北巨摩郡 きたこまぐん
北巨摩郡は平成16年合併の北杜市・韮崎市・甲斐市に合併した双葉町による
面積6万2175平方キロ(境界未定)
須玉町・明野村・高根町・大泉村・長坂町・小渕沢町・白州町・武川村・双葉町
県北西部に位置する。
北は八ヶ岳で長野県南佐久郡、
北西は同県諏訪郡、
西は駒ケ岳などで同県上伊那郡に接する。
郡域は韮崎市により二分され、その南東側に双葉町のみが孤立して存在する。双葉町は北と西は韮崎市、東は中巨摩郡敷島町、南は同郡竜王町・八田村に接する。
北側の五町三村は、東は甲府市、南は敷島町・韮崎市、中巨摩郡芦安村に接する。明治一一年(1878)郡区町村編制法により、巨摩郡が北・中・南に分割されて成立。この段階では東は西山梨郡、南は中巨摩郡に接していた。
北は八ヶ岳、西は駒ケ岳など標高3000三〇〇〇mに近い山岳に囲まれ、それらの山から南東へ開ける。ほぼ北から南へ塩川、須玉川が流れ、西から東には大武川が流れて釜無川に合流する。釜無川は郡域内を南東流して甲府盆地へと流れ下る。八ケ岳は八ケ岳中信高原国定公園に合まれている。
駒ヶ岳・鳳凰山周辺は県立南アルプス巨摩自然公園に合まれる。
釜無用にほぼ沿って国道20号・JR中央本線・中央自動車道が通り、交通の大動脈となっている。
県域北端近くの小淵沢駅からJR小海線が分岐し、八ケ岳南麓を経て長野県小諸市に向かう。その上側を八ヶ岳公園道路・八ケ岳高原ラインが通り、八ケ岳観光客の足を確保している。
明治11年の村数44。河原部村(現韮埼市)に郡役所が置かれた。
戸数 1万2257・人員5万5552、面積9万5千17町9反余(「郡画並役所位置」山梨県史)。
同22年の町村制施行により、三之蔵村は小笠原村(現明野)と穂坂村(現韮埼市)に分属、若神子村・多麻村(現須玉町)が成立。そほかに25村があった。
明治25年河原部村が韮崎町となる。
大正2年(1921)郡制廃止となり、同15年郡長および郡役所も廃止された。
昭和8年(1933)新富村と武里村が合併して武川村が成立。
同12年 韮崎村は祖母石村と下条村を合併。
同15年 駒井村と下条村が合併して藤井村(現韮埼市となる。
同29年 韮崎町・藤井村・中田村・穴山村・円野村・清哲村・神山村・旭村・天草村・竜岡村
・穂坂村が合併して韮崎市が成立し、郡から離れた。
同年 安都玉村・安都祁村・熱見付・甲村が合併して高根村、
小潮沢村と篠尾村が合併して小淵沢町が成立。
同30年 小笠原村・上手村・朝神村が合併して明野村、
若神子村・多麻村・徳足村・津金村が合併して須玉町、
日野春村・秋田村・清春村が合併して長坂町、
鳳来村・菅原村・駒城村が合併して白州町、
塩崎村・登美村が合併して双葉町が成立。
同年 小泉村は長坂町に合併。
同31年 江草村は須玉町に合併、清里村は高根村に合併。
同34年 増富村は須玉町に合併。
同37年 高根村が町制施行した。
八ヶ岳 やつがたけ
北巨摩郡と長野県にまたがる山。標高2000メートル級の連峰からなり、一連の火山列と考えられている。
フォサマゲナ上の断層群によって構成されているため、長期の浸食作用などにより複雑な山容をつくり出した。
南端の編笠山(2542m)から北端の蓼科山(2524m)までは25kmの長さに及ぶ。
最高峰は標高2899・2mの赤岳。長野県南牧村の夏沢峠付近を境に北八言恬と南八ケ岳とに二分することもあり、県内では八ヶ岳といえば赤岳を中心とした南八ケ岳が一般的である。
山名の由来はこれまで八の峰よりなると説明するのが通説となっている。
