ぞ本とすべき、万葉は其材を取る所

なり。其体裁のごときは、尽く習ふべきにあらずといはん。はせを曰く、

乱きはまって治に入の諺ならんと。予、此一言を感心す。

 

 古学庵仏兮・幻窓湖中共編の「俳諧一葉某集」に

季吟云、

或時挑青申せれけるは、万葉集を周覧せしに、全篇、諸兄卿のえらび給ひたるものとは見えず。多くは其人々の家の集を、後によせ集めたるものと見ゆと也。此こと予が見識の及ぶ処にあらず。桃青の云ことを聞てより、大に利をえたりと。季吟物がたり、素堂より伝ふ。

 

恐らく延宝年代のものであろう。以上掲出した条から見ると、素堂は芭蕉をはさんで季吟と、かなり親しく会っている事が判る。

 

素堂『松の奥』

 素堂の『松の奥』は、遅くとも元禄初年には編纂が終わっていたと考えられ、蕉風の俳論に寄与したと思われる。芭蕉は季吟の俳諧奥書「埋木」を延宝二年に伝授されているが、素堂がどの様な経路で入手したかは不明だが手に入れていた。

清水茂夫氏の研究によると(松の奥について)

「俳諧理木」は故実作法の集大成した物で、編纂資料は藤原清輔の奥儀抄・順徳院の八雲御抄・定家偽書の三五記・愚秘抄・心敬のささめごと・宗舐の古今和歌集両度聞書・飛鳥井家の古来秘伝抄・尚伯の連歌秘伝抄・宗養の三巻集と連歌秘袖集と紹巴の連歌教訓などがあるとされいる。

 これに対して素堂の『』

 

 

元の「俳酵初学抄」(寛永十八年成)などに、「清巌茶話」と分析され、多くは「理木」

を参用していると云う。元禄六年三月、芭蕉より許六に与えられたと云う「大秘伝白砂人

糞」は、前半が紹巴の「連歌教訓」に類似し、後半は宗養の「連歌秘袖抄」に大半が類似

とされる。連歌教訓は玄仇に与えられ、貞徳が秘写して季吟に伝えられて、連歌秘袖抄は

 

 

