そして里山林は今
『森と人間の文化史』只木良也氏著
一部加筆 山梨県歴史文化館 山口素堂資料室
里山林の収奪は、つい先ごろ昭和三〇年代はじめまで繰り返されてきた。そのおかけで里山は、マツ林に代表される植生的に貧しい景観から逃れることができなかったのであった。ところが昭和三〇年ごろから、化学肥料が出回り、石油やプロパンガスが普及して、落ち葉堆肥は下火となり、薪や柴も農村から締め出されることとなった。お爺さんは山へ柴刈りに行く必要がなくなったのである。
いま、里山の落ち葉掻きや柴刈りはほとんど姿を消した。現在の状態から、かつて農村の生命線であった落ち葉探りの利権を巡って、血で血を洗うような争いさえあったことなど誰が想像しうるだろうか。山仕事に出た人々の帰途の背にはいつも、休憩時間を惜しんで束ねた柴がずっしりと背負われていたものであった。いまもなお時おり、校庭に見かける二宮金次郎の像が背負うものは何か、子供たちへの説明に困る。すでに青年たちの中には、桃太郎のお爺さんは、芝生を刈りにいったと思っている者もいる現状である。
最近二、三〇年間に石油化社会は、星山と農地農村との文字通りの有機的なつながりを断ち切ってしまった。それで果たして良かったのだろうか。確かに農業生産性は向上したものの、それは化学肥料と農薬の多投のうえに成り立つものである。堆肥などの有機物が施されなくなった畑の土は、土壌特有の柔らかな構造を失い、作物が吸収する養分は化学肥料で十分すぎるほど与えられて、極端にいえば土は作物の根を支える道具と化した。
里山林の土壌にとって収奪がなくなることは有難いことである。実際に里山林が地力を向上させていることは、間違いなさそうである。しかしその一方で、昔のように人手が入らなくなった里山林は藪のようになった。ツルが巻きついて樹木を枯らし、抜き伐りされないために一本一本が細くて雪や風に弱い林となり、薪にも採られない枯木が病気や害虫の発生源になる。枯木、枯枝、枯草
などがそのまま放置されていることは山火事の危険も大きいことになる。常に人が山に入らないことは、例えば崩壊発生危険他の早期発見ができないことにもつながり、手当てされないままに突然の鉄砲水や土石流の災害を得ることになってしまう。
むかし農用林や薪炭林として使われ、今は使われずに放置されている里山林は、全国で五〇〇万ヘクタールともいわれている。全国の森林面積の五分の一に達するこれらの林は、無用の長物視されてすでにかなりの面積が宅地、工場、ゴルフ場などに開発されてきた。今後も開発予備軍としての価値しかないのだろうか。
里山は、都市と本格的な森林地帯の中間にあるところである。都市とその周辺はそれなりに緑化問題の対応があり、奥山はまたいわゆる自然保護で話題になる。それに対して、中間里山地帯は、注目されることの少ない真空地帯である。しかし、その存在を無視していいのだろうか。昔のような農用林としての利用を今の時代に勧めるつもりはない。薪や炭の利用を復活させろともいえまい。うまい利用法を考え、その存在意義が認められるようにすべきであろう。私としては、何の理由をつけなくとも、その存在価値は大きいと思うのであるが。
森林は日本文化の石油であった
人の収奪と森林との関係は、なにも農地と里山林との関係に限ったことではない。同様のことは人間活動のあるところ何処でも見られたのである。
技術が発達すれば、その建築資材としての木材と、大勢の人口を養うための燃料が必要である。一方、奥山でも鉄や銅をはじめ諸々の鉱産物を採って、それを精錬するのに大量の燃料(木炭)が必要であった。木炭生産の技術は鉱産物精錬のために、人里よりも山奥で発達しかとさえいわれているほどである。中国山地には、砂鉄精錬のために伐り荒らされた山々が、今なお広大な面積に跡を留めている。海岸では塩田の最終過程として、天火で濃縮された塩水を大釜で煮詰めるために、大量の薪が消費されていた。陶器を焼くのも薪であった。そして、家、家具、建具、農機具、織機、食器、容器はいうに及ばず、おりとあらゆる特に日本人が使ってきたのは木材であった。日本文化がけ「木の文化」といわれるが、文化が進み、人口が増え、人々の活動が盛んになればなるほど、森林は収奪される一方だったのである。
昭和三〇年代以降のわが国の活動と繁栄が、石油に支えられていることを否定する人はあるまい。だが、石油社会となる前の何千年にも及ぶわが国の活動を支えた物質資源と子不ルギー源は何であったか、それが森林であったことに気付いている人は案外少ない。ほんの三〇年ばかり前まで、日本人のほとんどは本の家に住み、本の道具を使い、街中でも風呂は薪で沸かされ、部屋の暖房は火鉢の炭火であったことを思い出せば、それは容易にうなずけることなのであるが。
日本文化の今日に至る長い道程の中で、いまの日本の石油に当たる役目を受け持ってきたのは、森林であったといえよう。その森林が、収奪を繰り返されながらも、そして荒廃していきながらも、何と加入破綻をきたすまでには至らなかったのは幸いであった。それは豊かな降水量と暑い夏が、森林の再生を促してくれたおかげであった。日本人と日本文化は、雨によって生き延びてきた、といえるのである。
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