大相撲の歴史
神話 国ゆずりの相撲
日本の歴史は、まず『古事記』と『日本書紀』に始まるように、相撲もこの二書に神話・伝説をつたえている。
それは『出雲の国譲り』と、『宿弥蹴遠の相撲』の古き物語であるが、お伽話としても、古代日本人の相撲好きがうかがわれ、まことにおもしろい。
不運な蹴遠の死
相撲の始阻として、呻に祀られてある野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の一戦は、天覧のもとに生死を争う血闘で、ついに宿禰が蹴速を踏み殺したと「日本書紀」はつたえている。
当麻は地名で、いまも奈良県葛城山脈の東麓に村名を残している。そこに蹴速を名のる強力無双の豪傑がいて
「能く角を毀(くじ)き、鈎(はがね)を申(の)べ、天下我に敵するものなし」
といばっていた。これを聞召された垂仁天皇は、出雲国(島根県)より宿禰を召して、相僕をとらせた。
当時は「力くらべせしむ」といって、両人は相対して立ち、たがいに足をあげて蹴りあったとあるから、シャモの蹴り合いに近い。ついに蹴速は脇腹を折られたうえ、踏み殺されてしまった。蹴速という名は蹴ることの早いあだ名であったにちがいないが、殺されたうえに、当麻の領地まで宿禰にとられ、悪玉の名を永遠に残すとは、不運な力士である。
先年蹴速の悲運を気の毒に思い、相撲ファンたちが当麻村に「蹴遠の呻」を建立した。
この物語は終戦前まで、相撲史実として扱われていたが、暦も文字もなかった十一代垂仁天皇七年、秋七月の記録は、古墳文化時代のことで、いまでは伝説の中に入れられている。両力士相撲の跡も天覧相撲の場所とは思えない片田舎である。
戦争の代りに相撲
宿禰の前は国譲り相僕神話が有名だ。場所は、出雲の伊那佐小浜という点だけ現実性があるのみで、これもまた々日本誕生々建国のお伽話しである。
約千二百五十年前に書かれた「古事記」によれば、兎と鰐の物語りで親しい大国主命が出雲を占領して、これを皇孫に譲ることを承知しなかったことから、戦争に代る相撲という平和手段で、勝敗をきめた物語。かたや、天孫族の代表選手は、建御雷神と、こなた、問雲族の代表選手は大国主命の御子で勇武を好む建御名刀神の両者によって、当時の相撲「力くらべ」をしたあげく、建名刀神はついに敗れ、信濃国の諏訪に逃走し、諏訪神社に祭られている。
古事記には、このときの相撲を「御雷神、御名刀神の手をとり、若葦を取るが如く、
掴みひしぎて、これを投げ離す…」とある。
この頃の相僕は、まず手と手を取りあって、ねじ伏せ、ひねり倒したことが想像される。
こうして、久しくゆきなやんでいた国ゆずりの難問題も、相撲によって解決し、日本の統一ということになったが、この事件を、古代における出雲族と大和族の争いであると、解釈している学者もいる。
相撲をとった伊加佐の小浜は、
現在島根県簸川郡大社町稲佐浜で、古跡にもなっている。
相撲をとった稲佐浜
古事記にある出雪国伊那佐の小浜は、国ゆずりの岩から100米ほど後退して、太古と変らぬ潮騒の音を、のどかにひびかせている。
三上神社の相撲人形
平安朝節会相撲の力士風俗を伝える唯一つの延喜式(千年前)人形である。
毎年十月十四日夜、神事相撲が行なわれる。(滋賀県野洲郡野洲町・三上神社社宝)
奈良朝末期から平安朝にいたる三百数十年間宮廷において、毎年定期に催された節会相撲により、内容的にいって、今日の相撲とほぼ同様の洗練された相撲技が生まれてきた。
神代のベールが少しずつとれてきて、史実として相撲が初めてあらわれたのは、皇極天皇の元年(642)で、古代朝鮮百済の使者をもてなすために、兵士を募集して相撲をとらせたことが日本書紀に見える。