N三好長慶外に亨与られたものが、貞徳に伝えられた。恐らく貞徳の後を継いだ季吟が受

たのであろう。無記名の序であるから、誰が著したのかは分からないが、これを芭蕉が・

吟から与えられたか、筆写したものであろう。或は芭蕉自身が構成したのかも知れない。

元禄六年三月に芭蕉から許六に伝授され、軍水六年許六より雲鈴(雲黄門)へ伝授、攣

 これが葛飾の二世素丸の手に渡ったのである。

 『棍の奥』 とサ僅仙風俳誌耐

 素堂の『松の奥』は編纂後、芭蕉が「奥の細道」に出発するまでには渡されていたと

ぇられるが、素堂にはいま三元禄三年十二月廿日奥の『松と梅序』がある。三年十二

と亭見ば、芭蕉は「奥の細道」の吟行を終えてから一年四カ月、江戸には帰らず諸所を

って京都より近江大津の門人乙州の家にいた。これより前の九月十二日付けで、前掲の

良宛の手紙を発信しており、九月廿六日付けで曹長よりの返信で、

 一、ノ前略…虚雪集出来、其袋と申候、自序にて御座喝中々出来申候。義堂手伝

     承候。発句・歌仙等…以下略

  一、前略…幻住庵之記之事農入存候、拝見仕度候。

と伝えている。尚、前出の「笈の小文」だが、卯辰紀行あるいは芳野紀行と云い、旅行ノ

は未完の種々の草稿、つまり断片的なメモであり、乙州宅に有った頃に推臥した句文なや

を、芭蕉の死後に乙州が編集し、題名は芭蕉が別の旗集名にとしていたのを流用したもの

                                              ヽ

である。従って、内容は「奥の細道」以後の芭蕉の俳瞥感が顕著に表れている。前掲の■

 「像、花に…」の前文は

  西行の和歌における、宗紙の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における

  その貫達するものは一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて、四時を

  友とす。見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ力にあらずといふこと

                                                                                                                                                                                                                            一

                                                                                    一

   なし。像、花にあらざる時は…

とつづく。義堂の「続虚業序」の『花に時の花あり、つひの花あり。…』を踏ま,見て云う

のであり、前掲のF素掌石、云々、我、爵の盛柑を思ふに、翁の俳常は心を用ゆj所…L

の評になっており、素堂は心を届』と表現している。この年あたりから俳糖の凝程の差

となって束たと考えられる。従って素堂の『松の奥』は貞享斯頃の素堂の胱海感が反映し

ており、蕉門の俳論『去来抄・三冊子等』は元禄期の芭蕉の俳辞感が、述作されているの

である。芭蕉が『松の奥』を消化してからは、素堂は『枯淡味』を深める傾向に進み、芭

蕉は¶風雅の魔心にとりつかれ、懐疑し、苦悶しっゝ』一筋に俳潜を追求して行ったので

ある。その性格を真空の「清閑淡白」に例えれば、芭蕉は情熱的に義堂の云う「ねばり」

 

であろう。従って「幽玄体を追求して、物の哀れに走る」のである。

 

 本題の¶松の奥』と『蕉門俳論Lを比較してみると

 

切字について¶松の奥』は十八草の切字にとらわれず、内容の切れを説き、『蕉門』は内

容の切れを説く。素堂は用い方で四十八字皆切字也としながらも、伝統的怒作法によろう

とし、用いない時は一字も切字なしとし、後には静来の切れの形式を否定するに至る。

 松の奥

 

  …排他の書といふに多くあらはす事、尤初心のため也。ここに初心の人、あやしき

  切手用る事なかれ。上工のうへには心が旬也。句は則心也。此故に切字無くても語

 

  絶する也。されば切字は助語字なり、語絶を本意とす。是なければ平旬なり。凡切

 

   字は右の十八字に限るべからず候。噺する中にも切享有、いろは四十八字皆切字也。

 

   亦触州名の切といふあり、是も人の論ずる事にて引てはなたず。云々

 

 去来抄故実

 ・:切手を入る旬は、句を切ため也。きれたる旬は、字を以て切るに壌。いまだ旬

  の切れる〆切を、不知作者の為に先達而切字の数を定らる。此定の字を入れては十

  に七八は、おのづから旬切るせ。残り二三は入れて〆切句、入れずして切る句有り。

   此故に、或は此やは、口合のや、此しは過去のしにして不切、或は是は三段切、是

 

   は何切れなどと名目して伝授事にせり。…先師日、きれ字に用時は、四十八字皆切

 

   字也。不用時は一字もきれじなしと也。(岩波文庫本、句読点は筆者が手を入る)

 

 『文章をつゞる事』では、良い俳文とは、俳意が強く詞が洗練されている、新味のある

文章であること、始めに構想をしっかり立て~書くこと。結びに、文章作成には和凛の書

物を熟覧が肝要と、作者の才覚が重要であると指摘している。蕉風では「三冊子」 (自さ

うし・岩波文庫) に類似の記述が見られる。

 

 松爪り奥

 

   いかにも俳意つよく、俗紋平話の内に、辞の取り合せやさしく、新作専一也。二幅

  めづらしく、詞のうつり能続き傲く事尤也。何の文にもせよ、始めに七くと趣向を

   定め、おもひめぐらして、大概心にて木どりして作るべし。云々

 

 去来=抄故実

 

  先師日く、世上俳辞の文章を見るに、或は漢文を仮名に和らげ、或は和歌の文章に

  漢字を入れ、詞あしく臆しく云ひなし、或は人情を云ふとても、今日のさかしきくNの   まぐまを探り求め、西鶴が浅ましく下れる婆あり。我が徒の文章は、たしかに作意

 

   を立てて、文章はたとひ漢字をかるとも、なだらかに云ひつづけ、事は 語の上に

 

   及ぶとも、懐かしく云ひとるべしと也。

 

両者とも俳文観は同じであり、『俳犯粕一斗葉集』 では

   ∴文章の事、翁目、惣名を文章と云也。序に由序・来序・内序と云三体あり。由

 