たとえば「此山西は信濃国諏訪郡、北は佐久郡なり、嶺分れて八有る故に八カ嶽と云う」(甲斐名勝志)や、「八岳 また谷鹿岳と作く長沢、西井出、谷戸、小荒間、上笹尾、小淵沢等の諸村の北に立て、檜峯(権現岳)トモ云、小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙岳、毛無岳、風三郎岳、編笠山等八稜に分るゝゆえに此名あり」(甲斐叢記)などの記述にみられるように、江戸時代の地誌類はいずれも同様の認識にたつ。
しかし書によって八峰とする峰々は異なり、これが長野県諏訪地方にいくと認識のずれはさらに大きい。観察点によって景観が異なるのは当然であるが、それは同時に従来の通説的な解釈に疑義を挟むことになる。「八」を八百万(やおよろず)と同義とする説、あるいは権現岳にある檜峰神社の祭神である八宗(やついかずち)とする説も有力であろうが、山塊の複雑な地形に大きな特徴があるとするのであれば、谷間を意味する「ヤツ」ないし「ヤト」から派生したと考えるのがむしろ自然ではなかろうか。
富士山との背比べ競争の伝説がある。両山の頂に樋をかけて水を流すと富士山の方に流れ、八ケ岳が勝利した。負けた富士山が悔しまぎれに、八ケ岳の頭を大い棒でたたくと、頭が割れて八の峰ができたというものである。類似の示説は日本各地にみられる。山麓には伏流水が各所に湧き出ており、小淵沢町の大滝湧水、大泉村の八右衛門出口と大泉湧水、高根町の原長沢湧水にはいずれも蛇にまつわる伝説が残っている。
採集経済にとって好条件がそろっているため、南麓一帯は縄文遺跡の宝庫として知られ、大泉村の金生遺跡は祭祀遺跡と考えられている。山岳信仰の面では赤岳の南方に位置する権現岳が一大中心地で、遺物の出土が集中している。しかし全般的に県内のほかの霊山に比して顕著な展開を示しておらず、その信仰圈は狭い。山頂付近に檜峰神社(八ヶ岳権現)が祀られ、その背後に神霊の岩室とおぼしき巨石が鎮座する。山頂から雨へ約100mの所と、立場川上流のカマタキ沢に「胎内くぐり」と称する岩門がある。さらに地獄谷寄りの崖下から鎌倉~室町時代のものと推定される銀鎖や薙鎌・宗銭などが発見されている。こうしたことから、少なくとも中世には山岳修験の付揚として発達していたことをうかがわせる。
鳳凰山 ほうおうざん
駒ケ岳の南東に連なる山塊。地蔵岳・観音岳・薬師岳の三峰を包括する広大な山城をさす。
今日では鳳凰三山という呼称が広く用いられている。
山域北部の御座石には戦国期に採掘されたとされる金鉱跡が残る。
歴史的にみると、文献により当山の認識領域が錯雑しており、過去にいわゆる山名論争が展開された経緯がある。
地蔵岳のみを鳳凰山とする一山説、
観音岳と薬師岳の二峰を鳳凰山とする二山説、
そして今日一般的となった三山説に大きく分類されるが、
山麓の中巨摩郡芦安村、武川村域では地頭立伍を鳳凰山とよび習わしている。
十八世紀中頃に武川筋で山論が発生し、それに関連して二枚の実測踏査国が作製されている。
それをみると鳳凰山は地蔵ヶ岳のみをさしていることは明白で、少なくとも山麓では鳳凰山すなわち地蔵岳の認識が一般的であったことがうかがえる。こうした一山説は十八世紀末の「甲斐名勝志」や一九世紀初頭の「甲斐国志」にも認められる。
「甲斐国志」には
「用人多クハ誤り認メテ是ヲ地蔵が岳ナリト云ハ非也、
鳳凰山権現ノ石祠アリ、祭日八九月九日ナリ神主小池氏柳沢村ニ住」
とあり、すでに当時において山名に混乱がみられたことを示すとともに、具体的な事実を出しながら誤りを正そうとしている。
これらよりも古い荻生徂徠(おぎゅうそらい)の宝永三年(1706)の「峡中紀行」に記された「鳳皇」は、観音岳と薬師岳の二峰をさすと判断できる。それは徂徠の視点なり情報源が、位置的に両峰を区分しがたい甲府近在にあったからと考えられている。
