対馬島民とロシア軍艦
一八六一 (文久元)年二月三日、ロシアの軍艦ポサドニック号が、対馬の浅茅湾内に侵入し、その付近を測量し、つづいて三月四日、芋崎浦に停泊し、上陸しはじめた。名目は軍艦の修理であったが、木を伐り、営舎を建設し、どしどし永住の施設をかまえはじめたということは、この対馬を事実上支配下に
おこうという意図があったことが知られる。
それは、対馬が東アジアにおいて重要な位置にあったからだ。だからイギリス、フランスに対馬占領計画があるとの噂がでるや、ロシアは急いで手をつけたのだ。またこのことを知ったイギリスの駐日公使は、ロシアが対馬から退去しないときには、フランスと協力して対馬を占領し、さらには割譲させるべきだと本国に上申していた。
他方アメリカ公使は、対馬を西欧諸国に占領されるまえに国際自由港とすべきだとの意見をもっていた。たしかに対馬の位置は重要であった。欧米諸国は、すきがあれば対馬を自分のものにしようとねらっていたのである。
ところがこのロシアによる日本領土の事実上の占領という事態にたいして、藩や幕府は、きっぱりとした態度を示そうとはしなかった。四月一二日、ロシア水兵の一隊が大船越村に上陸しようとしたとき、これにたいして勇敢にたたかったのは、藩の武士ではなく、この村の農民であった。そのため一人が殺され、二人が捕えられた。この事件が局内に伝わるや、府内の郷士や農民たちは憤激して、老人や女・子供を安全なところにうつし、ロシア軍の侵略に断固抵抗しようとの意気にもえたった。
こうなると、「穏便に」すませることだけを考え、ロシアのなすがままにまかせていた藩政府も、武力対決の意向を示した。だがそのとき幕府の意見を聞いてからという逃げ口上も忘れていないのである。
そこへようやく幕府から外国奉行の小栗忠順(ただまさ)がやってきた。この小栗の態度は、藩よりも弱腰であった。一応ロシア軍に退去をもとめはしたが受容されるはずがない。それどころか、それまで藩政府が拒否していたロシア軍の藩主との面会と自由散歩の要求を認めてしまって、わずか二週間で江戸へ帰ってしまうありさまであった。
しかし藩政府は、自由散歩も土地の租借もゆるさなかった。藩政府は、もしロシア軍の望み通りにすれば、「一同不服、憤怒の人気取押相成り難く」なるからだと書いていた。
そこでロシア軍は、六ヵ月間もねばってもなお目的が達せられなかったので、イギリスの圧力もあって、八月二五日対馬を退去した。
この事件は、この時期の日本が、場合によっては植民地にされる危険が多分にあったこと、そしてそれにたいして本当に抵抗したのが、幕府や藩の武士ではなく、農民であることを示していた。
錨(いかり)を奪われた軍艦
世界に冠たる英国艦隊が、錨の鎖を切って後退し、その錨を敵にひろわれたとあっては、あまり名誉なことではあるまい。
一八六三(文久三)年七月二日、鹿児島湾は台風のためはげしい荒れ模様であった。数日前からイギリス軍艦は薩摩藩にたいして、生麦事件の犯人の逮捕・処刑および賠償金を要求するため、鹿児島湾におしよせてきていたのだが、その交渉がついに決裂した。
しかしイギリス側は薩摩藩の力を見くびっていたのか、戦闘準備をしておらず、鹿児島の砲台が火を吹くやあわてて、ある軍艦は錨をあげる余裕もなく鎖を切って後退するありさまであった。この錨が、のちに薩摩藩によってひろわれ、イギリスに返却されたのである。
この薩英戦争は、はじめはイギリス側の油断もあって、薩摩藩はかなりの戦果をあげた。イギリス艦隊七隻は、ほとんどが被害をうけ、旗艦の艦長以下一三名が戦死し五○名が負傷するありさまであったのに、薩摩藩の砲台の死者はわずか一名であった。
しかし防御側の被害も大きかった。砲台の射程距離外にでたイギリス艦隊は、ようやく陣容をととのえ、鹿児島の砲台や町を砲撃した。そのため砲台の大半が破壊され、市街地の約一割が焼かれた。
だがイギリス艦隊は、薩摩仰を完全に沈黙させることなく、翌日退去していった。だからこのとき軍艦に乗っていたイギリスの外交官は、滞日記録において「薩摩仰では、自分の力でイギリス艦隊か。旧去の止むなきに至らしめたと主張するのも無理ではなかろう」と書いているのである。
ところでこの事件は、イギリス側にも薩摩側にも、いろいろな教訓あたえたようである。