さらに七十年後の元正天皇の養老三年(719)に、始めて相撲司(すまいのつかさ)の役員である抜出司(ぬきでのつかさ)を臣下に任命している。この頃から、朝廷においてボツボツ相撲に関する制度が整えられてきたことがうかがえる。
なお天武天皇の十一年(683)には、九州から大隅隼人(おおすみのはやびと)と阿多隼人(あたのはやびと)を朝廷に召して相撲をとらせた記事がある。このころの隼人は、南九州の異種族で、敏捷勇猛のために宮門の守衛に雇われていた。
聖武天皇の神亀五年(728)には各国から相撲人(力士)を募集するための使者を派遣したが、この役人を相撲部領使(すまいことりつかい)といった。
ついで天平六年(七三四)七月七日に相撲の天覧があり、宮中儀式の一つの相撲節会(せちえ)の端緒になった。
もうこの頃は人智を進み、宿禰の相撲のようなプロレスまがいの殺伐な取り方はしなくなり、相撲の技術も進んで、相手を傷つけないようなルールも次第にできてきた。
相撲節は天皇が宮廷において相撲を御覧になり、群臣に宴を賜わる儀式で、恒例になったのは平安朝に入ってからである。桓武天皇の延暦十二年(七九三)七月七日に催されてから、毎年七夕祭りの日に文人に忿じて七夕の詩を作らせる儀式の余興として、相撲を天覧したことにはじまり、それから平城、嵯峨天皇と引きつづき開催されるうちに、儀式も盛大になり、それとともに制度も定まって、猿楽の一団である舞楽、曲芸師、相撲係員などが、左右(いま の東西)の相撲人三十四人をかこんで、およそ三百人が楽隊と共に入場するという、今日では想像もできないほど豪華けんらんの相撲絵巻を、宮廷において繰り広げられたのである。
そして源平合戦のおこる高倉天皇の承安四年(一一七四)にいたるまでの三百数十年間、時によってその盛衰もあったが「三度節」(相撲、射礼、騎射)の一つとして、宮中の重要な儀式として毎年行われた。節会時代には土俵や行司がないことなど、いまの相撲と形式の違う点はあるが、内容的には現在の相撲がそこからすべて発しているといえる。
相撲狂の中納言 佐伯氏長と大力女
佐伯氏長がはじめて相撲節会に召出されて越前から都へ上る途中のこと、近江国高島郡の石橋を通りかかると、川の水を汲み、頭に載せた若い女が前を歩いていく。氏長はからかうつもりで傍へ近寄り女の脇の下へ手をいれた。ところが女は騒ぎもせず、氏長を見返ってにっこり笑ったまま平気で歩いていく。その様子に気をのまれた氏長が手を抜こうとしたが、女の脇の下にはさまれた手はびくとも動かない。氏家はとうとうそのまま女の家まで引ずられて行ってしまった。
この女は高島の大井子という無双の力持で、氏長が相撲節に召されていくということをきき、二十一日の間氏長の面倒をみてくれることになった。初めの七日は女の握ってくれるおムスビが、あまり固いのでどうしても喰い割ることができなかったが、次の七日目にはようやく喰い割り、最後の七日目にはじめてみごとに喰い割ることができた。この女のおかげで氏長は京へ上って大いに勝ったという。
…腹くじり…と中納言