二山説は野田成方の「裏見寒話」にも認められ、さらに幕末に発行された甲斐国絵図をはじめとした各種絵図はいずれも二山説にたって描かれているが、絵図の作製にあたった人物や印刷発行の所在地が甲府であったことをうかがわせる。
地理的空間認識はその人物の所在地や生活圏が反映されていると考えるのが妥当であろう。
一山説が一般的であったと思われる山麓においても、十九世紀に入ると三山説の浸透がみられる。
韮崎市青哲町青木に残る一九世紀初頭の青木村神社明細並び鳳凰山(「赤石山地をめぐる歴史地理的一考察」所収)には「鳳凰山ハ観音地蔵薬師三岳ヲ総称シ」の記述がみえる。
地名や山名の細分化は歴史の大きな流れであると同時に、こうした傾向はこの時期における山岳信仰の民衆レベルでの発達と無関係ではなかろう。さらに三山説が広く普及する契機となったのが、明治43年(1910)に発行された五万分の一地形図「韮崎」である。この地図をめぐって山岳界を中心とした、いわゆる山名論争が起こるが、当時山麓で主流となりつつあった山名を採用したと考えられる。
山名の混乱は山頂部が少なくとも三峰より構成されるという地形的条件に起因することはいうまでもない。ここまでの諸説をふまえると、元来は鳳凰山とは地蔵ケ岳を中心とした山城をさしていたと思われる。
地蔵ケ岳の頂上部には岩場が聳え、それを大鳥の嘴(くちばし)とみたてれば山容はまさに鳳凰のごとくである。鳳凰の名の由来はそこに求めることができよう。
山梨県 地蔵ケ岳
武川町と韮崎市・芦安村にまたがる山。地蔵岳ともいう。標高1764m。山頂には高さ20mほどの花崗岩の岩場が屹立する。この岩場を地蔵仏とか大日岩、あるいはその形状から鳥岩とかオオトンガリともよぶ。その特異な形から山岳信仰の対象となり、付近より懸仏・古銭・剣・鉾などが発見されている。
山名の由来は昔、奈良法皇(孝謙女帝)がたびたびこの山に登り安産を祈って地蔵尊を安置したところからきているともいう。岩場の手前には賽の河原とよぶ砂礫地があり、ここに数体の地蔵尊が並んでいる。毎朝この砂礫地には
七、八歳くらいの子供の足跡がたくさんっいているともいう。また子のない夫婦が賽の河原の地蔵尊を借り、家にそっと持って帰ると子供が授かるとも言伝える。
岩場への最初の登頂は、明治37年ィギリス人ウォルター・ウェストン。
山梨県 観音岳
鳳凰三山の中央に位置し、標高2841mで、三山中の最高峰。四月中旬から五月中旬にかけて、山頂付近の東斜面に「のうし(農牛)」とよばれる雪形が現れる。融雪した箇所か黒い牛の姿に見える現象で、韮崎方面から眺めると、頭部を北に突き出したような格好にうつる。雪形は春の融雪期にみられるところから、農作業開始の目安とされた。こうした雪形の風習の背景には、神々が山中に宿るという古来からの信仰があると考えられる。
山梨県 薬師岳
鳳凰三山の南端に位置し、別名は乗鞍岳とも。観音岳を南方に下り、ハィマツの生えたなだらかな尾根をたどると到着する。標高2780m。鞍部を隔てて北東方向にもう一つの岩峰がそびえる。地蔵ヶ岳の岩場に比肩する花崗岩の岩峰で、この二峰をさして薬師岳と称する。
山頂に薬師如来を祀る例は全国に多く、山岳信仰との関係はきわめて深い。薬師・観音・地蔵の山名や、地蔵ヶ岳の岩場を大日岩と称しているところから推して、鳳凰三山一帯は大日如来を最高仏として祀る密教系修験者によって聞かれたと考えられる。
北巨摩の歴史 逸見御牧 へみのみまき 逸見荘
この記載内容は一部誤りが見える
現北巨摩郡域にあった牧。速見とも書く。「蜻蛉日記」天徳2年(958)7月の記事とされる部分に藤原兼家の長歌として
「かひのくに へみのみまきに あるゝ馬をいかでか人は かけとめん とおもふものから」
とある。
これは、「矢本抄」雑部に載る読人しらずの
