百人力 畠山の荒技
強豪相打つ武家相撲
政権が武門の手に移ってからの相撲は、
やアやア遠がらん者は音にも聞け
と戦場組打の華やかな武術として武士の間に奨励された。
畠山荘司重忠は人も知る鎌倉時代の武将で、美女浅妻との間にロマンチックな哀話などもあり、優男のようにも思われるが、その実力は百人力といわれる物凄い強豪である。
ある時、関東無比の大力と自称する力士長居という者が、頼朝に面謁して申すには、
「今関八カ国で私に勝つ者は一人もおりません。まあ、どうかと思われるのは畠山荘司の次郎位ですが、これも大したことはありますまい」
と臆面もなく自己宣伝をやってのけた。頼朝もこれを聞いて小面憎く、にがにがしく思っているところへ畠山が白の水干に葛袴、黄ろい衣という扮装でやって来た。頼朝は待兼ねたとばかり畠山を側近に召して、前庭に控える長居と相撲をとるよう命じた。重患は委細かしこまり早速支度をして庭へおりる。長居も心得て、ふんどしを締め直し、のっしのっしと現われた姿はまるで金剛力士そのもので、見るからに強そうな力士ぶりである。
さて、両者立上れば、長居まず畠山の首を猛烈に引叩いてやにわに袴の前腰を取ろうとしたが、畠山は素早く長居の甫周を引ッつかんで近付けず、しばらくは両者とも動こうともしない。頼朝が「勝負をつけさせろ」 と命じたその瞬間、畠山は忽ち長居を打ち倒して尻の下へ敷き据えた。長居は足を踏ん張ったまま完全にのびてしまった。人夕は驚いて駈けつけ、長居に手当を加えたが、重患は悠々と座にかえって、一言もいわずに退下した。長居はこの一番の相撲で、重患のために副詞の骨を掴み砕かれて一生の不其者となり
「相撲とることもなかりけり、骨をひしぎにけるこそ、おどろきたることなり」
ということで、おわった。
相撲好き 織田信長
頼朝についでの大の相撲好きは織田信長で、陣中において暇さえあれば、武士に相僕をとらせて楽しんでいた。
元亀元年(一五七〇)上洛したとき、江州国中の力士を常楽寺に集めて相撲をとらせ、また天正六年(一五七八)安土城を築いたときも、江州相撲のほかに京都相撲をはじめとして、千五百人も大勢の力士を招き、古今未曽有の相撲大会を開催した。
何しろ朝の八時から、夕方の六時まで、まる一日御覧になっていたというから、その相撲好きも、ケタはずれである。百済寺大鹿、鯖江叉一郎、青池与左衛門などという強豪力士が「鴨の入り首」や「みず車」や、「捻り投げ」の奇手を用いて、華々しい相撲秘術を展開し、
優勝者の宮居眼左衛門には、手ずから秘蔵の重籐の強弓を与えた。
これが弓取式のはじめといわれている。
太閤記の三十六番御前相撲
豪傑毛谷村六助を秀吉が召抱えようとするが、自分と力をくらべて勝った者でなければ仕官しないという。そこで秀吉は力自慢の者を相手にさせるが、みんな六助に投げられてしまう。
三十六人目に出たのが木村又蔵で、ついに六助は敗れて又蔵の主君加藤清正に仕える。のちに六助は朝鮮に出陣して手柄をたてたあげく討死するという痛快物語は、芝居にもなって「彦山権現誓助太刀」で知られている。
明石志賀之助
講談で売り出した二代横綱 綾川
横綱の初代二代は後世になって誕生したため、実在した力士としては、史実に乏しく、いずれも講談の張り扇から叩き出された強豪伝説が巾をきかしていて、いまなお謎の横綱として君臨している。
明石志賀之助は約三百年前の寛永年間に出た大力士で、野州(栃木県)宇都宮の藩士山内主膳の一子鹿之助であるといい、また蒲生家の浪人、一説にはのち江戸に出て人夫になった
身長八尺三寸、体重四十三貫五百と伝わっているが、体格からしてすでに伝説的超人である。
寛永七年四谷塩町の笹寺で勧進元になって興行し、これが江戸勧進相撲の始まりといわれるが、どうも眉唾である。
寛永年間に朝廷のお召しにより、後援者の侠客、夢の市郎兵衛と同伴で京にのぼり、関仁王仁太夫と対戦した。
龍虎相打つ熱戦の末、みごとに仁王を土俵の砂にうずめて、日の下開山を名乗ることを許された。これにひきかえ仁王方は負けたのを遺恨に思い、明石を暗殺する機会を狙っていた。これをきいた夢の市郎兵衛は、明石を江戸へひそかに帰し、自分は黒総子の羽織に明石志賀之助と金糸で大文字を縫わせ、熊谷笠目深に長刀を背に負って、悠々京の町を同歩したので、さすの仁王もこれには手が出なかったという。