   は起るよしを書。来は是より先の事を書。内は其書の内の事を書也。此三体を一に

  して序一ツにも書也。鷲ふでとゞまる也。序有て鷲り。序も菅基いふ所同じ。

  巌は序を猶委しく云たるもの也。ふみとまりて委しくするの心也。庄野ともに年号

   月を書。五亨七字書は長歌の格也。七五三などノ地め詞乱に書。或は対、ある時は

 

   必対を置。古事を置時は、古事の対・野山・水辺・生類等おの/\l対同前也。詞書

 

   真書やう和に習ひなし、漢には其あやもある事と也。記は其物を記すの心地。格は

  序隊に同じ、意のみ違のみ。銘は前に同じ、意のちがふのみ。讃はほむるの心也。

   すなはち山吹に句をするときは、山吹をほめて贅也。山吹を褒美の義理也。惣て文

 

   章に昔時、四五字′/\、に書。太かたの格なりと宣へり。

俳文の種類では序・昭文章をつゞる格では素堂ほど細かく分類はしていないが、殆ど同

様である。「ふれるとふれぬの別」 「句の風姿」などで、共通の類似点が相当にある。

 連句の『恋の旬』では、連歌の規定で「二句以上五句」とされているが、『松の奥』で

 

は『恋の旬多くは同じ心になる故に、二旬にて捨てたるがよし。又同じ心にならぬ旬は、

 

此限りにあらず。…中略…亦二句一意と申すは、前句を阿句にして釈したる也。是も沈思

 

のうへにある事也。心得べし云々』と云う。

 

 F去来抄しでは『松の奥』と殆ど同じであるが、二旬連続すると二座に一度出た事で、

敬遠する傾向が生じて一巻中に稀になるから、つけ難い時は一旬だ…けにして、出遡をべき

だ』と主張する。これは『松の奥』を踏まえているのである。

 『連句の付合』では¶松の奥』は「連歌論」 「貞門俳緒論」の付合、打添・違・くらべ

対・名所付・比曹・てには留・畳字などを列記して継承集成してい高が、蕉風のにほひ・

ひびき・うつり・位・おもかげ・走りなどには触れていない。たゞしF素翁口伝』■では登

 

場する。つまり『蕉風』は元禄三年以降の成立と見る事が出来る。

 また、この著の重要なところに「不易流行論」をあげている。前述のように素堂は「続

 

虚栗序」で不易流行とは銘打って論を展開していないが、『松の奥』では

  抑俳蛤の姿、此後の風情いくそ度か移りかはりて行べし。此ごろも人のいふなる、

   宗因何事か有らんなど爪はじきするあり、疎ずべからず。時代あり、今をよしとし

 

   て、昔をあしとにもあらず。古きに俺ば新らしきにうつり、其あたらしきも亦古め

  かしくなりては、又本のふるきが斬らしきとて、取り出しなん。詩にも盛唐晩唐の

   変態あり、和歌なほ囁阿の功よりして、往古の風に帰れりとぞ。めでたくめでたく

  て、只不易の花の姿こそあらまほしけれ。丁しろは作り過七り。其時は物うるさし

   陵しなどと云もすれど、それも亦先日人のならずや。唯此日の本に、花鳥の姿を慎

 

   まんには、いかにうつり行替るとも、曽て移りかはらざる物あり、其うつりかはら

 

   ざるものは何ものぞ。

 

これが編纂時(元禄初年ころ) の素堂の意識で、元禄五年次の一字幽蘭集序でも同様な論

 

を述べている。芭蕉の「不易流行論」の始まりは、元禄二年の「奥の細道」で、羽黒の図

 

司露丸 (呂丸) らに語ったもので、呂丸が「聞書七日草」として纏めた中に

 

   景物その他何によらず、世上に専らと行る~に従ひ、いろ/l~さまぐの形変化仕

 

   るにて候へば、あなかしこ、変化を以て此道の花と御心畑侍なさるべく候也。こ~に

 

  天地固有の俳世あり。いたるべし、たのしむべし。・・・中略・=

   花を見る、鳥を聞く、たとへ一旬にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち、

 

   これまた天地流行のはいかいにて、おもひ邪なき物也。しかもうち得ていふ人にい

        †

  はば、この心とこしなへ七たのしミ、南去北来、仁道の旅人と成て、起居言動に身

   治まるを、虚に居て実に遊ぶとも、虚に入て実にいたるとも、うけたまはり侍る。

 