イギリスは、生麦事件の賠償にも応じようとしない薩摩藩を直接武力でたたくことによって攘夷主役を圧殺しようとしたのだが、この事件の結果かえって薩摩藩を見直すようになっていった。そのときイギリス外交官の頭のなかには、イギリスがインドや中国でうけた民衆のはげしい抵抗のことがあったであろう。他方薩摩藩のほうは、もっと深刻に考えた。武器の優劣の差をはっきりみせつけられたからである。ある篠原藩士は、このときのことを明治になってから回想して、「この戦争は今にして考えると、たいへん開明薬だと考えます。それからして一般の思想が進んだのでござります。大久保利道などは真の攘実家で、外人といえば唾を吐くようでありましたが、それから後は、こりごりして、和睦内にせねばならぬということになっております」と。単純な攘夷主義ではだめで、近代的な軍備をととのえる必要があることを、痛感しはじめたのである。
占領された砲台
軍艦一七隻、砲二八八門、兵員五〇一四名。
これは、一八六四(元治元)年八月五日、長州下関を攻撃してきた英・仏・蘭(オランダ)・米四力国連合艦隊の兵力である。これだけの兵力に攻撃されて、長州側の主要な砲台は、一時間ほどでみな沈黙してしまった。そして翌六日には二〇〇〇名余の陸戦隊が上陸して、すっかり砲台を破壊した。さしもの長州藩も、強力な近代的軍備の前に、あっさりと頭を下げたのである。
長州藩といえば、藩の正規の軍事力だけでなく、奇兵隊その他の農民・町人を含んだ軍隊を編成しており、国をあげての防衛体制をつくりつつあった。それというのも、京都における「禁門の変」に大敗し、朝敵と宣告されるという苦しい立場に置かれており、しかもイギリス留学からあわてて帰国してきた伊藤俊輔(博文)や井上聞多(もんた 馨)が、連合艦隊と戦うことの無謀を主張していたため、最後まで連合艦隊にたいする方針がぐらついており、民衆動員を徹底して行なっていなかったからである。
それに連合艦隊は、砲台は占領したが、それ以上藩内に攻め入ろうとはしなかった。それは民衆を敵に回すことが不利であると考えたからだ。
ともあれ長州藩は降伏し、諧和が成立した。その協定のねらいは、長州藩を攘夷から開国に「改宗」させることであり、さらに下関を開港させることであった。下関は河口本の海運の中心であったので、下関を掌握することは西日本の経済をおさえることを意味する。
当時対日外交の中心であったイギリスは、開国に反対する勢力には徹底的に武力を行使したが、民衆の反乱による混乱を避け、貿易の拡大をもとめることには慎重であった。それに長州荷の指導者も不揃い敗北の結果、大きく開国に傾きはじめた。
ところが事態は、そうはかんたんにすすまなかった。というのは、幕府が朝敵長州藩追討の命をうけ、諸藩に出兵を命じたからである。ちょうど連合艦隊が下関を攻撃していたとき、幕府の命をうけて中国・四国・九州の二一藩一五万の兵が、長州藩をとりまいた。この窮境のなかで、保守派が藩政権をにぎり、禁門の変の責任者である三人の家老と四人の参謀を処刑することによって、幕府軍にたいし、たたかわずして恭順することとなった。第一次幕長戦争である。かつての急進的な尊攘派が開国に傾きかけたとき、幕府に恭順する保守派に藩の主導権をとられたのだ。だがその急進派の指導者高杉晋作はいったん九州にのがれたが、一二月下関に帰り、武力でもって保守派をたおし、藩の主導権をとりかえしたのである。もはや彼らは藩をとびだしはしない。藩権力をにぎることこそが必要であったのだ。
フランス軍服を着た徳川慶喜(よしのぶ)
第二次幕長戦争の失敗、江戸・大坂の打ちこわしをはじめとする民衆の蜂起のなかで、将軍家茂は急死した。しかも跡つぎがきまっていないのだ。そこでいろいろ問題はあったが、結局一橋慶喜が将軍におさまることとなった。とりわけ老中板倉勝静(かつきよ)と越前の松平慶長(よしなが)とが、くずれつつある幕府の屋台骨をたて直す人物として慶喜を強く推したのだ。廃喜は、攘夷派の総本山である水戸の徳川斉昭の第七子であったが、決して攘夷主義者ではなく、むしろ西洋かぶれといわれた人物であった。フランス語の知識があり、フランス料理を好んだ彼は、「私かこれまでに見た日本人の中で、もっとも貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀でくっきりした鼻つきの立派な紳士であった」と、イギリスのある外交官に評されている。
