甲府家の支配 徳川綱重・綱豊父子
徳川家光の三子綱重(将事家綱の弟)が、甲斐国河西(巨摩郡と笛吹川以西の山梨郡)十四万石余を受封して甲府城主になったのは、寛文元年(一六六一)であった。綱重の興した家は甲府家というが、その所領は武蔵・信濃・近江・駿河の諸国のうちにも及んだ。のち遺領を継いだ綱豊か宝永元年(一七〇四)、将軍綱吉の蓑嗣子として江戸堀西ノ丸に入るまで、甲斐のこの所領は桜田領と呼ばれた。将軍連枝として甲府には在城せず、江戸堀桜田部に居住したからである。
綱重の甲府家創立に際して、家老として諏訪頼郷(よりさと)・新見(しんみ)正信の二人が任命され、次いで寛文元年の加増の折に山口直治・太田正成・島田時之らが新たに旗本から任じられたが、その中でも組重の信任が厚かったのは新見備中であった。同二年、綱重の籠曖を受けた家臣田中治兵衛の娘が生んだ男子が綱豊で、幼名を虎松といった。その頃、綱重が正室を二条関白家から迎えるにあたり、天樹院のはからいで虎松は新見が養育することとして、新見左近と名を改めた。その後、綱重は男子に恵まれず、同十一年左近がその嫡子となるのであるが、この継嗣問題をめぐって新見と同役島田淡路・太田壱岐が対立した。一説には、左近は綱重の妾腹の子ではあるがすでに早世し、新見が極秘に自分の実子を左近として養育したとして、新見の隠謀、甲府殿乱心を老中の土屋但馬に訴えたのが島沼・太田の二家老であったという。その結末は、『徳川実紀』(寛文十年五月十五日)にいう「甲府宰相綱重卿の家宰島田淡路守時郷、太田壱岐守吉成、私の威福をはり、卿を蔑如するにより、新にも処せらるべしといへど、聯の強てこはるゝにより、罪一等を減じて」配流となったという事件であった。
綱重は八年後、延宝六年(一六七八)に没し、綱豊が遺領二十五万石を継ぎ、さらに十万石を加増されて、のち甲府中納言と称された。そして宝永六年、六代将軍家宣となるのである。
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