今から約八百五十年前の鳥羽天皇の御代のことである。中納言伊実(ともざね)卿は相撲と競馬が飯より好きで、友達の貴公子たちが詩歌管絃に文柔艶美の生活を送っているのに反し、剛直な性格のため粗野な振る舞いが多く、父の備中少将伊通(ともみち)公は折にふれては意見をするのだがヌカにクギでさっぱり効き目がない。そこで父親は伜の自慢の鼻をへしおってやるに限ると、早速強い力士を召出した。人呼んで、腹くじりの異名をもつ評判の怪力で、敵の腹へ頭をいれて「くじりまろばず」わざがとくいであった。今でいえば頭捻りの手である。やがて庭前へ出た中納言と腹くじりは、狩衣の袖をしぼりあげ裾をたくりあげて立向った。伊実は腹くじりの思うままにさせているので、しめたとばかり腹くじりは頭を中心に捻ろうとしたとたん、伊実は右手で外帯のたてみつあたりをとり、左手で衿がみをとり、やっとばかり目より高く差し上げ、二、三回ふり廻して前へ投げとばした。腹くじりはうつぶせに倒れたまま、気絶してしまったので、父の少将伊通公はすっかり興ざめしてしまい何もいわずに奥へ入り、その後は中納言伊実に対して相撲をとることをうるさく云わなくなった。一方、負けた腹くじりは逐電し、行方不明になったという。
河津、俣野の遺恨相撲 蘇我兄弟 仇討の発端
…十八年が天つ風、今日吹き返すうれしさよ・・・
曽我兄弟の仇討は、能楽に歌舞伎に国民的感激をいまだに持続しているが、その発端になる河津、俣野の遺恨相撲もまた好題材である。
時は安元二年十二月(一一七六)というから、華やかな王朝相撲の節会が廃絶して三年目のことである。
伊豆相模・両国の武士が奥野(天城山脈)の狩を終えて柏峠(伊東市西方)で相会し、慰労の宴が催された。酒盛りだけなわになるや、いずれも腕自慢の面々、頼朝公の御前で興に乗じて相撲を取ることになり、五人抜き十人抜きの勝抜き合戦になった。いれ替り立ち替り雌雄を決する竜虎の取組みをくりかえしているうちに、工藤祐経の腹心である大庭の舎弟俣野五郎景久があらわれた。
俣野は六尺余の身の丈、とって三十一才、豆相きっての豪傑、九人抜きの本間を一蹴してなお十人の強豪を総ナメにして得意満面、「早や相撲は止みて候、相手に嫌は無きぞ、誰にてもおかせよ、我と思う人々は出られ候えや」
と声高々に呼ばわった。
これを小面憎く思ってか十人の武士がつぎつぎと立ち向ったが、どうにも歯がたたず、合計二十一人枕を並べてなぎ倒されてしまった。もうこの上は伊東次郎祐親(伊東の領主)の嫡嗣で、土肥の哨である河津三郎祐泰の出場を待つばかりである。三十二才の河津は、やをら直垂を脱ぎすて小袖一つの上に手綱二筋、四重に廻して強くしめ、五尺八寸の小兵ながち、さっそうと登場した。
相手は節会椙僕にも三年出て負けたことのないプロ力士、油断できぬと左右の腕をつかんで力まかせに押しまくり、ついに円陣の見物人の申に押しつめれば、俣野はがっくり膝をついた。しかし俣野は「木の根につまずいたから負けたのだ」と苦情をつけてとり直しとなる。こんどはいきなりかつぎ上れば、俣野は苦しまぎれに足を股にまいて反りをみせるところ、河津はかまわず、なお高高と片手でゴボウ抜きに差し上げ、エイとばかり横ざまに投げすてる。現在河津掛けという手は、河津が発明した手のようにつたえているが、曽我河津・曽我兄弟の墓がある伊東市東林寺全景。物語をよく読むと、実際は俣野が河津に掛けた反り手である。
相撲はこれですんだが、かねて河津の父伊東氏の勢力を狙い、宿怨をもつ工藤祐経はこの相撲を遺恨として部下の八幡三郎に命じ、河津の帰途を八幡野において待伏せ、遠矢を射かけて暗殺させた。いまなお、曲者がひそんでいたという椎の三本木、河津落命の場所に血塚が史蹟として残っている。
事件はなお尾をひいて河津の遺児曽我十郎、五郎の兄弟が十八年間苦心の末、建久四年五月二十八日富士の梱野において、折から降り来る雨の中を、工藤を討ち果たし雪辱をとげたという物語りにまで発展する。
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