千代田区 秋葉原(あきはばら)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
名物といわれるほど、江戸時代は火事が多く、江戸の市街は何度も焼土と化したが、幕府は防火対策の一つに、江戸の各所に火除地を設けた。この付近が火除地となったのは維新前後といわれ、同時に火伏せの秋葉神社を祀ったため、いつか秋葉原と呼ぶようになったと伝えられる。
明治二十三年(一八九〇)日本鉄道が原を買収し駅を開設、現在は地下鉄、都電、国鉄と立体化した近代交通の要衝となり、火除地のおもかげはない。
千代田区 旭(あさひ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田旭町は国鉄神田駅西側の地である。江戸時代の初期にここは鍛冶町、紺屋町などに続いて職人町が形成され、蝋燭町、鍋町などという町があり、威勢のよさや職人かたぎがこの職人町から生じたといわれている。さしずめこのあたりは「気っぷ」のよい神田っ子のふるさとにあたるわけである。その後しだいに職人町が崩れ永富町となり、明治二年(一八六九)町内に屋敷のあった秋田藩の家紋の日の丸から旭町としたという。
千代田区 淡路(あわじ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田淡路町は区の北部、駿河台が東に向かって下るあたりの地である。
江戸時代初期の寛永(一六二四~四三)ごろは万福寺、万念寺などの寺地が多かったというが、以後大名屋敷などの武家地もふえていったという。
明治五年(一八七二)一町をなすとき、淡路坂の名をとって町名としたもの。
昔、須田町一丁目(旧雄子町)寄りに堀丹後守の屋敷があり、俗に丹後殿前と称し、付近の湯女風呂は丹前風呂と呼ばれて賑わい、独特な風俗を生み、丹前の語源となったという。
千代田区 飯田(いいだ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
飯田町は区の北端にあり、一・二丁目に分かれる。
徳川家康が江戸へ入府のころ、江戸城の地域を視察の際、この付近に部落があって、そこから飯田喜兵衛なる者が供をし、説明役をして以来、地名が生じたと伝えられる。
町の東辺を外濠川が南流し、これに沿って、東京の三大貨物専用駅の一つである、飯田町貨物駅が広がり、町の半分くらいを占めている。
千代田区 和泉(いずみ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田和泉町は区の北端、台東区に接する地で、区画の小さな町が並ぶ神田地区東部にあっては、珍しく広い一角を占めている。
これは江戸時代、南の佐久間町から北の台東区御徒町・二長町などにかけて町屋はまったく発達せず、各大名の広大な屋敷や幕府諸役人の武家屋敷で占められた地だったためで、市街地として発展したのは明治以後のことである。
ここも藤堂和泉守屋敷があったため、明治五年(一八七二)に町名としたもの。
千代田区 一八稲荷(いちはちいなり)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田多町二丁目にある。
江戸時代神田は清澄な湧水が多く、このあたりも湧水があり、その守護神であったという。
また三代将軍家光が幼少のとき眼病をわずらったが、乳母の春日局がその全快を願って洗眼の水を汲みに行ったのが、この稲荷の湧水であると伝えられる。名の由来は不詳。
一の日、八の日の縁日によるともいう。
千代田区 一丁ロンドン(いっちょうろんどん)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
丸の内三丁目から二丁目にかけて、馬場先寄りに建ち並ぶ赤煉瓦街の古い俗称である。
三菱本社がそれまで三菱ケ原と呼ばれ、丈余の雑草の茂るにまかせた丸の内に、第一号館の建設に着工したのは明治二十五年(一八九二)一月。二十七年(一八九四)竣工したが、これは当時の外務省御雇英国人ジョサイア・コンドルの設計になるもので、その後同様の英国風赤煉瓦ビルが次々と竣工した。
街の一角に立つと英京ロンドンを思わせることから、当時の人々が俗称したと伝えられる。
千代田区 今川橋(いまがわばし)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
江戸時代の神田、日本橋の境をなす神田堀にかけた橋で、今の神田鍛冶町一丁目にある都電停留所近辺の俗称になっている。
堀は元禄四年(一六九一)にできたといわれるから、橋もそのころにかけられたものだろう。
橋名もこの地の名主だった今川善右衛門の姓をとってつけたものと伝えられる。
当時は日本橋通町方面へ続く繁華街だったが、今も神田から日本橋ヘビル街衛の続く賑やかな地域である。
千代田区 岩本(いわもと)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田岩本町は区の北東部、神田川沿いの地である。
江戸時代の初めごろは沼地で、土地の人々は雁淵と呼んだといい、寛文年間(一六六一~七二)に武家屋敷などができたといわれる。
岩本町の由来は伝えられていないが、本町は元来岩本町の代地だったもので、明治維新後、付近を合わせて正式に岩本町としたもの。