「をがさはらへみのみまきにあるるむま(馬) もとればぞなつくなつけてぞとる」
を本歌とするもので、都までその名が知られていた。
また「堀河院百首」の藤原顯仲の一首に
「をがさはらへみのみまきのはなれごま いとどけしきぞ春はあれ行く」
などと詠まれるように小笠原と併記して歌われることが多く、両牧は近接していたものと思われる(×)。
柏前(かしわざき)牧の別名ともいわれるが(甲斐国志)、詳細は不明。建長五年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に小笠原と並んで逸見庄がみえるところから、馬相野から逸見御牧、さらに逸見庄と発展したとの推定がある(?)。
逸見庄
旧巨摩郡域の北部に比定される。先行地名として「和名抄」所載の巨麻郡速見郷、古歌にみえる逸見御牧があるが、相互の関係は不明。
いずれにしても、その後身か近隣に成立したものとみられる。辺見とも記される。
建長五年(1253)10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書)に、請所として小笠原とともに逸見庄がみえ、冷泉宮領内の注記がある。
冷泉宮は敦明親王の皇女儇子内親王で、祖父三条天皇の養女として大納言藤原信家に嫁している。
冷泉宮領はこのとき内親王が持参したものか。敦明親王が58歳で亡くなったのは永承六年(1051)であり、遅くも11世紀初頭には当庄は成立していたものと考えられる。冷泉宮の子麗子は関白藤原師実の妻となり、当庄は麗子を経て子師通、さらにその子忠実へと伝えられて、皇室領から摂関家領となった。
一方、大治5年(1130)常陸国で事件を起こし、甲斐に流罪になった源清光が逸見冠者を称しているから(尊卑文脈)、彼は当庄に拠ったものと思われる。
その子光長は逸見太郎を称し、逸見氏の始祖となる。だが武田信義との甲斐源氏の惣領争いに敗れたためか、文書・記録類にほとんど登場せず、わずかに知承知4年10月月13日の駿河に向かう甲斐源氏軍のなかに逸見冠者光長の
名がみえるのみである(吾妻鏡)。
鎌倉政権下で逸見氏が地頭としての立場を保持していたかどうかは明らかではない。
建武4年(1337)3月7日の足利直義安堵下文写(諸家文書)によると、二階堂政頼加当庄内の上大八田村・
下大八田村半分・夏焼村因狩倉(以上現長坂町)の地顕職を安堵されている。安堵の根拠は文保3(1319)正月6日の父行貞の書状などであるから少なくても鎌倉末期からは二階堂氏が当庄の一部の地頭職を保持していたことがわかる。
庄内の地名としては、
前記の上大八田村・下大八田村・夏焼村のほか、康永4年(1345)の円楽寺(現甲府市・中道町)蔵大般若経奥書(甲斐国志)にみえる「皆波郷」(現高根町箕輪)、応安2年(1369)4月26日付の現塩市野尻倹之助氏蔽大般若経奥書にみえる塚田(現長坂町)、水和3年(1377)3月下澣の現山梨市永昌院蔵梵鐘銘の「鹿取郷」(現明野町神取)などがあるから、庄域は長坂町から高根町南部、さらに須玉川・塩川を渡って明野村西部にまで及んでいたことになる。
戦国期になると、「武田家日坏帳」に、永禄10年(1567)7月21日に逆修供養を行った「ヘミノ庄逸見殿」、元亀2年(1571)11月20日供養の「逸見庄大八田住人 堀内下総守」と「同庄、長坂郷住人 小林雅楽丞」などがみえるほか、その地域はさらに広がり、
永禄1年5月吉日の熊野先達代官職補任状写(寺記)に藤井五郷(現韮崎市)、
天正3年(1575)11月28八日の現韮崎市三之蔵諏訪神社棟札銘に小笠原郷三之蔵村(現同上)などがみえて、現韮崎市西部まで含むようになる。
