原爆・民族独立運動の朝鮮人犠牲者
朴慶植氏著 一部加筆
広島・長崎の朝鮮人被爆者は十万人、そのうち死亡者が半数に達し、現在生き残りは二万人と推定されている。かれらの大半は戦時中、三菱重工業(三菱造船所、三菱機械製作所、三菱製鋼)、日本製鋼、川南造船所あるいは呉海軍施設部、軍需輸送労務などに集団的に強制連行されていったものたちである。
これらの朝鮮人原爆犠牲者・被爆患者に対し、日本政府当局、日本の大企業当事者は何らの責任も負わず、何らの保障も行っていない。
広島の三菱造船所徴用工の一人であった朴海君のケースを例にあげよう。
「故郷の父母は八月十五日の解放を迎えて、息子の帰るのは今日か、明日かと毎日駅に出て待っていたそうだ。しかし八月を過ぎ、九月を越しても戻ってこないものだから、原爆の犠牲にあったものと泣き暮していた。その父母の前に私が現われたのは十月一日だった。数日間外出せず、弱りきった体の回復につとめた。隣近所や元の勤め先に挨拶に行ったところ、みんな幽霊でも現れたかという顔をして驚くばかりだった。勤め先の裁判所では解放後一か月しても帰らないので原爆のため死んだとみなし、他の人を新しく採用したという。…………広島に行って苦労したこと、原爆の恐ろしいことを他人に話せば聞いてはくれるが、馬鹿にされ、笑いものになるだけのように思えた。こうしてルンペンの苦難の道が始まった。当時は私だけでなく、広島や日本各地から帰国した人がみんな味わねばならぬ苦しみだった。
とくに広島や長崎の原爆被害者は原子病で次々と病床に倒れていった。私も例外でなく、日がたつにつれて、消化不良や貧血症で床につくようになった。診察費や薬代で家の財産をつかい、年とった父母や兄弟に面目なくて幾度も自殺することを考えた」(朴秀馥、郭責勲、辛泳洙『被爆韓国人』)
一九三〇~四五年間、民族独立のために立ち上がった民族主義者・共産主義者をはじめとする愛国者三万余人が治安維持法・保安法などによって検挙投獄され、そのうち八・一五解放の日をみることができず犠牲となったものが多い。とくに中国東北地方で抗日パルチザンに参加した人たちは日本軍警の武力弾圧で多くの犠牲者をだした。
不十分な統計によってみても一九三二~四〇年に死亡者六五九三人、負傷者四万二五五二人、被逮捕者一万一二五〇人となっている。
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