この物語は芝居でよく知られているが、ネタは江戸時代の講談本から生まれた。明石は力士として名をなしてから、諸国をまわり、長崎で門人を育成したことだけは確かな文献があるが、寛文(一八六一~二八七二)の頃の力士という説もある。しかしその終りはいまだにつまびらかでない。いずれにしても、大力士としての名声はのちの世までさまざまな伝説奇談を生み、もてはやされているわけである。
二代横綱の綾川は栃木市に生れ、六尺二寸、四十四貫。享保二年大関になり、ついで横綱になったというが、これもはっきりしない。現存する大阪番付では、寛保三年小結に記されてあるだけで、横綱どころか大関の記録もない。彼の名を売出した芝居、講談の『成田利生記』の筋は、綾川の愛弟子桂川力蔵が成田不動尊に祈願して怪力を授かり、みごと父雲ノ戸の仇を土俵で投げ殺し、二代綾川になったという一席。
綾川は江戸の名人力士として、当時なかなかの人気者だったことは事実で、ことに大阪ではすごい評判をよび、土俵へ上ると『綾川さま、綾川さま』と見物から声がかかったとあり、逸話も数多く伝わっている。
栃木市に枝川娃を名乗る遺族も現存し、同市の大平神社へ祈願をかけて、力を授かったという力石が石段のわきに残っている。綾川の墓は栃木市室町・定願寺の境内にある。
綾川の二代横綱を否定して、代りに初代両国梶之助を推す研究家もある。
両国は元禄十三年、京都で大関をはった記録があり、綾川よりかなりはっきりしている。
因幡と伯者の国境に生れたので、両国という名乗りをつけたという。身長六尺一寸五分、体重四十貫の巨人、非常な怪力で、五十貫目の大碇を二つ差上たり、大関の御用木が入っていた風呂桶を、そのまま軽々と持上げて傍へ移したという伝説もある。
怪力 権太左衛門
大相撲の歴史
横綱も三代丸山になると、その事歴がはっきりしてくる。非常な怪剛力士で、古本に彼の怪力奇談逸話はかずかぎりなく記されてある。頭に丸いコブがあって シコ名の由来といわれる。
丸山権太左衛門は宮城県登米郡の生れ、享保年間の力士で、身長六尺五寸・体重は四十三貫あった。
大阪天満の名家吉田氏が、ある日丸山を招いて彼の力をためそうとしたところ、同家にあった筧にする大きな竹を、めりめりとねじ切ってしまった。かねて大力とは話には聞いていたものの、大いに驚いた吉田氏は、この竹の上下を切って花入れをつくり、丸山筒と名づけて、大事に保存したという。また丸山の巨人ぶりについてはこんな話がある。
丸山が若い頃、はじめて仙台侯家老の家人として、江戸見物に上った時のこと、あまり体が重いので一日に二足ずつワラジを踏みきった。なにしろ丸山の大きな足にちょうどいいワラジはないので、宿については二足のワラジをつくり翌日の間に合わせたといい、日中疲れたので馬にのったところが、足が地面について馬が動くことができない。やむを得ず、一日歩きとおしては宿で草鞋をつくり、ようやく江戸へたどりつくことができたが、こんな有様では、とても故郷へ戻ることはできないと考えて、相撲取りになったという。
また、五斗米俵の先に太い筆をさして、それを軽々と持ちあげ、いろは四十八文字を書いたという怪力の持主、しかもなみなみならぬ風流人でもあり、後年雪中庵蓼太に師事して俳句をよくし、蓼太の撰にかかる「蓮華舎集」にも
一つかみいざ参らせん年の豆々
の一句が残っているほどで、決して総身に智恵のまわらぬ大男ではない。
さて、力士としての丸山は、享保十七年正月、深川八幡の大相撲で全勝して大関となり、寛延二年(一七四九)八月横綱となった。
生家
七間半もある母家は、江戸時代の豪農の面影を残している。
仙台伊達公に愛され、拝領の竹に雀の定紋つ5の羽織に黄金造りの太刀を落し羞しにして、旅興行にも出たというから、定めし見事な押出しでみったろう。
寛延二年十一月十四日、長崎での巡業中病気で死んだ。享年三十七才。
その墓は、長崎市の入口、一の瀬目見峠の道の傍、浩台寺の墓所に丸山塚としていまも残っている。
丸山堂 丸山歿後二百年祭に、村人の手によって建てられた、墓碑の右側が、少年時代に使用した石臼。
三代横綱丸山権太左衛門の肉筆肖像画(嵩月筆・中尾万一氏蔵)
長崎にある墓
巡業中長崎一の瀬において残し、同地の皓台寺墓所に葬られた。
丸山塚
生地宮城県米山町の菩提寺墓所にある。遺髪などを埋葬してある