昔は神田川に沿って束に続く柳原は古着商が多かったが、今は岩木町を中心に既成服問屋が集まっている。
千代田区 牛込門(うしごめもん)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
江戸城外郭の北方の見附で牛込見附の地名が残っている。
寛永十三年(一六三六)の築造といわれ、昔このあたりは楓(カエデ)の林が多かったので、付近の人
は、俗に紅葉門と呼んだと伝えられる。
現在はわずかに城門の石垣が残るのみで、城濠もボートが浮かび、釣人が糸をたれる風景が見られ、昔
のおもかげはない。
千代田区 内幸(うちさいわい)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
区の南端にあり、一・二丁目に分かれる。昭和の初期までは江戸城外郭の濠にかかる山下橋内の地域だったので、内山下町と呼んでいたが、江戸時代までは同じ外濠にかかる幸福の内側ということから幸橋内と称し、寛永(一六二四~四三)ころからこの称があったという。
地名は内山下と京橋内から頭の一字ずつをとって内幸町としたといわれ、日本放送協会や国税庁のある町として知られている。
千代田区 内濠(うちぼリ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
皇居(江戸城)を囲む濠で、大田道濯のころは人工で濠を造るなどという築城技術は進んでいなかったので、前面は海が迫り、背後に平川の流れが濠の役目をするという天然の地形を利用しただけだったが、徳川家康が江戸城に入城してから修築工事が進められ、三代将軍秀忠の慶長十年(一六○五)から翌年にかけて、諸大名を動員して沼地を掘下げ石垣を積み重ねたりして、江戸城防衛上重要な濠の工事が行なわれた。
伊達牧宗はじめ主として東北地方の外様大名が工事を分担させられたという。
いま人々が内濠・外濠と何げなくいっているが、この当時は内濠・外濠の名称はなく、明治時代に千代田区飯田町から市ケ谷見附、四谷見附を通る甲武鉄道(今の国鉄中央線)が開通して以来、いつしかこれを外濠線と呼び、また濠の反対側を通る都電(当時の市電)をも外濠線と呼んだりして、いつの間にか外濠・内濠の称ができたという。石垣の松の緑をうつして都心に美しい眺めを作り出している皇居周辺の濠は十四あり、水深約二・三メートルの桜田濠がもっとも深いという。
千代田区 江戸城(えどじょう)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
『新編武蔵風土記稿』によると
「--------平家全盛の頃当国に秩父別当重弘と云者あり、其の庶子重綱始て江戸とする、其の子太郎重長は知承四年間石橋合戦の後頼朝当国に来りし時始めて典麾下に属せ」
とあり、約八百年前に秩父平氏の一派が江戸の地にいて栄え、源頼朝が覇権を握った後は仕えて重んじられ、領地も現在の千代田区を中心に、台東、文京、新宿、港の各区におよび、水陸交通の要点を占めて人家も集まり繁昌した。
その後数代にわたって江戸に居住したという。
後、康正二年(一四五六)扇谷上杉の臣で川越城主だった太田道濯がここに築城、翌長禄元年(一四五
七)四月に完成した。当時は室町時代の中ごろ、関東は東方部の豪族の多くを勢力下におさめた古河公方と管領上杉氏とに分かれて争闘のたえまのないときで、道灌は管領方の有力者だったといわれる。この彼が江戸を築城の地として選んだ意味はどこにあったかを考えてみると、
まず昔の利根川の流路が今とちがっていたことを注意する必要がある。
利根川はそのころ荒川と合して下流は隅田川となり、江戸(東京)湾に注いでいたが、管領側はだいたいこの川の西側に基地を連らね、川を前後にして東北に向かって備えていた。
つまり扇谷上杉持朝は川越に、道灌の父太田道真は岩槻に築城、江戸城はこれと結び、さらに本拠である南の鎌倉と連絡していた。
これに対し、古河公方はその東方の渡良瀬川から下流の太井川(今の江戸川)の東側に城を連らね対抗、両河川の中間地域が合戦揚となることが多かったという。
以上のように江戸城は管領方の重要拠点の一つとして江戸湾に臨み、関東第一の大河の河口を押さえ、東方に公方がたの有力者千葉氏と相対し、さらに鎌倉街道がここを通過して交通上にも戦略的にも非常に重要な地点だったといわれる。
また築城された位置は、後代の江戸城本丸、現在の大手門からはいった奥の高台の所にある平河門が正門となり、城地は文献によるとさして広くはないが、子城、中城、外城と三郭を有し、周囲に深い濠をめぐらし、二十五の石門があり、そのおのおのに橋がかけられて、すでに近世の城郭様式をよく備えた名城といわれ、規模は小さかったが、これが江戸城の揺籃(ようらん)である。
その後文明十八年(一四八六)まで約三十年間、道灌は江戸城主として四方に勢いを振ったが、それ以
後、徳川家康入城までの城主は、
文明十八年~永正二年(一四八六~一三〇三)
曾我豊後守、永正二年~天来四年(一五〇五~二四)
上杉朝定およびその子朝興、大水四年~天正八年(一五二四~一五)
遠山丹波守となっている。
徳川家康が入城したのは、道濯の死後約一〇〇年後の天正十八年(一三九〇)。