慶喜が将軍になったとき、「私が最後の将軍になるだろう」とのべたというが、決してそうではあるまい。彼は、徹底した幕政改革を実施して、幕府の力で諸藩をおさえこもうと、必死の努力をした。しかも彼は、フランスの経済的・軍事的援助によって、それを実現しようとしている。
将軍就任の直前、一八六六(慶応二)年一一月、慶喜は、熱海に保養中のフランス公使ロッシュのところに外国奉行を派遣し、その意見を聞いている。
まず彼は、大名でなければなれない若年寄に、旗本の永井尚志(なおむね)を起用したように、破格の人材登用を行ない、つづいて第二次薩長戦争の失敗に学んで、軍制改革を行なった。旗本が手勢らを率いて軍役をつとめる制度をやめ、代わりに旗本から金をとり、それで傭兵を組織した。それと旗本以下茶坊主にいたるまでの軽輩を、銃隊に編成した。洋服を着せ、鉄砲をもたせたのである。その上フランスから軍事教官を招いて近代的な軍事訓練をさせた。他方幕府機構を、従来の老中会議の体制を改め、首相格の老中首座の下に、海軍・陸軍・会計・国内事務・外国事務の総裁をおき、内閣に近い形のものにしたのである。またフランスの経済援助により、軍艦や武器を買入れ、その見返りに対日貿易の独占をゆるすフランスの商社を設立することとなった。それどころか、火薬製造所や製鉄所の建設もすすめたのである。このような幕府の改革は、幕府の力だけで全国統一をなしとげようとする意気込みの現われで、倒幕勢力に不安をいだかせた.岩倉具視(ともみ)は、慶喜は「軽視すべからざる強敵である」とのべていたし、木戸孝允は、「家康の再生を見る」思いがするとのべていた。だからこそ幕府が体制をととのえるまえに、これを倒さねばと考えたのである。
岩倉遣欧使節
欧米諸国との不平等条約は結びそこない 金は捨て世間へ対し(大使) なんと言わくら(岩倉)な条約を改正するため、岩倉具視以下の使節が、横浜をたったのは、一八七一 (明治四)年十一月二日であった。
明治政府は廃藩置県をなしとげ、ようやくその基礎を固めるや、首脳部の大半を欧米に派遣したのだ。一行はまずアメリカに渡り、ワシントンで条約改正の交渉に入ったのである。交渉がはじまるとアメリカ側は、まず主権者からの委任状の提示をもとめた。ところが日本側は、そのようなものが必要であることを知らなかったので、いそいで取りに帰ることとなった。これでは話も進められないというので、彼らは条約改正交渉のことはあきらめて、第二の目的であるある欧米詰国の視察に主力をむけることとなった。こうして彼らは、二年近い歳月とI〇〇万円の国費を使って帰国したのである。
だがこの視察団がもった意味は大きい。ともかく一国の最高首脳部の大半が、国ができて間もないころに、二年もの間先進的な文明国を歩いて回ったのである。大使に岩倉具視、副使には大久保利通・水戸孝允(たかよし)・伊藤博文・山口尚芳(なおよし)、そのほか総勢四八人であった。このなかには、大蔵喜八郎のような商人、仏教界を改革した島地黙雷、歴史家久米那武、新聞界の先駆者となった福地淳一郎なども加わっていた。ざらに五九人の留学生も同行している。このなかには一五歳以下の少女が五人もおり、のち女子高等教育につくした津田梅子は、わずか八歳で参加した。また大久保利道の子牧野伸顕も一〇歳で参加していた。その後の日本の近代化政策を推進した人物ばかりである。国家の草刑期にこれだけの人物が一度にしかも長期間外国を巡遊したということは、明治政府の意気込みを知らせるものである。
それだけに使節の人選については、いろいろということは、明治政府の意気込みを知らせるものである。
それだけに使節の人選については、いろいろと問題があった。政府部内のいわば開明派のほとんどが出るので、太政大臣の三矢実美は、大久保・水戸の出張に反対し、同じ開明派であった大蔵大臣井上馨は、せめて大久保だけでも残るべきだこ主張したという。だが岩倉は、この二人は今後の日本のためにぜひ出すべきだと、力説した。こうして彼らは、アメリカからヨーロッパに渡り、ロンドン・パリ・ベルリンを歴訪した。これらの国々の中で、とりわけ一行に意味があったのは、プロシャの鉄血宰相ビスマルクとの会見にあったようだ。ビスマルクは、一行にまねかれた宴席で、日本が学ぶべきは大国に抗して独立を維持している君主権の強力な自分の国であるとのべたという。一行はこの独
裁的なビスマルクに魅せられたようである。
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