とある。芭耕焦は

 

   われ等は何れもむつかしく候へば、心にうかみたるをうち出て、更に外を求めず。

 

  とかく人情の俳辞なればと、よきはよきまゝに、悪しきは属しきまゝに云々

この旅では金沢で門人となった立花北枝に、語った俳論をまとめたW「三四考」 (ヰに「北

枝考」 「山中問答」がある)滋もあるが省き、「俳轄二葉集」の語録F不易流行』は

   二翁目、万代不易あり、一時の変化あり。此こに究る。基本一也。其一といふは

  風雅の誠也。不易をしらざれば実に知にあらず。不易と云は新吉によらず、■変化流

  行にもか~はらず、まことによく立たる姿也。代々の歌人の歌を見るに、偲々其変

  化あり。又新苗にもわたらず。今見る所、昔見しにかわらず。あはれなる歌多し。

  是先不易と心得べし。又、千変万化するものは自然の理也。変化にうつらざれば、

  風あらたまらず。是に押うつらずと云は、一端流行に口質時をえたるばかりにて、

 

  其誠をせめざる故なり。せめず心をこらさゞるもの、誠の変化を知ことなし。只人

   にあやかりて行のみ也。せむるものは其地に足を居がたく、一歩自然にす~む理也。

  行末いく千変万化するとも、仮に滝古人の延をなむることなし。四時の押うつるご

   とく物あらたまる、みな斯のごとしと重り。

 

   て翁日、乾坤の変は風雅のたね也。静なるものは不変の姿也。動るものは変也。

  時としてとめざればとゞまらず。止ると云は見とめ聞とむる也。飛花落葉の散みだ

 

   る~も、具申にして見とめ闇とめざれば、おさまることなし。是清たる物だに消て

 

   跡なし。又旬件りに物の見えたる光り、いまだ心に消ぎる中にいひとむペし。云々

 

とあり、義堂の論と差程の違いはないが、芭蕉流に鯨釈を押し進めているのである。連句

 

の付にしても

  ∴翁日、付といふ筋は、馨・響・儲・移り・推量などと、形なきより起る所也。

   心通ぜざれば及びがたき処也。

 

と、言わしめている。

 

 蕉風三変とは、「虚棄」のあとの「冬の日」の蕉風樹立斯、ついで「続虚栗」と「松の

奥」のあとの「猿蓑」で、さび (寂) の確立斯、つゞいて元禄七年の「炭俵」のかるみで

 

ある。土≠方の 「赤冊子」では

 

   新しみはつねにせむるゆへに、一歩自然にす~む地より顕はる~也。

 

と、芭蕉の言葉を記している。

 

 芭蕉が「軽み」に句境を拓こうとしたのは元禄四・五年ころからで、素堂の軽妙で淡白

であり、泡措の句晶のある表現を目指し、更に芭蕉らしさの「匂い付」をしょうとしたの

 

である。当然二人の句境は共に異なっている。学者詩人の素堂の教養・学識・多趣を加え

 

た、知性的な匂いと格調のある句品に比べ、情熱的詩人とも言える天才芭蕉は、風雅の底

を究めようと、その魔心にとりつかれて、一筋に懐疑し苦悶しっゝ俳辞にかけた皿だが

                                                                              一

素望も芭蕉もともに隠者の俳辞と辞し合ってはいるが、しかしその意味合いは、、それぐ.

違ってはいた。確かに芭蕉は偉大な俳人である。だがその陰に素堂と云う詩人が居たと云

 

うことを忘れる訳には行かないのである。

 

 俳糖は世俗に有って俗去の境地の打開が、不可欠の条件である。素堂は清閑生満に身を

                                                                                                   ー

置いたが、芭蕉は蕉風確立のため、清閑生活よりの脱出であったのである。

 

 芭-焦は「栖居之弁」で

 

   風雅もよしやこれまでにして、口を閉じむとすれば風情胸中をさそひて、物のちら

 

   めくや、風雅の魔心なるべし。

∽0N∽N00-N∽N NN

 

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