その後慶長八年(一六〇三)宮座が征夷大将軍となり天下の権を握るにいたって、大修築が行なわれ、全国六五大名を動員、同十一年(一六〇六)に一応の工事は終わったが、その後も修築は行なわれ、慶長、元和、寛永と約三十年後の寛永十三年(一六三六)、三代将軍家光のときに、江戸城の総構えが完成したと伝えられる。
江戸城の規模
城の規模は東西約六キロメートル、南北約四キロメートル、螺旋形に三重の濠が囲み、城門を配した濠の延長は約二五・五キロメートルにも及ぶ。
城内は大小六六門を設け、外郭に三六見附を構え、門と門の間は多聞塀がめぐらされ、またそれらの間
に十九基のやぐらが配置され、さらに本丸の北隅に天生聞がそびえていた。
皇居
明治三年(一八七〇)明治天皇行幸とともに江戸城は皇居とされたが、同六年(一八七三)大火により
焼失し、同二十一年(一八八八)再建成って宮城と称したが、第二次大戦によってふたたび焼失した。
現在城内九六万平方メートル、二重橋のほか六門がある。
千代田区 大手(おおて)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
大手町はI~二丁目に分かれる。
由来は江戸城の総玄関にあたる大手門の門前に広がる地域だったためこの名があり、江戸時代は大名屋敷が建ち並んでいた。
大手門は勅使参向、将軍出入、諸侯の登城など必ずここを通った正門で、警備の格式高く、十万石以上の譜代大名がこれを勤めたと伝えられ、構造壮大で枡形城門の標本といわれたが、借しくも戦災で大破した。が、現在残る左右の石垣と枡形は伊達改宗の築造と伝えられ、現在この付近は東京の代表的ビル街となっている。
千代田区 小川(おがわ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田小川町は区の北部の地で三丁目に分かれる。
江戸時代は神田の西部をかなり広く小川町と称したが、これは昔、小日向台あたりから流れる小川が小石川と合して、現在の駿河台下から飯田町に及ぶ平地を流れ、一つ橋あたりでお濠に注いでいたため、江戸初期に武家屋敷が建ちはじめ市街地ができると、この流域一帯を小川町と称したといわれる。
現在は駿河台の学校街に関連ある商店街で賑わっている。
千代田区 お玉ケ池(おたまがいけ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
北辰一刀流の開祖千葉周作がその付近に住んでいた、講談でおなじみの池である。
昔は奥州街道が通り桜他といったが、街道の茶店の娘お玉が悲恋の果て池に投身してから、この名が起こったという。今は他の跡もなく、神田松枝町二十三番地がその所という。
千代田区 お茶の水(おちゃのみず)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
国電ホームの対岸の崖のあたりに、江戸時代初期に高林寺(現在蓬莱寺)という寺があり、その境内に情況な湧水があり、将軍がお茶をたてるのに用いたところから地名が起きたというが、
二代将軍秀志のころ(一六〇五~二三)には江戸城内外の濠割の工事が進められ、湧水は濠の中になってしまったのでこの名水で茶を飲んだのは徳川家康だけというわけである。
現在は崖の途中に幾つかの湧水が昔の面影をわずかに伝えている。
千代田区 鍛冶(かじ)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
神田鍛冶町は国電神田駅を中心に広がり、一~三丁目に分かれる。
このあたりは日本橋通りの延長されたところで、慶長年間(一五九六~一六一四)、江戸時代初期に町
屋として聞かれたところである。当時幕府鍛冶頭・高井弥蔵や鋳物師・椎名伊予の拝領地で、築城用金物はじめ建築用金具、鐘などを製造させるため、鍛冶師、鋳物師、釜師を付近に集め、この地は鍛冶、鋳物の一大工場地帯をなしていたと伝えられる。
鍛冶橋(かじばし)
丸の内三丁目、国鉄線東側の中央区に接する交差点のあたりをいう。旧江戸城をめぐる濠にかかる橋からきた名で、江戸時代初期までは無名の木橋であったといわれ、その位置も今より北寄りで馬場先への通路と食い違っていたという。
ここに枡形(城門の一種)ができたのが亨保六年(一六二九)。
橋も南へ移り、道路と一直線となり、丸の内方面から鍛冶町へ通じるので鍛冶橋と呼ばれるようになったが、今は地名を残すのみである。
千代田区 霞ヶ関(かすみがせき)
『江戸東京地名辞典』
菊池秀夫氏著 雪華社 昭和40年刊
霞ケ関は区の南端にあり、皇居の桜田門から南へ一~二丁目に分かれる。
昔、日本武尊(ヤマトタケル)が蝦夷征伐のとき、ここに関を設けてその侵入を防いだといい、
大和から温かに雲霞をへだてる地であったので、その名が起こったと伝えられる。
また往古このあたりに奥州古街道が通り、ここに霞ケ関と呼ぶ関所があったから名が残ったといわれるが、霞ケ関の地は諸説があり、武蔵・多摩地方の各地に分布してはっきりせず、古い文書には、このあたりを桜田郷としているのもみられる。
江戸時代は諸大名の屋敷が立ち並んでいたが、今は司法機関・行政機関の並ぶ官庁街で、特に戦前から
ある外務省の代名詞として、霞ケ関の名は国際的にも知られている。
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