なお慶長4年(1599)5云月9日の廊之坊諸国檀那帳(熊野那智大社文書)に「へんミ廿四郷」がみえる。本
来庄域内であった地名がたまたま戦国期の史料に残ったのか、呼称の範囲が拡大して名称のみが付与されたのかは判然としない。
逸見は筋を示す広域名称として近世に残り、元禄15年(1702)の清泰寺梵鐘銘では片颪村(現白州町花水)までが庄内と記されていることなどから、後者である可能性は高い。
玉庄 たまのしょう
現韮崎市穂坂町三之頭の諏訪神社頭の天正3年(1575)11月28八日、棟札名に「巨麻郡里庄小笠原郷三蔵(さんのくらと)ある。
「甲斐国志」では多麻庄と書き、樫山・浅川(現高根町)、津金・穴平・若神子・小倉(こごえ)・東向・大蔵・藤田・大豆生田(まみようだ 現須玉町)の諸村が属したとするが、これらの地域は逸見庄や山小笠原庄の庄域と重複することになり、併存したとは認められない。単なる地域呼称として成立したものか。
楯無堰
茅が岳南西麓一帯を潅漑する用水路。
上野山(現韮崎市)や立石原の広い原野を濯漑して美田としたので立石堰とよんだのが転化して循無堰となった。現在は延長約17キロ、濯漑面積298ヘクタールに及ぶ。
「甲斐国志」に
「寛文六丙午年江戸ノ大野村宗頁始テ開ク故ニ宗貞渠トモ云フ、
然レドモ漏水多クシテ下流ノ田ニ漑ギ難ギ候、
其翌未申両年ニ有司今ノ渠道ヲ通ズト云、
発源ハ逸見筋小笠原ニ在リ塩川ノ水ヲ引ク」
とある。
この地域は古代の甲斐三官枚のうち最大の穂坂牧があった所で(?)、火山裾野の干害地域で、住民は、濯漑用水はおろか飲料水にさえ不自由していた。
寛文(1661~73)の初め宇津谷村(現双葉町)に隠居していた江戸の浪大野村宗貞は堰の開削を願い出、許されて寛丈6年に着手した。
塩川の水を小笠原村(現明野町)岩根で堰止め、岩下・上野山(現韮崎市)、駒沢・宇津谷(現双葉町)まで通水した。裾野の地質は軽石質に富んだ火山灰で透水性が大きく、安山岩の巨塊が土中に横たわり、尾根や谷が多いので工事は困難であった。3年後には標高400メートルの線上を米沢・笠石・菖蒲沢・団子新居・大垈(現双葉町)を通り、谷は板堰で尾根は暗渠で流下し、竜地(現同士)まで完成した。堰の名は野村宗貞の功績を称えて宗貞堰ともよんだ。その後団子新居村の中村六郎右衛門が堰の規模を拡張した。この堰の開削により岩森村(現同上)は慶長古高帳の高98石余が文化(1804~18)初年には高378石余となり、宇津谷村でも慶長古高帳の高698石余が文化初年には1079石余となった(甲斐国志)。文化14年、塩川対岸の中条村で(韮崎市)で新堰3ヵ所を計画したため、用水不足になると反対している(「楯無堰議定書」宮久保区有文書)。訴えた10カ村組合の村々は三之蔵付・宮久保付・岩下村・上野山村(現韮崎市)、団子新居村・宇津谷村・岩森村・菖蒲沢村・大望村・竜地村であった。
大正元年(1912)から改修工事が行われ、同5年に完成した。循無腰は大望で大望堰と合流して竜他溜池に貯
水し、下流の潅漑に利用している。竜他溜池は文化3年溜池設置の許可を得て同年4月起工した。しかし大事業のため遅々として進まず、関係集落が農閑期に夫役を出して30年かけて天保3年(1832)完成した。池畔にある「石尊大乗妙典」の石碑に「自享和三年癸亥大願成就至天保三年壬辰」とある。この貯水池の水は上流地域の田植前に放出して上流地域の植付けを終え、上流地域の植え付け中は溜池の水だけで下流に配水灌漑している。現在、堰はコンクリート化され、竜地溜池も近代化されて流量も増し、双葉町の生命線となっている。野村宗貞は天和2年(1682)に没し、墓は宇津谷の法喜院にある。
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