江戸の俳諧 青 蘿 永野為武 氏著
暁臺・蘭更についで中興宗匠の職服をうけた責務という俳人は、姓は松岡、通称を鍋五郎といった。
號は一般に責務でしられているが、別に山李坊・令茶・三眺庵・幽松庵・香松庵・栗庵・栗の本という。
青蘿は姫路酒井侯の江戸詰藩士で松岡門太夫という人の三男として、元文五年(一七四○年)江戸にうまれた。幼少のとき同じ藩士で武澤喜太夫の養子になったが、満五歳のとき、その養父がなくなったので、すぐ跡継になり、一五歳のときから、ご勘定人(出納係)として出仕することになる。
ところが、この壮者どうも素行がわるく、賭博にふける。それが公の問題になって、一九歳のとき、身持不謹慎というわけで姫路に帰るように命ぜられてしまった。(一説には、養母のほうから訴えでたともいう)養母に連れられて姫路に立ち去るとき、
ありたけは鳴いて渡ちん川千鳥
と吟じたということである。
俳諧は、すでに十二歳のとき玄武坊(美濃派の俳人) の門に入って心得ていたから、すぐにこんな句もでたのであろう。それからというもの、諸国を放浪すること数年(その間、金澤に蘭更を訪れている)二七歳になって、加古川に三眺庵という庵を結んだ。翌年、善證禅師東洲和尚に參じて、芭蕉忌の日(十月十二日)に俗髪を切りすててしまった。それまでの句は、山李坊令茶と號していたが、そのとき和尚から青羅の名をおくられたといわれている。
人間、青蘿はこのときに生れかわったのである。俳諧をただ風流ごととして遊びの気持でやっていたのが、生活の一大転換を機として、俳諧に生死の一大事をかけることになったからである。次第にその句風も独自なものがうまれはじめ、加古川を中心に、各地に門人もできていった。
須磨・明石の美景に侵るに及んで、三院庵をすてて、そこに幽松庵をいとなみ、また門人らの招きに応じて、淡路・伊予(いまの愛媛県)丹波などに旅した。しかし、ついにはまた加古川に落ち着いて、そこが終焉の地ともなった。
旅は考証の本性に合っていたとも見え、加古川に定住したあとも、四国・中国を周遊しているし、京都にでては、暁臺とか几董とか蘭更らと「績四歌仙」を催し、「都六歌仙」を詠じている。
寛政二年(1790)五〇歳のときには、二條家の紅葉の御合に召され、中興宗屁の職服を受け、栗の本宗匠號を許された。ために復家もでき、舊藩の出入もかなうようになつたが、翌年六月十八日、およそ一ケ月ほど前から首にできていた腫物がもとで、五一年の波瀾にとんだ生涯を閉じた。辞世の句となったのは、つぎの句である。
舟ばたや履ぬき捨る水の月
墓所は加古川光念寺であり、法名は妙浄日悟となっている。
以上は青蘿の閲歴であるが、次にその俳風をしらべてみよう。さきにもふれたように、はじめて俳諧を學んだのは美濃派の宗匠からであったが、それは彼の俳風にさして影響を与えてはいない。むしろ、最も
大きな感化は、壮年時代に交った蘭更に受けている。しかし、それよりも、二八歳の一大転機から參禅したことによる内省的な生活態度、いいかえると彼独自の哲理によって俳諧を貫いたという方が正しかろう。
青蘿の作品は、その最もすぐれた門人となった播磨の神宮寺住職(観応)で、栗本玉屑と號した(青蘿の歿後、栗の本二世を継いだ人)によって編集された『青蘿発句集』(三冊、寛政元年、姻路隅屋喜右衛ら刊)にまとめられている。いま、その六百近くの句のなかから、秀逸と思われるものを、抜きだしてみよう。
浅澤や雪かた/\、の芹の花
浅川の末ありやなし春の月
風の蝶消えては麥にあらはるゝ
田の水の高うなるかも啼蛙
蝶ひとつ竹に移るや衣がへ
あなめ/\秋風たちぬ竹婦人
戸口より人影さしぬ秋の暮
木がらしや二葉吹わる岡の麥
白菊に赤味さしけり霜の朝
蓑蟲盗の死なで鳴く夜や初しぐれ
これらの句は蕪村の絢爛さもなく、暁臺の優雅な趣などは、少しもみられない。むしろ樗良に似た平坦温雅な風がある。きめは、どちちかといえば繊い。このほかに破調の句があるが、それとても頭から感情を露出するような強さをもっていない。もともと、清新さと典雅ということが、中興俳諧の傾向であるから、むしろ、こゝに選んだ十句のごときは、
茶の花のからびにも似よわが心
と詠じた彼の願いを一ぱいに表現しているのではないか。彼みずからか「風調より入るものは我が巣窟に非れば他の自在を知らず。心より入るものは幻術自他に及ぼすなり」と述べていることから推察しても、心法から俳諧の自由な天地を拓こうとする信念は、これらの句において、ある程度具現されているとみてよかろう。
しかし、青蘿の句には細かい技巧がなかったとはいえない。つぎの句をみていただこう。
雪を出て雪よりも青し松の風
七種や七日居りし鶴の跡
散花の花より起る嵐かな
日をたゞ啼を日たゞ聞身よかんこどリ
とか、さらにつぎのような
七草やなくてぞ数のなつかしき
あやめぐさあやの小路の夜明かな
あなめ/\あき風たちぬ竹婦人
技巧は句の語調を整えるために必要かもしれないが、もともと些細な末葉事で、質的には句風の登展に役立つことではない。
また、寛政三年三月、二修家の花の御会に召され、かさね/\の栄誉を得たわけだが、その感激は、つぎのような作品になっている。
殿前花
我等までや御目通りの花のかげ
これが感激のあまりといえばそれまでであろうが、『青蘿発句集』の序に、成美が書いているような此叟世にありし時はひたすら芭蕉の方寸にせまり、その賞をまなびうつせる事、氷と水晶とのごとし(云々)の評言は、みかたによっては皮肉にもとれる。芭蕉と考証が、水晶と氷ということになりにしないだろうか。
青蘿の家書に『骨書』というものがある。西播林田の李雨という門人の出版になるもので、二冊、天明六年刊行である。中味は明和四、五年ごろ伊勢の樗良(無為庵)が加古川の青蘿の庵を訪れて、両吟歌仙七巻をのこしたことがあった。樗良のなきあと、霊前に供えるべく、青蘿門の発句を添えて出版された。
二三枚土手のなだれに薗撒て 蘿
日和うれしく仰向に寝る 良
あの鳶を射て落さうと思ひつく 蘿
かなはぬ戀に歌もよまれず 良
だまされて覆隠さるゝをかしさは 蘿
絲かけわたす七夕の庭 良
蕣の蔓のはづれに月細し 蘿
かへらぬ人をおくる秋風 良
という具合で、青蘿の方が樗良よりも技巧的である。しかし二人の気分はよく合っていて俗な連句ではない。最初の歌仙の裏にみえる作品である。
青蘿が俳人として世にみとめられはじめたのは、明和五年(一七六八年)にだした処女撰集『蛸壷塚』(これは明石人丸神社境内で、芭蕉の句碑の併設を営んだおりの記念集)を上梓したころからであつだ。
それは中興の他の諸家にくらべては、いく分遅れたかたちであった。また彼の勢力は中国地方の一部であったため、俳壇の地位も低かったが、二條公から宗匠を許さことや、蕪村・樗良・几董らが歿したあとでは、青蘿の名は京都に重きをなしたのである。(東北大學教授・理博)
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