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間宮林蔵  鶴屋南北  十返舎一九 滝沢馬琴 

2023年08月27日 04時53分50秒 | 文学さんぽ

間宮林蔵 まみや りんぞう 1775~1844 樺太発見

 江戸時代後期の探検家、測量家。常陸(茨城県)生まれ。 16才ごろ江戸に出て、測量術を学びました。 1808年、幕府の命令で樺太(今のロシアのサハリン)のことを調べに出かけましたが、十分に調べられませんでした。そこでふたたび樺太に行き、樺太が島であることを発見しました。

大陸との海きょうは、のちにシ-ボルトが、間宮海峡と名づけました。

 18世紀末ごろから、幕府は北方の守りのため、最上徳内や近藤重版、伊能忠敬らに命じて、蝦夷地の探検や測量に力を入れました。

1800年、林蔵は幕府の命を受けて蝦夷地の測量をし、さらに千島列島を調査しました。1808年以降、数度にわたって北樺太の探検に従事し、さらに海峡を渡って太陸に入り、ロシアと清(今の中国)の国境黒竜江流域を調べました。探検家として輝かしい業績を残した林蔵でしたが、その後幕府の隠密(スパイ)になりました。シーボルトが、その著書『ニッポン』で、「われらが日本に滞在の終わりの不幸な年月中、日本政府の吟味を受けるようにしたのは、彼、間宮林蔵である」と述べているように、「シーボルト事件」の際、幕府天文方の高橋景保を密告したのは、林蔵とされています。林蔵は、隠密としても抜群の手腕を発揮したと伝えられています。

 

鶴屋南北 つるやなんぼく 1755~1829 江戸時代後期の歌舞伎作者

江戸歌舞伎を代表する名作『東海道四谷怪談』をはじめ、多くの作品を残しました。

 江戸(東京都)生まれ。 

3世鶴屋南北の婿養子として歌舞伎作者を志したものの長い間芽が出ず、1804年の『天竺徳兵衛韓噺(こくばなし)』が出世作となり4世を襲名しました。その作品には、自由かつ奇抜な発想が散りばめられ、それが観客の人気を博したようです。集大成といわれるのが『東海道四谷怪談』Jで、その作風は、河竹黙阿弥に引き継がれました。

十返舎一九 じっぺんしゃいっく 1765~1831 『道中膝栗毛』

 江戸時代後期、『道中膝栗毛』を書いた人。本名を重田貞一(さだかず)といいます。駿河(静岡県)生まれ。武士の家に生まれましたが、やがて勤めを辞め、江戸の本屋の世話になって、いろいろな読物を書きました。

特に江戸の駕籠屋、弥次郎兵衛と喜多ハが旅をつづけるようすを書いた『道

中膝栗毛』は、その後、『東海道中膝栗毛』と題を変えて、20年間も売れつづけました。

若いころに仕えていた小田切土佐守が大坂町奉行になったのに従って大坂へ行きました。まもなく辞職し、浄瑠璃などを書きました。しかしそれでは身が立たず、30歳ごろに江戸に帰って版元の葛屋重三郎のところに身を寄せ、やがて葛屋のすすめもあって「洒落本」と呼ばれる短編の小冊子を書き始めました。作品には一九の滑稽の才が生かされ、多作だったこともあって、その名は次第に広まりました。代表作の『東海道中膝栗毛Jが出るに至って、文筆のみで生活を支え得るという、当時では珍しい作者となりました。『東海道中膝栗毛』は、弥次郎兵衛、喜多八という江戸の住人がむだ口、洒落、狂歌などを言い交わしながら道中する物語で、1802年に初編の「品川より筥根まで」が刊行されて好評を得ると、さらに続編が書かれ、以後の滑稽本の指標といわれました。

 

滝沢馬琴 たきざわばきん 1767~1848

 

江戸時代後期の小説家。 28年かけて『南総里見八犬伝』を完成したほか、『椿説弓張月』など多くの作品を残しています。

 江戸(東京都)生まれ。曲亭馬琴ともいいます。最初は山東京伝に弟子入りし、主に絵を主体とする「黄表紙」の物語を手がけました。その後「読本」に転じ、次々と作品を著し、京伝をしのぐ人気作家となりました。

『南総里見八犬伝』は、勧善懲悪を主調とした構想の雄大な伝奇小説で、晩年失明した馬琴は、これを口述筆記によって完成させました。

 


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