釈迦ケ岳 しゃかがたけ
超特大の巨人として、またりっぱな大関力士として、江戸明和の頃、八百八町をさわがした釈迦ケ岳の存在は、相撲史上に愉快きわまる豊富な話題をのこしている。
釈迦ケ岳の大扇子
長さ2尺あまり、ひろげると半身が隠れる(石黒敬七氏蔵)
美人面の名手湖龍斎の描いた釈迦ケ岳の画像
明和のころ、彼の面影をつたえる唯一の似顔絵である。
釈迦ケ獄は明和年間の巨人大関力士で、身長は七尺四寸八分、四十三貫、道中ワラジの長さは一尺二寸五分あるという、実に威風あたりをはらう大男であった。相役史上に、一、二を競う実在した大型力士として、大関へ昇進し盛名天下にとどろかしたのはこい釈迦ケ獄一人のみである。
出雲国(島根県)に紺屋の倅として生まれ四つ頃までは普通の子供だったが、急に大きくなりだし、一ケ月平均三寸も高くなり、十五才の時すでに六尺四寸五分あった。下駄は松の木をひき切って、親がこしらえたという。こう大きくなっては、もはや相撲取になる以外飯を食っていく手段がないと、明和二年(一七六五)十七才のとき雷電為五郎の弟子になった。このときには七尺余もある巨大漁で、はじめ大阪で大鳥井と名乗り大関をつとめ、明和七年江戸へ出て一躍大関につけ出された。
大前髪の美童で、巨人にありがちな不器量でない容貌は、相撲の強さと共に江戸中の人気をわきたたせた。江戸の初土俵も、三役陣をはじめ達ケ関(のちの谷風)などの強豪を破り、六勝一預りの好成績をあげ、ただのウドの大木でないことを示し、奇を好む江戸っ子たちはどこへいっても、朝夕晩に彼の噂でもちきりであった。
その取口も豪快きわまるもので、巨大な手で相手心襟首の上をつかんで、そのまま吊し上げて土俵外ヘポイとほうり出したという。
また、彼の身長がいかに高かったかをつたえる話として、ある目、豆腐屋が朝寝をしていると、二階の雨戸をドンドンたたく者がいるので「いまごろ二階の戸を叩くのはどいつだ」と怒った家人が、戸をあけたどころ「おはよう」と、釈迦ケ嶽の大きな顔がのぞきこんだので驚いたという。また、ある老人が道を歩いていると、二、三町先にたくさんの人が集っている。近づいてみると腰から上しか見えない人間が歩いている。さては馬にでも乗っているのだろうと、人に間いたところ、あれは釈迦ケ嶽という力士であるとのことで、いまさらながらキモをつぶしたという。
あおむいて見よ丈六の釈迦ケ嶽
群集中に唯我独尊
とは、当時の六代木村庄之助の詠嘆ぶりである。
彼を召抱えていた雲州藩の松平不昧公が、ある夜、出入りの医者を呼んで邸内につれこませた。一室で待つほどに、ふり袖姿の稚児さんが、ウヤウヤしく茶を捧げて入ってきた。見ると、恐るべし七尺余の長身の稚児さんである。医者はキモをつぶして、「ばけもの屋敷だ!」とさわぎたてあとも見ずに逃げ帰ったという。不味公は釈迦ケ嶽を稚兄さんに仮装させ、医者を驚かしたわけである。また、大阪へいったとき天神様へ参詣にいき、境内の茶店で一腹し、立上って茶代をおくとき思わず屋根のひさしへ銭をおいたので、茶店の娘は手が届かずに弱ったという。
京都興行のとき、散歩の途中街なかで煙草の火がほしくなり傍の二階家をのぞき「ちょっと火を……」とその煙草盆から火をつけたというから、二階の人はさぞびっくりしたことであろう。体の大きなことの不自由さは、すえ風呂に入れば湯が溢れるし、便所には尻から入らねば用が足せぬというしまつだった。
大ゆかた 手をのばしてささげても裾が畳につく
(松江市・桑原太郎氏蔵)
彼は安永三年冬、西大関を最後として翌四年二月惜しくも二十七才の若さで歿した。歿後、八年後の天明二年に実弟の真鶴咲右衛門(後稲妻・幕内力士)が、建立した「身の丈石」が深川八幡社境内に現存することは有名である。
この碑は実測七尺五寸あり、彼の遺品は郷里に数多く残されているが、手形は長さ八寸五分、巾四寸、竹皮草履は縦一尺四寸という巨大なものであった。
生地大塚村の入口にある兄弟墓
右釈迦ケ岳、左稲妻(前名真鶴)墓の右側に刻まれた大手形ふつうの人の倍はある。
身丈石(みのたけいし)東京深川八幡宮境内にある、実弟の力士真鶴が建立した。
釈迦ケ岳の生家 島根県能儀郡大塚村にある、屋根など改築されて、昔の面影はない。
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